エボ・モラレス

リカルド・リジエス 著

ニック・ケイスター 英訳より
日本語訳:だいこくかずえ

1.

  最初にエボ・モラレスとコーヒーをともにしたのは、まだ彼がボリビアの大統領に当選する前で、わたしの方も世界チェス選手権のタイトルを取るずっと前のこ とだった。オーストラリアにいる兄を訪ねた母が、家に向う帰路のことである。母はブエノスアイレスで飛行機を乗り継いで、ブラジルへ向かっていた。予定の 到着時間の少し前になって、わたしはその便が二時間ほど遅れることを知った。時間をつぶすため、コーヒーでも飲もうと思った。カウンター席で、二杯目の コーヒーを頼もうとしたとき、奇妙な人物が隣りに座っていることに気づいた。
 背の低いずんぐりした男が、南アメリカの先住民が着る典型的なポンチョ姿で、ウェイトレスになれなれしく話しかけていた。明らかに嫌そうな顔をして、女 の子はその場を立ち去った。選択の余地なく男は取り残され、それでわたしにどこに行くのか、と訊いてきた。わたしは母を待っているんです、と説明し、こう 彼に訊いた。あなたはどちらへ、ペルーの方ですか?
 わたしのポルトガル語をちゃんと理解しているのが見てとれた。いいえ、とエボ、わたしはボリビア人です。わたしの関心を察知したのか、エボはわが共和国 の大統領に立候補したいと思っていまして、ここの社会運動の指導者たちに会おうと、ブラジルを訪問していたのです、と告げた。エボは中でも、ブラジルの草 の根組織「土地なし農村労働者運動」に感銘を受けたようだ。その陣営の一つを訪ねたときのことを、エボが笑顔を見せて語ったことを覚えている。
 わたしは二、三さらに質問して、それからわたしたちは別れの言葉を言いあった。エボが飛行機に乗る時刻だった。その話を母にすると、あたしも飛行機に乗 るたびに変人と出くわす気がする、と言った。飛行場にいると、そういうことはよく起こるということか。
 二年後、テレビでエボ・モラレスを見て、わたしはびっくりした。わが友は、ボリビアの歴史で初めての先住民出身の大統領になっていた。

2.

  二度目にエボ・モラレスに会ったのは、パリのシャルル・ドゴール空港の乗り換え区域でのことだった。わたしはハンティ・マンシースクという小さな町に、チェスワールドカップで行こうとしていて、モスクワまで国際便で飛ぶところだった。輝かしくも著名なわが友は、パリでの会議から帰国するところだった。
 エボはわたしのことがわかったようで、カフェの中から手を振ってきた。店の中に入り、彼の当選を祝ったあとで、わたしは彼がチェス選手として必要不可欠 な美点、「記憶力」を持っている、と冗談を言った。エボは声をあげて笑い、自分は駒の動かし方一つ知らないと返事した。次に会ったときには、ぜひ教授しま しょうとわたしは約束した。わが友は喜びをあらわにして、大統領職に就いたらすぐにでも、ボリビアにできる限りのチェス競技の支援策を講じたい、と言った。
 この男と知り合えてなんていい気分だ、と思ったがすぐに、わたしはがっかりした。彼は今はもうボリビアの大統領、旅をするときはプライベートジェットに 乗るのだろう。エボは笑ってこう言った。ボリビアはそんな贅沢が許される国じゃないですよ。ブラジルのような国しか、そんな特権は行使できません、と。
 エボはわたしの職業について、もっと知りたがった。わたしはこう言った。小さな頃にチェスを始めたんです、精神分析医の勧めで、競技をすることで引っ込 み思案が直る、とね。わたしはとても内気な子で、学校でも友だちができず、自室にこもって過ごすのが好きだった。チェスをするために外に出るようになれ ば、他の子どもたちと接触する機会が増える。
 両親は最初にサッカーを、それからバスケットボールをやらせた。それはわたしの背が高かったから。チェスを教えてくれたのは、レバノン移民で、工場をた てて布地を売って財産を成した祖父だった。祖父はわたしにチェスの才能があることに、すぐに気づいた。その後、わたしはチェス教室に通い、九歳のとき最初 の競技に出場した。
 エボはわたしの話にひどく興味を持った様子を見せた。別れの言葉を言いあうとき、エボはわたしの幸運を願うと言い、次に会ったときは、チェスを教えても らいたい、と付け加えた。わたしはエボが真面目に言っていると受け取った。

3.

  モスクワまでのフライトは、これといったこともなかった。コンピューターで、最初の対戦者に対する出だしの手を考えていた。それは若いルーマニア人で、か なり将来性があるように見えたが、わたしと対戦するのは簡単ではないと思っていることだろう。その男にわたしは親近感をもっていたが、それはチェスの名人 であるわたしの、若き日の頃を思い起こさせるからだった。
 旅の残りの時間は寝て過ごし、起きたときは飛行機の左手にロシアの首都が見えていた。コーチのマルク・ドヴァリエツキと出口ホールで会うまでに、たいし た時間はかからなかった。ハンティ・マンシースクに行く前に、ここで三日間、彼と過ごすつもりだった。
 ここにはあの男はいないとわかっていながら、五メートル歩くごとに、エボ・モラレスの姿を探して、周りを見まわしていた。二度ほど、エボがいると思った が、すぐに間違いだとわかった。その勘違いは、ラテンアメリカ人はどこにでもいて、モスクワのドモジェドヴォ国際空港の凍りつく駐車場にさえいる、という ことを示しているだけだった。
 わたしが話す気分じゃないと見て、親しみをかもし出すおかしな英語で、ドヴァリエツキが何か言ってくることはなかった。唯一、太ったのか、と訊いてきた けれど。わたしが驚きを見せると、ドヴァリエツキはわたしの頬が少し丸くなったように見えると言った。
 ドヴァリエツキのアパートで、ベッドに倒れ込む前に、自分の頬が少し膨らんでいるのは事実だ、と悟った。だがそのことに、わたしはたいして注意を払わな かった。翌日、ドヴァリエツキは、前回のトレーニングからの素晴らしい進歩は、わたしの膨らんだ頬のせいに違いない、と言った。彼によれば、わたしの解析 能力はまだまだ伸びる、というのだ。チェスワールドカップで勝たないわけがない。その日の終わりに、寒さにもかかわらず、わたしはどこかに行ってコーヒーを飲もうと 主張した。

4.

 ドヴァリエツキがわたしを連れていったカフェに、エボ・モラレスはいなかった。ひどくがっかりしたが、わたしはベストを尽くそうと、ワールドカップに全精力を注いだ。試合は七回戦まであり、各回二試合が組まれていた。
 ウクライナのチェスの巨匠ヴァシリ・イヴァンチュクに2-0で勝利すると、わたしは優勝を確信した。競技というものを知る者は、自信がいかに大切かわ かっている。それに加え、勝者というのは、特別な感覚を知っている。競技のある時点で、勝ちに向かっていることをわれわれは自覚する。敗退するときとは大 きな違いだ。負けるときは、そうなったとき初めてそれに気づく。 
 イヴァンチュクのあと、わたしは勢いのないトバロフに勝ち、決勝でアメリカ人のレボン・アロニアンと対戦した。第一戦は厳しいものになった。終盤戦で追 いつめられ、なんとか引き分けた。第二戦、わたしは後手にまわっても、主導権を握るのに問題はなく、ゆっくりと勝利を叩きだした。
 その夜、ホテルに戻ってから、わたしの勝利を喜ぶ家族に電話した。姉はインターネットで結果を見ており、いつもわたしのためにあらゆる手助けをしてきた 母親は、大泣きしていた。その後、ブラジルにいる支援者たちに三、四件メールを書き、ドヴァリエツキからの電話を受け、最後に自分ひとりに戻った。
 ひとたびそれに慣れてしまえば、ひとりでいることは悲しいことではなくなる。それは寒さのようなものだ、たとえばの話。ただ慣れるだけのことだ。経験を 積んだ者は、(寒さをしのぐにも寂しさをしのぐにも)やるべきことは、眠りに落ちるまで羽毛布団の下にもぐりこむこと、あるいは、反対に起きて動きまわる こと、と知っている。その夜、わたしはハンティ・マンシースクの町に、カフェを探しに出ていく決心をした。

5.

 ホテルのボーイは、わたしが外に行くというと驚きを見せた。ひどく寒いですよ、とボーイ。耐えがたい寒さです、ホテル内で、レストランでもお客 様のお部屋でも飲み物をお出しできますが。わたしがそれでも外に行くと言うと、町に一つだけあるカフェを教えた。
 そこはそれほど遠くはなかったが、そこまでの道のりに、楽しめるものは特になかった。凍るような寒さは別にして、ロシアの冬は、夜、奇妙な音がしてい た。わたしは走るようにしてカフェに向かった。
 カフェは空っぽというわけではなかったが、たくさん人がいたとも言えない。二人の老人が店の奥でチェスをしていた。三人の男が何かいかがわしそうな商談 をしていて(シベリアには結構な数の武器の密売人がいる)、妙な組み合わせの若いカップルがバーでいちゃついていた。
 わたしはスープを注文した。大量のパンがいっしょについてきた。それを食べているとき、ワールドカップでのわたしの優勝を告げるテレビを目にした。少しならロシ ア語がわかるので、司会者がアロニアンとの最後の対戦で、わたしが辛抱強く戦ったことを誉めたので嬉しくなった。カフェにいる誰も、わたしがチャンピオン とは気づいていなかった。カウンターの向こうにいる男だけ、テレビを見ていた。そしてウラジミール・プーチンの顔が、わたしのものと入れ替わった。孤独は勝利の喜びも憂鬱に変えてしまう。わたしは自分が、世界一のチェスプレイヤーだとは思えないことがある。

6.

  ワールドカップと世界チェス選手権の挑戦者決定試合の間に、準備期間が三か月ほどあった。ドヴァリエツキがわたしをモスクワの家に招いてくれた。彼は(言わずもがな)世界一のトレーナーだが、わたしはブラジルに帰ることを決めた。パリの空港では、コーヒーを提供するところにあちこち寄ったが、エボ・モラレスと出会うこと はなかった。
 ブラジルへの飛行機の中で、学生コンテストの頃からわたしの試合を追ってきた女の子と出会った。当然のことながら、チェスワールドカップでのわたしの優勝を熱意をこめて祝ってくれた。ブラジルの空港に着いたとき、いっしょにタクシーに乗らないかと言ってきた。彼女を招いてその夜を過ごすことを考えてみたが、結局そ うはしなかった。
 サンパウロで二週間ほど過ごしたのち、思いついて、残りの準備期間をブエノスアイレスで過ごそうと決めた。三日後、エセイサ空港の全域を二周した。エ ボ・モラレスと会うことはなかった。大統領の飛行機についてわたしの思っていたことは、正しかったのではと思いはじめた。エボ・モラレスは空港のVIP区 域にいるのだ。
 がっかりして、二、三日後にブラジルに帰った。およそ一ヶ月もの間、わたしは南米大陸を行ったり来たりして時間を浪費していた。チャンピオン挑戦者決定試合で優勝候補だとはいえ、勝つのはそれほど簡単なことではない。世界の名だたるツワモノである対戦相手たちは、チャンピオンになる資格が手に入るとなれば、いつも よりいい試合をする傾向があった。わたしは一位を確保してはいたが、公式戦でさらに勝つ必要があった。ウラジーミル・クラムニクが今も王者だった。
 次の二ヶ月間、ブラジルで潜伏して過ごした。いつものように、わたしはアシスタントなしで出かけようと決めていた。競技が行なわれるメキシコに 発つとき、わたしは自信にあふれていた。空港の到着ロビーで、エボ・モラレスがわたしに手を振ってきたのを見た瞬間、さらに勝利が確信された。

7.

  わが偉大なる友、エボ・モラレスとわたしは、二時間に及ぶおしゃべりをした。わたしに祝福をしたあとで、彼は親しみをこめて、わたしの頬がふくらんだよう に見えると言った。わたしは声をあげて笑った。彼を困らせないよう、それについて何もいわなかったが、エボはわたしが今まで会った中で最も頬が丸々とした 人物だ。
 チェスワールドカップでのわたしの勝利について、わたしたちは少し話した。それについて彼が耳にしたと言ったとき、わたしは幸福感につつまれた。彼の側近の一人 が、わたしたちの会話にとても興味をもっているようだと気づいた。彼はチェスを知っているからだ、とエボが説明した。わたしは試合がどのように運ばれたかを話し、戦略を解説し、チャンピオン挑戦者決定試合に勝てたらどれだけ素晴らしいか、と言った。
 エボはうなずいた。世界チャンピオンの友をわたしは持つんだな。それは確かだと思い、彼と友だちで本当によかったと感じた。世界タイトルをなんとか手に したら、あなたに一つか二つ、試合を見に来てもらえたら、とわたしは言った。いいですよ、でもルーラ(当時のブラジルの大統領:2003年 - 2011年)が焼きもちを焼きませんか?
 わたしは少しの恨みがましさも見せずに答えた。ブラジルがチェスを支援したことはないんです。実際、サッカーへの期待のせいで、他の競技に関しては草の 根的な体制をもったことがない。エボが眉をひそめ、真剣な顔つきで、それではどうやってわたしが世界的なチェスプレイヤーになれたのか、と訊いてきた。
 わたしはチェスにおいては、あるレベル以上になると、個人の才能が重要なんです、と説明した。しかし、どうやってそのレベルに達したのですか? 家族が 金持ちだったからと答えるとき、気後れすることはなかったと覚えている。祖父は繊維製品で運を当てた。それを聞いて、エボが側近の方に厳しい視線を投げか けた。エボの丸々とした頬が赤く染まった。サンパウロでは、たくさんのボリビア人が、エボがかつて働いていたような工場で、奴隷のような労働条件でつかわ れていた。でもわたしの家族は、そういった経営はしていない。最近は投資や不動産の売り買いで生きている、そうわたしは強調した。別れの言葉を口にしたと き、エボは再度わたしの幸運を願い、ボリビアにチェスの草の根体制をつくりに、手助けしに来てほしいと言った。

8.

  わたしはチャンピオン挑戦者決定試合で、たいした困難もなく優勝した。予想に反して、一番やっかいだっのは、アレクセイ・シロフだった。ある時点で、これは負けかる かも、とさえ感じた。冷静にその試合を分析しなかったが(コンピューター上にいまだに置くこともしていない)、ある時期が来れば、彼が勝つであろう。その とき、五秒間で三手打つ間に、シロフは間違いを犯し、一つの手でポーン二つを失って勝負を落とした。
 トーナメントのあと、わたしは頬がかなり膨らんでいるのに気づいた。
 ブラジルに戻ると、あるヨーロッパの通信会社から、世界チェス選手権の準備のためのスポンサーになりたい、という知らせを受けとった。わたしに課せられ た義務は、準備の最後の一月をスペインで過ごす、ということだけだった。すぐにわたしは申し出を受け、ドヴァリエツキに準備期間と試合をともにしてくれる よう頼んだ。
 ブラジルでは、二、三のインタビューをこなし、あとは準備に没頭した。クラムニクはわたしにとって、決して簡単な相手ではなかった。彼が王座をとって優 位な立場に立っていたので、同点にでもなることを考えれば、厳しい訓練は必須だった。しかしわたしはボリビアとの約束を放っておきたくなかったので、大統 領の公式ウェブサイトにあった正しいと思われるアドレスに、メールを送った。返事が来ないので、ラパスの大統領官邸にいるエボに電報を打つことにした。



      親愛なる エボ チャンピオン挑戦者決定試合 勝利 王座めざして 頬 ふくらむ いつも
      ボリビア チェス組合 体制 つくりたい いっしょに チャンピオン めざそう 友よ 
      ドイツ 6月 タイトルの試合 見に来て コーヒーで 会おう あなたの 親友より



 二ヶ月がたったが、エボは返事をよこさなかった。それで一週間ほど、ちょっと休みをとろうとヨーロッパに行くことにした。

9.

  ドヴァリエツキはわたしの小旅行を許可した。一週間の休暇で、マドリードとパリを訪れるつもりだった。トレーニングのスケジュールを七日ではなく、十日間 中断せねばならない、とわたしは彼に言い張った。ドヴァリエツキはしぶしぶ承知した。わたしはマドリードのバラハス空港に、朝の八時に降りたった。空港の カフェはどこもいっぱいだった。わたしはエボ・モラレスを探して、すべてのカフェをまわった。正午までに何か食べておくのがいいだろうと思い、エボが空港 に降りたつまでの時間をつぶした。エボが飛行機を降りてくるのを待ちながら、メールをチェックした。午後二時になって、わたしは再び彼を探したが、空港の どのカフェにもエボはいなかった。レストラン、空港のショップ、トイレの中まで探してみた。よくない兆候として、胸の下の方が痛みはじめた。わたしは夜の 七時にバルセロナに飛ぶ手配をした。それはエボがそこに行ったと耳にしたからだ。しかし十一時までの間に(わたしは記憶力がいいと言ったでしょう)、わた したちはおそらく行き違ったのだ、と考えはじめた。エボ・モラレスは友だちなんです、と出発ゲートでガードマンに言ったが、搭乗券がないと中には入れませ ん、搭乗時間にね、と言われた。わたしはデッキに戻ったが、エボは現れなかった。それでわたしの一番の親友に会うために、パリに発つしかなかった。しかし わたしのパリへの搭乗券は、マドリード経由だった。わたしは自分がエボとコーヒーを飲むために、バルセロナにやって来たように思えた。しかし何か面倒が持 ち上がって、それで彼はパリで会おうと言ったのだ。バルセロナーパリ間は、たくさんのフライトがある。その夜も数便あるのがわかった。朝の四時着の航空券 を買った。そのことでちょっと心配になった。しかしエボは真の友だちだ。パリでわたしを待っているのは間違いない。念のため、わたしはバルセロナの空港 で、もう一度エボを探してみた。フライトを告げるモニター画面に、わたしのパリ行きの前に、ロンドンへのフライトがあるのを見つけた。わたしの次の便は、 ローマ行きだった。自分にこう言い聞かせたのを覚えている。いや、ロンドンじゃない、ローマでもない。一番の親友に会うために、わたしが行くのはパリだ!

10.

エ ボ、先週わたしが出した電報を、あなたは受け取っていないんでしょうね。母親にこうして送ってくれときっちり言ったんですが、何か間違いをおかしたんで しょう。それでこうして長い手紙を書くことにしました。母親はDHLで送ると約束してくれました。その方がずっと速く着くと思うので。確実でもあります。 おそらく我々は、パリで行き違ったと思うのです。友だちだから、わかってもらえると思います。バルセロナでトラブルがあって、空港の人がローマに行けと、 わたしに言いました。わたしはそれを拒否したように思いますが、その混乱のせいでわたしは出発が遅れました。きっとあなたは心配されたでしょうね。あなた にそのことを伝えようとしたんですが、バルセロナのインフォメーションは良くなくて。エボ、あなたとのコーヒータイムを、わたしがどれだけ楽しんだか、お わかりですよね。あなたとのおしゃべりの機会を失うことは、わたしにとってかなり重大です。競技者として、いつもあちこちの大会に参加して、多くの人と出 会いました。自分が孤独だということに不平は言いません。でも、わたしのような者は、真の友だちと出会うことはまれです。わたしは忘れてはいませんよ、 誓って言いますが、ボリビアでのチェスのこと約束したでしょ。まずはここを抜け出さねば。そのときはまた、あなたに連絡しますよ。わたしの友、エボ、わた しの頬が膨らんでいるのを見たら、あなたは喜ぶでしょうね。ぷくぷくに膨れてきています。母親がわたしに手術を受けさせようと拘留したんです。たいしたこ とではありません。あなたを心配させるようなことじゃないです。ここにあなたがいらっしゃる必要はないです。あなた自身がぜひともと思わないかぎりはね。 もちろん、来ないでくれなどと言いません。でもわたしはすぐにここを出ますから。手術が終わったらすぐにでもね。そうしたら、エボ、いっしょにコーヒーを 飲んで、ボリビアでのチェスのことについて話し合うことができますよ。わたしは忘れちゃいませんよ。あなたが事を整えるのを急いでいるようでしたら、来て いただくのも一考の余地ありですね。手術が終わり次第、何をしたらいいか、考え始めることができます。しかし急ぐこともありませんね。あなたが困るような ことはしたくないので。それともう一つ。あなたのような友に対して、取り繕うことはないと思うので言いますが、ここのコーヒーときたら、ひどいもんです。 おわかりのように、ここは空港ではないですが、あなたとおしゃべりするのは素晴らしいでしょうね、そうじゃないですか?

11.

親 愛なるエボ、前の手紙からあまりたってないし、あなたは返事を書く時間がないんでしょうね。国の大統領ともなれば、当然です。手紙をまた送ろうと思いまし た。そうすればあなたが気づかう必要がないから。最初の手紙でちゃんと説明できたか、わからないのです。あなたが来ることが不都合だ、と言うつもりで書い た手紙ではないです。その正反対で。わたしが言おうとしたのは、あなたがどこかの空港に着いて、わたしを見つけられなくても、心配しなくていい、というこ とだったんです。わたしは頬の手術が終わるまで、ここにいます。わたしの頬があまりに腫れてきたんで、家族がどうにかしなければと思ったんです。わたしに 関して言えば、特に心配もしてなかったですが。あなたとわたしの間だから言いますが、みんな大げさだと思う。でもモスクワであなたと会えなかったあと、周 りの者に反抗しないことにしたのです。実際のところ、わたしはここでゆっくりしています。本当のことを言えば、他にも手術を待っている患者がいるのです が、ここはひどく静かで、その人たちはなんだか不幸そうに見えます。しかし、わたしの友よ、あなたは何も心配することはありませんよ。もしここにいらっ しゃりたいなら、それは素晴らしいことです。わたしたちの最初の会話を、昨日のことのように覚えてますよ。わたしがラパスがとても好きだということを、あ なたにはっきりと伝えたか、よく覚えてません。それに、あなたの慎み深さにどれだけ感動したことか。一国の大統領が、一般人用の飛行機で旅してるとは!  いつか国にいらっしゃい、ポトシの歴史地区を見に来なければね、と言ったあなたの言葉をわたしは忘れないですよ。わたしたちはサンパウロに着陸するところ でしたね。わたしは約束しましたよね、できるだけ早い時期にボリビアに行って、あなたが話してくれた場所を全部旅する、とね。まだそれを果たしてなかった としても、わたしを許してくださいね。ここを出たらすぐにでも、約束を果たそうと決めているんです。おかしなことに、昨日、母がポンチョを持ってきまし た。あなたが着ていたものと、すごく似たやつです。ラパスに帰るときのために取っておきましょう。あなたとの会話が、それからいっしょに飲んだコーヒーの 味が、懐かしくてしかたない。われわれの仲(友だちの仲)だから言いますが、ここで出されるものときたら、もう言葉になりません。

12.

親 愛なる友、すべてこちらは変わりがないです。わたしの手術の日程は不明です。母はもう少し待たなくては、と言います。いいでしょう。ここにまだいなくては ならないとしても、気にはしません。本当のことをあなただけに言えば、もう疲れましたけどね。自分だけの部屋があって、行きたいところどこへでも行けま す。庭に出たっていいんです。外の道に出ちゃいけないと言われているだけですから。他の患者たちと話したいという気持ちは、あまりないです。頬に問題があ る、と言ったとたん、みんなわたしの顔をじっと見つめます。そして前よりも膨らんでいるように見える、と言うんです。まるでこの男には、そう言ってやらな くちゃいけない、とでもいうようにね。その人たちの中の何人かは、口をきくのが難しそうでした。喉か舌の手術でも待っているんでしょう。ここの患者のいく らかは、精神科にかかっているようでした。でもわたしの胸がひどく圧迫される原因は、そのためじゃありません。ときにそのせいで、わたしはベッドから起き たくなくなるのです。それから息をするのが苦しいと感じる日もありました。隔離されていることからくる症状だと思います。あなたもご存知のように、わたし が世捨て人のような人間であったためしはありません。わたしの人生を通して、あらゆる競技会に参加し、世界中を旅してきたのですからね。人とうまくやって いましたし、ときに空港で友だちをつくることさえありました。母親も他の家族もよくわたしのところにやって来ますし、まあ、あまり長居はしませんが。家族 がわたしのことを、ぎこちない目で見ることはあります。弟は、今もわたしのことを名人と呼んでいます。そこにいるの、名人さん? でも弟は変わったように 思います。あなたを心配させたくはありません。もう少しかかると思いますが、みんながわたしを一生ここに置くことはできない。頬の手術が終わったらすぐに でも、ラパスにまっしぐらに行きますよ。いつ到着するか、何便の飛行機で行くか、手紙でお知らせしましょう。

13.

親 愛なるエボ、今日は少し気分がいいです。ベッドから出ようと思っています。母親は医者にすぐ見せないといけないと言っています。おそらく今週末か。あるい は来週なのか、よく覚えていません。今はあまり外に出ることもありません。冬は庭もそれほど見るものがないですし。それにわれわれは町に出ることは許され てないのです。精神の病気で入院しているここの患者たちのせいだと思います。わたしは頬の手術のためにここに来たんですけれどね。単純な整形手術くらい で、こんなに長いこと入院が必要とは、思いもしませんでした。ほとんどの時間、わたしは大の字になっています。それがわたしがやっていることです。ゆっく りするなんてもんじゃありません。ときどき起き上がると、胸がひどく重いのです。それがひどいときは、息をするのも大変です。それで横になっている方が楽 なんです。ゆっくりと息を吸い込めば、息を正常に保つこともできはしますが。でも気をつめたりすると、すごく苦しくなる。こんなことは以前はなかったんで すが。町に出られなくなってから、一日中こうやって大の字になっているのは、これっぽっちも嫌だとは思ってないのです。今は冬で、庭はたいして見るものも ないですから。でも母親もこのことにがっかりしているのがわかります。わたしがここにいる間にも、あなたがわたしに返事を書きたくても書けないことを、完 璧に理解しているということをはっきりとお伝えしたいです。わたしはがっかりなどしていません。空港でおしゃべりする方がいいとわかってますが、ここの人 はわれわれを町に出してくれない。いや、わたしはがっかりなどしていません。でも聞いてください、わたしの友よ、あなたは世界で一番プクプクした頬のもち 主です。ここの人はあなたに、その頬を手術しなければと言うかもしれない、でもいいですか、ここのコーヒーときたらひどいの一言です、しかしそれを埋め合 わせるものとして、わたしたちは腐るほどたくさんの話す時間が持てますね。

サンパウロ、2009年12月4日


親愛なるエボ・モラレスへ
わたしがあなたの頬がプクプクだと言ったんで、気を悪くしましたか? あやまります。わたしはいつも親友というのは正直であるべきだ、と思っているのです。違います? もしわたしがあなたを傷つけたなら、エボ、あやまります。神様がわたしにもプクプクの頬を授けたこと、否定したことはないです。でもあなたは、エボ、世界中でもっともプクプク頬っぺの人間です。もしあなたが手術を考えているのなら、わが友よ、聞いてください。冬にはここの人はあなたを外に 出してはくれない。そして今は冬です。庭も町と同じです、偉大なるエボ。そうあなたを呼んだら、傷つきますか? 偉大なるエボ、ミスター・プクプク。エボ・モラレス、世界一のプクプク頬っぺ。エボ・モラレス。エボ・モラレス。エボ・モラレス。偉大なるプクプク。プクプク頬っぺ。ミスター・プクプク。そうです、エボ、おそらくあなたも手術をしたほうがいい。わたしの最大の敵なら、そんなこと願ったりしません。あなたみたいに友だちじゃない人には。でも、あ なたが来るとして、それほど悪くはないですよ。ここの人はすぐにも日にちを決めると、母親は言ってます。前にも言ったように、ミスター・プクプク、ここにはいい仲間がいますから。寂しい思いをすることはないですよ。もちろん、世界にはプクプク頬っぺの人間はたくさんいると知っています。わたし自身がそうですから。それをわたしが否定したことがありますか? でもあなたのほどじゃあないですよ、エボ。しかしここでわたしが学んだのは、プクプク頬っぺのもち主というのは、そのことに気づいていない。みんなひとりぼっち、みんな、誰もそのことに不平は言いません。ご存知と思いますが、寂しいと感じたことなどわたしはないですから、そうですよね、偉大なるエボ。エボ、わたしはひとりぼっちの人間じゃない、でもここではプクプク頬っぺの者が寂しい思いをする機会などないのです。あなたほどではなくとも、プクプク頬っぺの大王、ミスター・大プクプク、空港に足を踏み入れた中でもっともプクプク頬っぺの人間、そこでコーヒーを飲んだ中で一番のプクプク、偉大なるエボ。誰もここでは寂しいと感じることはない、そう保証しますよ、エボ、あなたのようなプクプク頬っぺの人は特にね。怒らないで、エボ。あなたは全世界レベルで最高のプクプク頬っぺのもち主です。



初出:Granta ブラジル特集号(2012年)
日本語版出版:葉っぱの坑夫




文学カルチェ・ラタン | happano.org



文学カルチェ・ラタン
001区 ブラジル






リカルド・リジエス
Ricardo Lisias

リ カルド・リジエスは1975年、サンパウロに生まれる。サンパウロ大学で、ブラジル文学の博士号を取得。作品に、四つの小説と短編小説集がある。ブラジル 出版界の最高権威ジャブチ賞をはじめ多くの賞を受賞。英語文芸誌Grantaのブラジル文学特集号(2012年)で、期待の新世代作家の一人に選ばれる。 最近の長編小説としては、「O Céu dos suicidas」(2012年)がある。これまでに作品は、ガリシア語、イタリア語、スペイン語に翻訳されてきた。雑誌Piauíでも作品を発表してい る。


ニック・ケイスター
Nick Caistor

ニック・ケイスターはイギリスの翻訳者、ジャーナリスト、ノンフィクション作家。40冊におよぶスペイン語、ポルトガル語の本を英語に訳してきた。この中 にはパウロ・コエーリョ、エドゥアルド・メンドーサ、フアン・マルセーなどが含まれる。優れた翻訳書に与えられるValle-Inclán賞を2度受賞。 最近はアルゼンチンの新世代作家たちの作品を訳している。英国のノリッジに在住。








タイトルフォト

A flight departure screen at Charles de Gaulle Airport, 05:21, 29 November 2010
(public domain)
STORY
[001区 ブラジル]
★リカルド・リジエス
ルイサ・ガイスラー
セルジオ・タバレス

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ファビアン・カサス
ホアン・ディエゴ・インカルドナ
ニコラス・ディ・カンディア
フェデリコ・ファルコ
no.1、3

[
ウルグアイ 003区]
アンドレス・レッシア・コリノ
オラシオ・キローガ

[コロンビア 004区]
アンドレス・フェリペ・ソラーノ
no.1

[ペルー 005区]
ダニエル・アラルコン
フリオ・ラモン・リベイロ

[チリ 006区]
カローラ・サアヴェドラ

[ベネズエラ 007区]
カロリナ・ロサダ

MUSIC
[001区 ブラジル]
アンドレ・メマーリ
エルネスト・ナザレー

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ロス・モノス・デ・ラ・チナ
ベシナ
ブエノスアイレスのHip Hop
チャンチャ・ヴィア・シルクイート

ART
[ウルグアイ 003区]
ホアキン・トーレス・ガルシア

FILM
[ 002区 アルゼンチン ]
マルティン・ピロ ヤンスキ
シネマルジェンティノ
アレハンドラ・グリンスプン
ダニエラ・ゴルデス
ジンジャー・ジェンティル
エセキエル・ヤンコ
アリエル・ルディン


[ 004区 コロンビア ]
二人のエスコバル
(ジェフ&マイケル・ジンバリスト)

TOWN
[ 004区 コロンビア ]
ボゴタの新交通網

[番外]
南米の都市のストリートアート