下のバーの▷をクリック! アルゼンチンの非営利映画サイトCinemargentinoより
ナチス残党員とホロコーストの生還者の両子孫が育ち、混じりあうアルゼンチン
ナチス指導者の娘ヒルダがかたる物語(2013年、10分、英語字幕付き)
ヒルダ
脚本・監督:ダニエラ・ゴルデス
アルゼンチンの非営利映画サイトCinemargentinoより
これはヒルダの物語、第二次大戦後ドイツから南米に逃げたナチスの指導者の娘。
ヒルダと家族はロシア軍によってシベリアに送られ、収監された。ヒルダはロシア軍の病院で働いた。いつの日か父が逃げたアルゼンチンに行きたいという夢を胸に、退職するまでそこで働いた。
ドイツのデュッセルドルフで生まれたヒルダ。父親が軍の指導者だったため、戦争中はベルリンにいた。それで戦争が終わると、ロシア軍によって家畜列車に積み込まれ、シベリアに送られた。そのときヒルダは六歳だった。ヒルダは言う「わたしは一生ファシストでした」。
ロシアでヒルダは三年間牛舎で暮らし、母親は寒さから胸を患った。その後に街に土地を得て、家を建てた。「シベリアには森がたくさんあった。それで木を切って家を建てた。学校に行ったけれど、警察(軍)に断りなく、一ブロックでも遠くに行ってはいけなかった。ロシア人との接触はほとんどなかった。自分にとっては、ロシア人よりアフリカ人の方がずっとよかった。ロシアでは人が飢えや寒さで死んでいた」
ヒルダの父親は戦後、エストニアに行った。ヒトラーの仲間はみんなエストニア近辺にいた。そこで船に乗り、ドイツ人に門戸を開いたペロンのアルゼンチンに逃れた。父親はラ・クンブレシータに行く。
戦後45年たって、退職したヒルダはアルゼンチンに父の情報を求めて発つ。ラ・クンブレシータに着いてある家のドアをたたくと、九十歳くらいの老人が出てきた。父親の写真を見せると、その人は「ジョージ!」と言ってドアを閉めた。「わしは何も知らん、帰れ帰れ帰れ!」そう言って追い出された。あとになって出会った女性は、ここで死んだドイツ人たちの墓を見せてくれた。名前はないただの石の墓。ラ・クンブレシータで六人が死に、一緒の墓に入っていた。
ラ・クンブレシータは両大戦間の1934年にヨーロッパ移民によってつくられた町。1945年、国際逮捕手配が出ていたナチス残党員は、身分を偽って南米に隠れ住んだ。第二次大戦前に逃れたユダヤ人やホロコーストからの生還者の多数も、ラ・クンブレシータのあるコルドバ州に移り住んだ。そしてこの地で、両子孫が育ち、混ざりあっている。
ヒルダは2013年7月26日、アルゼンチンの地で、父親の墓から数キロのところで、73歳で亡くなった。
ヒルダのうたっていた歌
この地の美しさを見るのが好き
靄を見るのが好き
太陽が昇りすべてが目にみえる
空高いところ いつかそこにわたしは住む
神はすべてを与えてくれる 世話をするのはわたしたちの努め
神がこの地をつくったとき すべては闇だった
でも神が光をあたえた 太陽、そして星と