ユタにも山はある

フェデリコ・ファルコ 著

アルフレッド・マック・アダム 英訳より
日本語訳:だいこくかずえ

I

  その年の間ずっと、ククイはそのことを考えてはいたけれど、授業やフィギュアスケートの練習に絵の教室、友だちの誰彼が開く十六歳記念パーティと、いつも 忙しすぎた。休暇がやってきて、ククイはまたその問題を心のうちでためつすがめつ考えてみて、ある結論に達した。神さまはいない。つまりククイは無神論者 になる決心をしたのだ。最初にそれを告げた人は、祖母だった。祖母は肩をすくめただけ。彼女にとって、ククイが無神論者でも、プロテスタントでも、ユダヤ 教徒でも、カソリック教徒でも、たいした違いはなかった。少ししてククイは、電話で母親にもそれを伝えた。
 ママ、あたしもう神さまがいるって、信じてないの。無神論者になったの。
 ククイの母親は電話の向こうで黙ったままだった。
 ママ、聞いてるの?
 聞いているわよ、と母親。
 神を信じない人の方が、信じる人より上だってわかったの。信じない人は、何にも頼ってないからよ。ママ、あたし誰かに頼るのはもうやめることにした。
 ククイ、何があったの? なんでそんなことを言いだすの?
 自分で考えたことだからよ。ククイは母親が泣いているのを耳にした。
 ママ、泣かないでよ。
 ママ、聞いてる?
 聞いてるわよ、そう言うと母親は電話を切った。

  毎年夏になると、ククイの母親は住んでいる家を貸し出した。ダウンタウンにある不動産屋に家をまかせ、自分は山の頂上にあるホテルのコックとしてそこに住 みついた。丸めたお札を入れた小さな箱をククイに渡すと、祖母の元にやった。箱のお金は、ククイが夏の三ヶ月を過ごすためのものだった。不動産屋はククイ の家を、ビージャ・カルロス・パス(カルロス・パス村)に夏の楽しみや静けさを求めてやって来る観光客に貸した。ロッククライミングしたり、ロバに乗って 写真を撮りあったり、湖に入って腰までつかり、背中を日に焼きながら観光客同士でおしゃべりしたりして、時間を過ごしている人々だ。時間外勤務をするため に、ククイの母親は丸一日休みを取ることはなく、ビージャ・カルロス・パスまで降りてくることはなかった。それでも二日か三日おきには、祖母の家に電話し てきて、どんな様子か訊いてきた。ククイはいつも、すべて順調と母親に告げていた。
 ククイの祖母はカルロス・パスの高いところ、ケーブルカーの近くの山の中腹に住んでいた。庭からは湖の全景が、グレーと白の家々、ダウンタウンのホテル 群、教会の向かいにあるハト時計ドームのところまでつづく中央通りが見渡せた。ククイが無神論者になったその夏は乾燥してやたら長い、息詰まるものだっ た。ククイは夏の休暇が嫌いだった。暑さもいやだし、祖母となんとかうまくやるのも辛く、濁った湖で泳ぐことなど考えただけで恐ろしく、観光客にはイライ ラさせられた。昼食時から日没までは、どこに行くのも不可能だった。太陽が湖を照りつけ、屋根や舗装道路やアスファルトを焼き焦がした。ククイはベッドに 倒れこみ、古い本や百科事典、アートマガジンで溢れた祖父の書庫をじっと見た。何時間もククイは自分の人生をどうするか、考えていた。
 ククイはときどき、モデルになれないだろうか、と考えた。ショーのモデルではない、背が小さいから。雑誌のモデルだ。いつの日か、誰かが、道を歩いてい るククイを見つけて、母親の家から、ビージャ・カルロス・パスから、祖母と過ごす夏の日々から連れ出してくれないかと夢見ていた。ククイは世界じゅうを旅 し、最高の写真家の手で写真を撮られ、ヴォーグの中でも最も洗練されたイタリアン・ヴォーグの表紙を飾るだろう。そしてある日、ククイは事実と直面する。 短パンを、Tシャツを、母親が買ってきたスポーツブラを脱ぎ、パンディも脱ぎすてて鏡の前にじっと立った。
 ブラインドは降ろされ、光はほとんど入ってきていない。ククイは自分の姿をしばらく見つめていた。
 自分は使いものにならない、雑誌のモデルだって無理。
 ククイは自分を惑わす別の問題に関しては、すでに結論に達していた。神は存在しない、だから自分は無神論者になる。さあ、次にするのはカルロス・パスを 出て、有名人になること。でもどうやったらそうなれる? その答えを夏の間に見つけようと決心し、ずっと考えて過ごした。考えるのにあきると、家の中を静 かに歩きまわった。祖母はベッドに横になり足を高くして、扇風機をまわしてシエスタをとっていた。ククイはキッチンに入り、窓についたホコリやクモの巣 や、ダイニングの椅子の上のネコの毛、椅子四脚が置かれた木のテーブル(本当は六人か八人用だったけれど、そのように使われたことは一度もなし)を見てま わった。
 日が照りつける、雑草だらけの庭のわずかばかりの陰の下で、ネコがあくびをしていた。背の高い草が枯れてからからになって、その陰をつくっていた。玄関 ホールには青い肘掛け椅子がひっそりと置かれ、ククイはそこにすわり、何一つしたくない気分でじっとしていた。外の道を走る車、脇にビーチパラソルを抱え 湖に向かう観光客、ノミを払う犬、そういうものを見ていた。ククイは汗をかいているのを感じた。うなじに髪がひっつき、汗のせいで肘掛け椅子の皮がからだ に張りついていた。祖母がベッドから出る音を聞くと、自分の部屋にまた走りこんだ。ブラインドを降ろし、部屋の鍵をかけ、さっきの続きを考えた。

  そうやって最初の一ヶ月を過ごした。そのあと突然、ククイはモルモン教徒に恋をした。若くて、見映えのいいモルモン教徒で、青い目とブロンドがかった髪の 色をしていた。ククイはその青年に、通りのすぐ向こうに住んでいる女の家で出会った。ある午後のこと、ククイが青い肘掛け椅子にすわっていると、照りつけ る日差しの中を二人の若者が歩いてくるのが見えた。二人は白い半袖のシャツを着てネクタイをし、黒いズボンをはいていた。背中にはそれぞれバックパックを しょっていた。若者二人はアギーレ家のベルを鳴らしたけれど、誰も出てこなかった。男やもめのラモニカの小さなアパートのドアをたたいたけれど、そこでも 誰も出てこなかった。若者の一方が額の汗をふき、大きなトネリコの木の陰に避難した。もう一人がペレス夫人の家のドアをノックした。ペレス夫人は窓越しに 二人を見ると、何の用かと訊き、ちょっとためらったのちに、若者たちを家に招き入れた。
 モルモン教徒がペレス夫人の家にいる! なんだか面白そう! そう思ったククイは洗面所に突進し、顔を洗い髪に櫛を入れた。パジャマを脱ぐと、黒いワン ピースを身につけ、祖母が扇風機の前でいびきをかいているのを確認し、空のお椀を手に家を出た。
 ククイは素知らぬふりをして、洗濯室からペレス夫人の家に入りこんだ。
 ペレスさん、ペレスさん、ククイは呼んだ。
 みんなは居間で話をしていた。ペレス夫人がキッチンにやってきた。
 お客がいるのよ、とペレス夫人。何の用なの?
 ククイがお椀を見せた。少しお砂糖を貸してもらえますか?
 ペレス夫人が戸棚から砂糖の入れ物を取り出しているとき、ククイは食堂を覗きこんだ。二人のモルモン教徒は窓に向かった肘掛け椅子にすわっていた。一人 はどこにでもいるタイプで、頬にニキビのあばたがあり、耳が少しばかり大きかった。もう一人はハンサムだった。ニューキッズ・オン・ザ・ブロックのメン バー、ジョーイ・マッキンタイアを思わせた。
 コーヒーはいかが? ペレス夫人が二人に声をかけた。
 モルモンの二人が目を上げると、ククイがドアのところに寄りかかっていた。ククイは目を閉じて、二人のモルモンの臭いを嗅いだ。彼らは松のアロマ、石け んとコロンの強い香りを放っていた。
 僕らコーヒーは飲みません、宗教的な理由です、二人のモルモンが言った。
 じゃあお茶はどう? コカコーラかスプライト? ペレス夫人はククイをせきたて、洗濯室のドアを指しながらそう訊いた。
 いきなさい、そうペレス夫人がささやいた。
 あたしも話を聞きたいの。
 何言ってるの、とペレス夫人。おばあちゃんがお砂糖がいるんでしょ。持って帰りなさい。
 スプライトをいただきます、とモルモンの一人が居間から返事をした。
 ペレス夫人は冷蔵庫を開け、一度閉めてからまた開け、顔のところで手を打った。スプライトが切れている。食器棚から小銭を入れてある小さな缶を取り出す と、五ペソ紙幣を探りあてた。
 これで。ペレス夫人はお札をククイに突き出した。ヴィンセンテのところに行って、スプライトの1.5リットル瓶を買ってきて。ヴィンセンテにわたしの使 いだと言って、そうすれば瓶代は取らないから。今晩、瓶は返すから。よく冷えたのを買ってきてね。
 ククイは店まで走っていった。戻ってくると、ペレス夫人はモルモンたちに夫の写真を見せていた。夫は前の冬に死んでいた。
 あの人は本が好きでね、読むことを敬愛していたの、とペレス夫人は肘掛け椅子の後ろの本棚を指した。二人のモルモンは振り返って、何百冊ものリーダーズ ダイジェストがずらりと揃った棚をちらっと見た。何年分もの月刊リーダーズダイジェストが、発行順に並んでいた。
 キッチンからククイがペレス夫人を呼んだ。瓶を持ち上げて、買ってきたものを見せた。
 あら、スプライトが届いたわ、とペレス夫人。すぐに入れてきましょうね。
 ペレス夫人はトレイにグラスを乗せながら、ククイを紹介した。この子はククイというの、隣りの人のところの孫なのよ。
 ククイ! クッキーみたいですね、ジョーイ・マッキンタイアみたいな方のモルモンが言った。
 もう一人のモルモン(あばたの跡がある方)が、クッキーとは何かを説明した。あなたの名前は、英語でクッキーと言ってるみたいです。
 ククイはそんなこと聞いたことがなかった。よその言葉でククイの名前を呼んだ人などいなかった。


II

  モルモンの二人は、胸のところに名前を刻んだ金のピンをつけていた。醜い方のモルモンはロバートで、ボブと呼ばれていた。いけてる方のモルモンはスティー ブで、呼び名はなかった。ボブはスティーブより年上で、二十二歳になったところ、生真面目な顔をしていた。二人とも完璧なスペイン語を話したけれど、語尾 が英語風に固く発音された。スティーブとボブは、神の存在を信じていること、キリストは神の子だということ、聖書を信じていること、をククイとペレス夫人 に話した。しかし二人はモルモン教徒なので、アメリカで書かれたもう一つの神聖な本も信じていた。
 ボブの声は柔らかでゆっくりとしていた。ククイとペレス夫人が五歳の子どもであるかのように、ボブは話をした。スティーブはボブの話にうなずき、時々何 かつけ加えた。ボブが話を終えると、スティーブがバックパックを開けて、青いカバーの本を二冊取り出し、テーブルの上のグラスとトレーのそばに立てた。
 これはモルモン教の聖典です。この二冊はあなたたちのものです。
 スティーブがバックパックを閉めるとき、ククイは中を覗いた。もう二冊のモルモンの本とともに、空のプラスチック容器と、フタのないグリーン・アックス のデオドラントが入っていた。
 ボブの言ったことが、この本の中に書いてあります、とスティーブがつづけた。
 わたしたちが望むのは、わたしたちを信じても信じなくても、この週の間、あなたがたが今日聞いたことについて考え、心からの信仰心で、偽りのない心で、 神に問うことです、とボブが言った。神は答えてくれるはずです。心からの信仰心で訊ねれば、答えてくれるのです、いいですか?
 わかります、わかります、とペレス夫人。ペレス夫人はひざの上で両手を合わせ、心から感動した人がするように目を半分閉じて、ゆっくりとうなずいた。
 ボブはにっこりして、ククイの方を見た。
 わかりましたか?
 ええ、もちろんです、とククイ。
 帰る前に、ボブとスティーブは次に来る日にちと時間を設定した。ククイは紙切れにそれを書きとめたけれど、そんなもの見なくても大丈夫だった。水曜日の 午後三時。絶対に忘れはしない。ククイは何度も何度も曜日と時間を唱えた。その週の間、ククイはスティーブが白い歯を見せ、青い目を輝かせて自分に笑いか けるところ以外、何も頭になかった。スティーブがククイの髪をなでる。スティーブがククイを抱き寄せ、くちびるを探す。スティーブがククイにクッキー、 クッキー、クッキーと言う。スティーブのことを考えるたび、ククイは部屋に走りこみ、鍵をかけ、自分自身に手を触れた。
 そこで何をしてるの? 祖母がククイに訊いてきた。
 なんにも。放っておいて、とククイは叫び返した。
 ククイはスーパーに行って、自分のためにグリーン・アックスを買い、その夜、眠る前に枕にそれをこすりつけ、それを抱いて寝た。ククイはスティーブの白 い胸を想い描いた。背中にあるかもしれないほくろを、肩のそばかすを、柔らかな金色の胸毛を想像した。
 スティーブ、夢の中でククイはささやいた。

  読んだの? 次の水曜日、ククイが玄関のドアをノックするとすぐに、ペレス夫人が訊いてきた。ペレス夫人のモルモン教の聖典は、お客のためのトレイの隣り に置かれていた。トレイにはレースのナプキンの上に伏せられたグラスと、ワインクーラーに入れられたスプライトが乗っていた。本の端から、紙切れやパンフ レット、毛糸といったしおり代わりのものが突き出ていた。ククイは答える間がなかった。ペレス夫人はもう窓の向こうをうかがっていた。
 ほら来るわよ、ほら来るわよ、そう言うとペレス夫人はすべて整っているかあたりを見まわした。モルモンたちがベルを鳴らすのを待って、ペレス夫人はドア の前に立っていたにもかかわらず、開ける前に三十秒くらい間をおいた。
 ボブは前と変わらず不細工だった。それに比べてスティーブは、ククイが心に描いていた以上にハンサムだった。ヒゲをていねいに剃り、頬は輝くばかりにす べすべとしていた。前の週にしていた水色の水玉模様の紺のネクタイは締めていなかった。今日は藍色と金の細かいチェックのネクタイで、先週よりもっと似 合っていた。そしてシャツは、前回のときと同じ白い半袖だったけれど、少し小さめで、からだにピタリと張りついていた。シャツは腕の筋肉を締めつけてい た。幅広い肩とまっすぐ伸びた背筋は、アスリートのからだのようだった。ククイはエイボンのカタログに出てくる下着姿の男たちを思い出した。近所の人が毎 月、母親のために投げ入れていくもので、ククイはそれを見て顔を熱くしていた。ククイは視線を落とし、髪を前に垂らしてそのすき間から覗きみた。ボブがク クイに手を差し出した。スティーブはその後ろでニコニコしていた。
 入ってちょうだい、入って、とペレス夫人が肘掛け椅子を指しながら言い、スプライトを注いだ。
 ボブとスティーブはすわり、ペレス夫人がグラスを二人に渡した。死ぬほどノドが渇いていたみたいに、二人は黙ってひと息で飲み干した。ペレス夫人の居間 が、強烈なグリーン・アックスの香りに満ちた。ボブとスティーブはデオドラントを分けあっていて、シエスタの時間にビージャ・カルロス・パスを歩いたあと は、誰かの家に入る前に、立ち止まって二人して振りかけているんだ、とククイは納得した。それでスティーブはバックパックに、それを入れて持ち運んでいる のだ。
 スプライトを飲み終えると、ボブはハンカチで口を拭き、ククイとペレス夫人にモルモン教の聖典を読んだか、この前話したことについて、考えてみたか、と 訊いてきた。
 ペレス夫人はすぐにうなずいた。
 もちろん、ククイが答えた。
 すばらしい。今日は末日聖徒イエスキリスト教会の創始者、ジョセフ・スミスを紹介しましょう、そうボブが話しはじめた。ククイはその日の話を半分も聞く 間ががなかった。その週、ペレス夫人はククイの祖母に、ククイは自分の家でモルモン教徒と過ごしていると告げいてた。水曜日、午後三時を三十分過ぎた頃、 ククイの祖母は電話で、母親にその話をした。母親は電話口で吠えたて、すぐに娘を連れ戻すよう祖母に言った。祖母は道を渡ってやって来ると、玄関のベルを 鳴らし、こう言った。「いっしょに帰るのよ。黙って戻んなさい」
 ククイは従った。スティーブにさよならも言えず、次にいつペレス夫人の家に来るのか確認もできなかった。
 その夜、ククイの母親が電話してきた。
 ああいう人たちに近づくのは今後やめなさい。
 自分のしたいことをするわ、とククイは答えた。あたしは無神論者なの、だからあの人たちが言うことには興味はないの。だから安心して。あの人たちを無神 論者にしようとしているわけじゃない、あの人たちもわたしをモルモン教徒にしようとはしてないの。
 じゃあ、なんで行くのよ。おばあちゃんが言ってたわよ、本をもって帰ったって。部屋に閉じこもって、それを読んでるって。
 あたしモルモンの一人が好きになったの、ママ、だから行くのよ。恋をしたの、彼を手に入れるためにやってることなのよ。
 あなたは洗脳されてるの、とククイの母親がワッと泣き声をあげた。
 うんざりだわ、ククイはそう言って電話を切った。
 もうペレスさんの家には行くんじゃないよ、そう祖母が怒鳴る声を聞いて、ククイは部屋のドアをバタンと閉め、ベッドに身を投げて泣き出した。


III

  その日以来、ククイにとって暑さはもう問題でなく、観光客にいらつくことも、自分の人生をどうするかに思い悩むこともなくなった。ククイは恋を生きてい た。スティーブのことしか、考える余裕がなかった。カルロス・パス図書館に行き、モルモン教についてのあらゆる本を読んだ。意味深く聞こえて、長い答えが 必要になるような質問のリストをつくり、ポケットにそれを入れた。今度スティーブとボブに出会ったとき、話題に事欠くようなことをしたくなかった。ククイ は自転車に乗ると、一日じゅう乗りまわした。スティーブとボブはこの近所で布教活動をしていると知っていた。家から家へとドアをたたいてまわるのだ。二人 を見つけるのはそれほど難しくはないはず。とはいえ、二人の痕跡を見つけるのに、一週間かかってしまった。探しまわり、跡を追い、実りなく延々とペダルを 漕いだ七日間。
 と、ある日、広場の英雄消防士の記念碑の真下で、二人がすわっているのを発見した。ククイは草陰にしゃがんで、二人を観察した。ボブがバックパックから プラスチックの容器を取り出し、中の豆をかきまぜ始めた。しばらくボブは豆を食べていた。スティーブはモルモン教の聖典を読んでいた。そして入れ替わっ た。ボブが容器をスティーブに手渡し、スティーブは本をボブに渡した。ククイは足がしびれてきた。立ち上がるとからだを伸ばし、ぶらぶらしているように 装って、葉におおわれた木の後ろに走りこんだ。ボブとスティーブは食べ終えると、容器をしまい、布教活動に戻った。その日の午後いっぱい、二人が布教をし ている間、ククイはそのあとをついてまわった。庭に潜み、街灯の背後や止まっている車の間に隠れ、木に登って見張った。ボブとスティーブは家に帰り、クク イは二人がどこに住んでいるのかつきとめた。町の反対側のハト時計のそばの、ホームセンターの庭先にある小さなアパートだった。次の日、ククイは店の主人 に、モルモン教徒の二人は長く住んでいるのか訊いた。
 あいつらは交替でいなくなる。三ヶ月ごとに二人ずつ新しいのが来る。それまでいた者は消える。いい子たちだよ。
 ククイは二人のスケジュールを手に入れた。
 朝九時半にアパートを出ると一日外を移動してまわる。夜七時か八時まで戻ってこない。そしてすぐに消灯する。ククイは二人の日々の習慣、訪ねた家、そこ に居た時間、訪れた回数を細かく書き留めた。すべてを把握したところで、待ち伏せの準備をした。ククイは街角の木の下で待ち、最高の笑顔を見せて二人の前 に現れた。あら、なんて偶然なの! ククイは挨拶をして、それから質問にとりかかった。


 ボブの方が経験があった。年上だったし、布教活動を長くやっていた。ペレス夫人の家では、いつもボブが主に話した。そうであっても、ククイのときは、ボ ブは脇にさがりスティーブに話をさせた。ボブが自分を信用していないことをククイは知っていた。おそらくペレス夫人が何か言ったか、あるいは焼きもちをや いているのだ。ククイは図書館で書いたリストを取り出して、自信たっぷりに質問を始めたけれど、返ってきた答えに興味はもてなかった。それは隠しようがな かった。ボブは腕を組むとすわる場所を探した。ボブはククイに答えようという姿勢さえ見せず、スティーブにまかせていた。スティーブはククイを納得させよ うとしていた。精一杯の熱心さを見せ、布教の学位を取るためには人を改宗させる必要があるとでもいうように、あるいはボブにどれだけ知識があるか知らしめ ているみたいだった。
 古代の予言者たちは、エルサレムからどうやってアメリカに来たのか、説明してもらえる? それからバベルの塔の生き残りは、ダーウィンの進化論ではどう なるの? 
 ククイは息つく暇も与えず質問し、スティーブが答えを言い終えるやいなや、ユタではモルモンは今でも何人も妻をもつのだろうか、と思い、金板にすべてが 書かれている本というのは本当かと訊き、たった一日で古代の言葉を話せるようになるのは不可能だと力説した。
 スティーブは耳を澄まして聞いていた。そして満面の笑みを浮かべた。
 信頼が大事です、とスティーブ。神はわたしたちよりずっと偉大です。信頼なしに、神を理解することはできません。そして待っている一家がいるので、もう 行かなくては、と言ってあやまった。それでもさよならを言う前に、スティーブは、今晩ククイのために祈ると約束してくれた。
 今晩、あなたのためにお祈りをします、そう言った。聖霊なる神があなたを照らし、信頼と理解がもたらされるようお願いしてみます。
 ありがとう、ありがとう、ククイはお礼を言った。自転車に乗ると幸せな気持ちでそこを離れた。その晩スティーブは自分のことを考えると言ったのだから。 ククイはそれで自室に走りこみ、グリーン・アックス香る枕を抱き、ベッドの端でスティーブが自分の隣りにすわっているところを頭に描いた。スティーブが腕 をあげて、ククイに脇の下を見せる。ククイはスプレーを押す。スティーブのブロンドの毛は柔らかく透きとおり、デオドラントのシャワーを受けてしっとりす る。ありがとう、スティーブはそう言って身をかがめ、ククイと愛を交わす前に、舌をククイのまぶたに走らせ、閉じた目を濡らすのだ。
 
IV

 ある日、ククイはいいことを思いついた。信仰のこと以外のことを話すため、ボブとスティーブをディナーに招待するの だ。母親からもらったお金があったから、ちょっとしたレストランに連れていくことができた。
 家の外で食べたことはない。十時には寝なくては、そうボブが告げた。
 そういうことなら、ランチに招待したいわ。
 僕らいつも他の布教者たちと食べるか、信徒の家族たちと食べるんだ、とボブ。
 それなら、朝食にお招きするから大丈夫、ククイは食い下がった。
 ボブは少しの間ためらっていた。そしてスティーブの方を見た。スティーブは何も言わなかった。
 わかった、じゃあ朝食に、とボブがついに返事を返した。
 ククイは嬉しくて跳び上った。自転車に飛び乗るとカルロス・パスの中央通りをフルスピードで下っていった。幸せいっぱいで、貸しコテージや湖観光、食べ 放題バーベキューのパンフレットを丸めると、新聞売りに向かってそれを振った。ククイはホテルをいくつか訪ねて、朝食を提供しているレストランを見て歩 き、値段を確かめ、メニューをチェックし、それがどんなものか、お代わりしたときはいくらかかるか訊ねた。ホテル・デル・ラーゴに決めた。高いけれど、湖 岸を望む窓からの眺めは価値があった。
 朝食会の前の晩、ククイは眠れなかった。何度も何度も取り上げる話題や席順、着ていくものを検討した。ホテル・デル・ラーゴはアメリカ式のビュッフェス タイルの朝食を出していた。下調べに行ったとき、レストランの女支配人はククイを朝食用の部屋に案内した。時間が遅かったので、何組かの家族がテーブルに ついているだけだった。ククイの足は、柔らかなえんじ色のじゅうたんに沈んだ。窓は湖に面していて、その向こうには木のない茶色の山並みがあった。空には 雲一つなかった。各テーブルの中央には、フラワーアレンジメントが置かれていた。バラ、デイジー、アイビー。
 これは本物の花ですか、それとも造花? ククイが訊ねた。
 女支配人が眉をしかめた。もちろん本物です。
 ククイは花びらを指でさわって、ウソでないことを確かめた。
 好きなだけ食べていいのかしら?
 お好きなだけどうぞ。
 ここの朝食は、アメリカのものとまったく同じですか?
 はい、お客様、アメリカ式の朝食です。
 有線から低い音で流れる音楽は、じゅうたん同様柔らかだった。バミューダと白いTシャツの客が立ち上がって、カウンターの上の新聞を取り、席に戻った。 グラスを積み上げた大きな丸いステンレスのトレイを手にしたウェイターがキッチンからあらわれた。ククイは、スティーブとボブが窓際の席で、ゆっくりスク ランブルエッグとトーストを食べているところを想像した。二人が頭をそらして笑うところを、故郷のアメリカのものとそっくりの朝食に、ククイが招いてくれ たことにしきりに感謝するところを心に描いた。ククイは二人に故郷の味を思い出させたのだ。ククイは、ボブが静かに立ち上がって、外の空気を吸いにテラス を歩いてみたいと言い、朝の光を浴びるテーブルに、スティーブと二人残されるところを想像した。スティーブはナプキンを脇によけ、自分の手をククイの手に 重ねる。ククイはその手の熱さを感じる。
 ありがとう、スティーブが言い、ククイの目をのぞきこむ。ありがとう、ククイ、感謝してる、ククイはスティーブがそう言ってキスするところを想い描く。 そんなこんなで、夜明け前になってやっと、ククイは眠りに落ちた。

  ククイは目覚ましを二つセットしたけれど、必要はなかった。太陽が昇りだす前にもう起きていた。サッとシャワーを浴び、歯を磨いて、コカコーラをコップ一 杯飲んだ。これで空きっ腹で家を出なくて済む。丈の長い白いドレス、ストラップのサンダル靴、耳の後ろにほんのり香水をつけた。それですべて。シンプルで 初々しく、湖を見ながらの朝食にピッタリの格好。ククイは身支度のすべてを椅子の上に揃えてあったので、一秒もかからないで仕度は済んだ。ネックレスも、 イヤリングもなし。鏡で自分の姿を見た。完璧だった。さあ、出かける時間だ。
 寝室から祖母が何をしているのか、どこに行くのか訊いてきた。
 ちょっと大事なことがあるの、ククイは答えた。お昼ご飯までには戻るわ、そう言ってドアを閉めた。
 自転車が壁に立てかけられてククイを待っていた。前の日の午後、タイヤの空気は充分か、チェーンにオイルは必要ないか、確かめてあった。何も不都合なこ とが起きてほしくなかった。ククイは誰もいない、まだ濃い影におおわれた下り坂の道を、スカートの縁をたくし上げて走り降りていった。そうすれば裾がから むことも、ペダルで汚れることもない。ククイの脚は剃ったばかりで、すべすべで、つやつやしていた。ククイは髪を風になびかせ、風を切って進み、何か陽気 な歌でもうたいたい気分、あるいはこの気分を盛りたてる口笛でも吹いてみたかった。映画の主人公のような気分がした。若くて官能的なヒロイン。
 中央通りを飛ぶように走り、カルロス・パスの交差点をあっという間に渡り、湖の一番狭くなったところにできた新しい橋を渡り、ハト時計に向かう一方通行 の道に入っていった。問題ないでしょ、誰も来てないんだから。ホームセンターの主人が折りたたみ式バーベキュー台、はしご、一抱えの帚をお客に見えるよう に歩道に並べていた。ククイは自転車を街灯に立てかけた。
 あたしの自転車を見ていてくれるかしら? ククイは主人に訊ねた。ホームセンターの主人はうなずくと、いいよ、そこなら安全だ。
 ククイは店の裏のアスファルトの小道を歩いていった。グッドイヤータイヤのポスター、巻いた金網、山積みの杭や支柱の前を通り過ぎた。小さな裏庭の陰に は、植木鉢があり中の植物はとっくの昔に枯れていた。モルモンたちが住む小さなアパートの部屋の窓は閉まっていた。ククイはドアをノックした。一回、二 回。反応なし。ククイは時計を見た。約束した時間になっていた。もう一回ノックすると、ドアの向こうでうめき声とかすかなベッドのきしみが聞こえたような 気がした。
 どなた? ボブと思われる声が訊いてきた。
 ククイよ。
 ちょっと待って、とボブ。
 ククイはヒソヒソ声と、何かにつまずいたような音を聞いた。布団をめくるような音。さらにヒソヒソ声がして、やっと鍵が差し込まれた。
 ボブはバスケット用ショーツをはき、二、三サイズは大きいTシャツを着て、よれた藁みたいに髪はくしゃくしゃだった。
 朝食に行く準備はいい? とククイが半分開いたドアから中を見ながら訊いた。プラスチック製のテーブルの上は汚れた皿でおおわれ、モルモン教の本が積み 重なり、口の開いたクラッカーの袋が散らばり、フタのない砂糖入れがあった。背にセルヴェセリア・コルドバのロゴのついたプラスチックの椅子が二脚あるの も見えた。壁に画鋲で留められたキリストのポスターがあり、その下のベッドは上掛けカバーが床に落ち、ヘッドレストに枕が一つ押しつけてあった。
 いま何時?とボブが頭をかきながら訊いた。
 七時半よ、約束してた時間だけど、とククイ。
 ボブの後ろでベッドにすわったスティーブが、下着のパンツにやはり大きすぎるTシャツを着て、あくびをしながら目をこすっているのが見えた。スティーブ が野球帽を後ろにしてかぶり、ククイに笑いかけ手を振った。
 十五分くらいかかるけど、とボブが言った。
 わかったわ、じゃあ、ここで待ってるから。ククイはそう言うと、二歩うしろに下がった。
 じゃあ、ちょっと待ってて、とボブ。
 ボブがドアを閉め、ククイがちょっと振り向いて空を眺め、ホームセンターの裏の敷地に目をやったとき、じめじめとした嫌な臭いがモルモンたちのアパート から漂い、自分を包み込んでいるのに気づいた。その臭いは、学校で男の子たちから漂ってくる汗の臭いに似ていて、さらに一晩寝たベッドや汚いシーツ、くち びるで乾いたよだれ、リンゴか香料入りのシリアルみたいな、あるいは冷蔵庫の中の腐ったケーキのような、甘酸っぱい臭いが混ざりあっていた。
 ククイは目を閉じて、充分に肺を満たすよう深く息を吸い込んだ。そのときには臭いは弱まり、記憶にしっかり刻みこんださっきの残り香を、ほとんど感じる ことができなかった。あれはスティーブが寝るときに発する臭いなのだ、そしてデオドラントがそれをごまかす唯一の方法なのだ、とククイはわかった。自分だ けがスティーブの私的な生活を知っている。
 せっかく知った親密さではあったけれど、臭いにボブのものも少し混ざっていると思うと嫌な気がした。

V

 ククイが食べたいものを何でも食べるよう強くすすめても、ボブもスティーブもミルクを一杯飲み、パンを一切れしか食 べなかった。
 ダイニングルームにはあまり人がいなかった。家族が一組反対側の端に、ビュッフェのそばの席に年配の人々が二、三人。ククイの前には、白いシャツにネク タイ、金髪をジェルでなでつけて横分けにしたボブとスティーブ。非のうちどころなし。モルモン教の本を詰め込んだバックパックを背負い、両手でトレイを もっている。窓の外では、ウィンドサーファーが湖面を切り、ゆっくりと、動いていないみたいに走っていく。
 もっと取れば、とククイ。好きなだけ食べていいんだから。
 これで充分。ボブはそう言ってすわろうとした。
 あ、そこじゃない、とククイ。あなたはあっちの椅子、そこはスティーブの席。
 ボブとスティーブは視線を交わしたけれど、何も言わなかった。スティーブがククイが希望した席にすわった。ククイは会話を始めようとした。暑さのこと、 日照りのこと、森林火災の危険について、為替相場、ケーブルカーの事故のこと。ボブとスティーブは黙って聞いていた。
 スティーブは今日ここを出るんだ、ククイがやっと話をとめたときボブが言った。スティーブはここから遠い別の布教地域に行ったほうがいい、ということに なったんだ。
 ククイにはどういうことなのか理解できなかった。それですぐに別のことを話しはじめた。ボブが同じことを繰り返した。
 スティーブは今日ここを発つ。今日の夜出ていく。
 二人は自分をからかっている、とククイは思った。本当であるわけがない。
 本当なの? ククイがスティーブに訊ねた。言ってちょうだい、あたしの目を見てね。本当なの?
 スティーブは目を落とし、ミルクを長い時間かけて飲んだ。
 なんでスティーブがウソなんかいうんだ、とボブ。
 あなたに訊いてるんじゃないの、スティーブに言ってるの、ククイが口走った。スティーブ、本当なの?
 うん、そうスティーブは言うと、テーブルクロスに目を据えた。
 スティーブがうんと言った。湖が目の前から消え去り、強烈な日差しがすべてを白くし、黒い手が自分の内蔵を引き出している、そうククイは感じた。まぶた が震えた。ぽっかり穴があいたよう。
 少しの間、二人だけにしてもらえるかしら? なんとか自分を立て直して、ククイはボブに頼んだ。スティーブとだけ話したいの。
 そんなことできないよ、とボブが答えた。僕ら布教者はいつも一緒に行動するのが決まりなんだ。悪魔の攻撃から身を守る、僕らの方法の一つなんだ。
 もういいよ、ボブ、とスティーブが言った。
 でも、、、
 いいんだ、ボブ。自分が何をしているかわかってる。
 ボブが席をたち、何も言わずに立ち去った。
 前の晩、会話の題材を復唱しながら、ククイは眠りに落ちた。そのどれも役に立たなかった。でもそれはまだ頭の中を渦巻いていて、一つずつ積み重なって、 他のことを考えるのを妨げている。ククイは目を閉じた。
 あなたが好き。ククイが言った。
 スティーブが顔を赤らめた。
 ククイはスティーブのそばに行った。キスしようとした。グリーン・アックスの匂いがすぐ間近に迫ったけれど、まだ彼は壁の向こう側にいるみたい。
 だめだ、スティーブがそう言ってククイを押しやった。だめだ、もう一度言った。
 ククイの目に涙があふれた。
 あたしが無神論者だから? それが理由なの?
 スティーブは答えない。
 あたしが不細工だから?
 スティーブがボブに戻ってくるよう合図した。
 ククイは立ち上がると、さよならも言わずにレジに向かった。ボブに泣いているところを見られたくなかった。ブラの中に、母親が小さな箱に入れて渡してく れたお札が入っていた。それをカウンターの上で伸ばして、清算してそこを出た。
 その日の午後のシエスタの時間に、ククイは二人にまた会った。アパートのドアをククイがたたくと、スティーブが出てきた。ちょうど荷造りを終えたところ だった。ククイはスティーブを散歩に誘った。
 ボブも来ないわけにはいかなかった。ククイは了解した。三人は湖の方に向かった。ハト時計の前に、たくさんの人が集まっていた。正時の五分前で、観光客 はカメラを構えて、時計の扉から小さな木の鳥が現れるのを待ち構えていた。 
 これをあなたのために買ったの、だからずっとあたしのことを覚えていてね、ククイがスティーブに言った。
 それはブリキのハートで、キオスクで売っているようなものだった。ハートは真ん中に線が入り、半分のハートになる。それぞれに小さな穴があって、そこに チェーンを通せばネックレスとしてつけられる。ククイはハートを二つにし、スティーブにあげる方の片割れをさらに半分に割った。穴のある方の四分の一をス ティーブに、その片割れをボブに渡した。
 それで二人ともあたしのことを覚えていてくれるわね、そう言った。いつもそれを身につけていて。布教のときも、それからアメリカに帰るときも持っていて ね。ずっと持っていてね。
 ハト時計が鳴りはじめ、両開きのドアがあいて、木の鳥がくちばしを開けて出てきた。
 クックー、クックー、クックー。鳥が甲高い声をあげた。
 毎晩あなたのために祈りますよ、とスティーブ。
 嬉しいわ、とククイ。
 木の鳥が中に引っ込み、すぐにドアが閉まった。そしてすぐにまたドアが開いた。
 クックー、クックー、クックー。また鳥が声をあげ、群衆がまた写真をパチパチ撮りだした。
 最後に一つ、質問があるの、とククイが言った。
 ええ、もちろんです、とスティーブが言った。
 クックー、クックー、クックー。鳥が三度目の金切り声をあげた。
 ユタってどんなところなの? そうククイが訊ねた。
 知らないんだ。行ったことがないから。ぼくの家族はアーカンソーの出身で、とスティーブ。
 ユタにも山があって、こことたいして変わらない、そうボブが言った。
 ククイはにこりとした。ククイは片手を目にかざして日差しを防ぎ、湖を、岸辺のホテル群を、中央通りを、そこに並ぶ店を、ビージャ・カルロス・パスを囲 む乾いた山並みを見た。
 ありがとう、それが知りたかったの、そう言うとくるりと背を向けた。そして去っていた。
 ボブとスティーブは、フラッシュをたいて写真を撮る観光客の間で、黙って立っていた。二人はそれぞれ手に、ブリキのハートの片割れを握っていた。
 そして木の鳥はドアの中に隠れ、もう出てくることはなかった。観光客はカメラを降ろすと、少しずつ散っていった。ククイは猛スピードでペダルを漕いで、 ケーブルカーの方に向かって丘を登っていった。少しでも早く祖母の家に戻って、グリーン・アックスをゴミ箱に捨て、自分の部屋にこもって考えたかった。無 駄にした時間を取り戻さなくては。夏はもう一ヶ月しか残っていない。


初出:Granta「若手スペイン語作家特集」(2010年)
日本語版出版:葉っぱの坑夫




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フェデリコ・ファルコ
Federico Falco
アルゼンチン内陸部の乾燥地帯に隣接する村、ヘネラル・カブレラに生まれる。短編小説集に「222匹のアヒルの子」「00」「サルの時間」、詩集に「空 港」「航空機」「Made in China」がある。ヴィデオアーティストでもあり、コルドバのブレーズ・パスカル大学で映像・文学・現代アートの教授をつとめる。現在アルゼンチン、マ ドリード、ニューヨークを拠点にしている。




スペイン語 → 英語 翻訳者:
アルフレッド・マック・アダム
Alfred Mac Adam



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