エマ夫人の冒険


フェデリコ・ファルコ 著

サラ・ヴィレン英訳より
日本語訳:だいこくかずえ

いち:エマ夫人紹介

 エマ夫人はなにかと考える癖がある。たとえば、自分はいかにして年をとったのか、とか。そのかたわらで掃除婦のマリレンが、棚の一番高いところからワイ ングラスを取りだして磨いている。年をとるというのは、小さな自由の王国に住むことだと想像していたのに、そうエマ夫人は思う。あらゆる務めから解放さ れ、安らぐときだと。でも今そうではない。年をとるのは、狭い通路をさまよい歩き迷路で自分を見失い、闇に向かっていくことである。
 エマ夫人にはちょっとした詩的センスがあり、なにか例えを言うとき、それに色をつけることがよくあった。しかし今はそれを置いて、マリレンにグラス磨きを早く終わらせるよう命じた。バルコニーもきれいにして欲しいから。
 エマ夫人は公園に面した建物の最上階に住んでいる。未亡人で、息子が二人いたが、二人とも週末に会いに来るだけ。孫も一人いたけれど、仲はよくない。この前来たときは、その子が盗みをしたと毒づいたほどだ。50ドルを机の一番上の引き出しの古い弾薬帯に隠してあった。それが消えた。
 部屋の正面は公園の中にある動物園である。行ったことはなかったが、エマ夫人は午後になるとバルコニーに腰かけて、ベンガル虎が檻の中を歩きまわるのを見物した。二匹いて、夫婦だった。目が覚めてしまったある夜明けに、飼育係が分厚い肉片を虎に投げているのを見た。二匹の虎がそれをむさぼり食うのも目にした。
 マリレンは週に三度、部屋の掃除にやって来た。エマ夫人は、マリレンが仕事をしている間、なにかせずにはいられない。あれこれ指示し、マリレンの仕事ぶりを監視し、あまり言いすぎたと思えば、他にすべきことを探す。マリレンが掃除している午後の時間に、電話の支払いを確認したり、夏服をしまって冬服を干したり、古い領収書などを処分したりする。すべて終えると、マリレンに家をまかせて、友だちとお茶をしにでかける。エマ夫人はマリレンに、支払いをしに街まで行ってくると言う。暇を見つけては、寝室に閉じこもりロマンス小説を読む。それをする前には必ず、酷い偏頭痛がするとか、また背中が痛くなったとか断わり、マリレン、声をかけないでね、と言い置く。


に:虎の謎

 マリレンがワイングラスを磨いていた火曜日、エマ夫人は窓の様子を見にバルコニーに行って、なんの気なしに虎の檻に目をやった。上空では、真昼の青さが終わりを告げオレンジ色に染まりはじめ、虎の檻では、コンクリートの上にメスの虎が横たわり、それを三人の男が取り囲んでいた。エマ夫人はびっくりした、 メス虎が死んでいるのは確かだった。小さなクレーンが檻に入ってきて、メス虎を積み上げると運び去った。檻は空になった。オス虎の姿はなかった。悲しみがエマ夫人を襲った。気づくと涙が頬をつたっていた。いったい何が起きたのか、調べなくてはとエマ夫人。幅広の麦わら帽子をつかむと、マリレンに緊急事態が起きたと告げて家を出、まっすぐに動物園に向かった。
 門のそばで働いている少年は虎の出来事を何も知らなかったので、エマ夫人は入場料を払い、自分で檻を探しに中に入っていった。通路を歩いていて最初に見たのは、円筒状の背の高い檻だった。鉄の横棒が組まれ、網が張られていた。何の動物がいるのか書いたものがなく、中は空っぽに見えた。が、地面に白い実験用ネズミが二匹が寝そべり、二つに割ったオレンジがあった。ネズミは死んではいなかったが、放心状態だった。一匹は前脚を動かし、もう一匹は尻尾を揺らしていた。エマ夫人は天井を見上げ、肉食の鳥がネズミを見下ろしているのだと思ったが、動きはなかった。その檻をやめて、通路を進んだ。突然大きな音と甲高い悲鳴が聞こえ、エマ夫人はさっきの檻に戻った。ネズミは一匹しかいなかった。尻尾を揺らしていた方が、恐怖の瞳で前へ後ろへと走りまわっていた。エマ夫人は天井を見てみた。トンガリ屋根の天井で、黒いものがさらに密度を増し、依然正体は不明だった。
 

さん:二匹の逃亡亀
 
 動物園の通路は乾いた谷の底を通っていた。ユッカやエスピニージョの木が斜面にへばりつき、風に首を振っていた。通路際に生える草は、土をかぶって赤茶けていた。右に左にと檻があらわれ、あるいは広い通路が開け、そこを行けばクーガーとツキノワグマがいる谷底にたどりつく。はるか前方にはアシカの水槽があった。その中には二匹アシカがいて、年老いた方は作り物の岩の端で寝ていた。若い方は濁った水の中を泳いでいた。説明板には、アシカの餌はくさい臭いがします、と書いてある。さらに水槽の水は週に一度替えており、pH値は毎日計測していますと付け加えられていた。最後に園長の名前が記されていた。その向こうには、かろうじてピンクのフラミンゴ二匹がいて、シマウマがバシバシと尻尾でハエを追い払うのを見ていた。
 まがり角のところで、エマ夫人は二匹のウミガメが、砂利の通路を通りすぎるのを見つけた。亀たちは並んでうねるようにのしのしと進んでいき、そのあまりの速さにエマ夫人は驚かされた。アヒルの池に通じている水路に亀たちは身を沈めると、姿を消した。エマ夫人は心配になった。あの亀たちは檻から逃げてきたに違いない。生まれたての赤ちゃんアヒルに、害を及ぼすのではないか。ウミガメは肉食だ。テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあった。


よん:ドゥイジョという名の男

 そこまでの間、エマ夫人は誰ひとり見かけることはなかった。動物園は孤立していて、街の騒音も丘の斜面で遮られていた。静けさの中で、オウムやインコの鳴き声、カエルのグワグワ、少し離れたところから聞こえてくるネコ科の動物、ライオンかジャガーかパンサーのうなり声を耳にした。通路が広がり、屋根付きのカウンターとパラソルを張ったテーブル、プラスチックチェアが置かれた広いテラスが現れる手前で、エマ夫人は飼育係を発見した。飼育係は挽いたトウモロコシのバケツを手に、ゴム長靴を履き、オンブのカーゴパンツに塗料屋のロゴ入りのマッスルシャツを着ていた。エマ夫人が虎に何があったの、と訊くと、飼育係はそれは言えないと答えた。そして耳の後ろからタバコを取り出してくわえた。
 火ありますかね、飼育係が訊いた。
 エマ夫人はマッチもライターもなかったので、飼育係はタバコを元の場所に戻し、通路を歩いていった。エマ夫人は飼育係がトウモロコシをキジの檻とヤマウズラの檻に投げ入れるのを見て、この男は檻に入れられた鳥の前で、その他の収監された退屈そうなすべての動物たち、自分が毎日やる一握りのトウモロコシに頼って生きている哀れな生きものたちに、どんな目を向けているのだろうか、と考えた。その瞬間、エマ夫人はバッグの中にマッチ箱があったらよかったのに、と心から思った。
 動物園の管理人がカートを押して斜面の頂上まで来て、飼育係のそばで立ち止まった。二人は話をはじめ、エマ夫人は飼育係の名前を耳にした。ドゥイジョという名だった。その名を聞いて、エマ夫人は心が波立った。はるか昔の眠っていた何か、でもそれが何なのかエマ夫人には思い出せなかった。
 ドゥイジョはいい名前だわ。美しい獣たちの、野生の生きものの看守として威厳があってぴったりだ、エマ夫人はそうつぶやくと、通路を歩いていった。


ご:ヒヒとの出来事

 エマ夫人はヒヒの檻の前で、長いこと座っていた。年老いたオスの方は、尻尾の毛がなく、鉄の柵の向こうで、前後に行ったり来たりしていた。メスの方はか らだが小さくて若く、高い木の上に座って、毛の中のノミをとっていた。エマ夫人はこの二匹を見ながら、昔の出来事を考えていた。少しの間、虎のことは忘れていた。ヒヒが歩きまわるのに疲れて、檻の端までやって来て、鉄の柵から手を突き出した。手首のあたりで灰色の毛がなくなっていて、開いた手のひらの肉はピンク、くっきりと筋が刻まれ、指も人間の手のようだった。大きさだけ小さかった。人間のような丸い爪があるが、色は黒かった。ヒヒはトゥトゥカを欲しがった。このオスヒヒはコーンパフを見物者からいつももらっていたが、エマ夫人はもっていなかった。分厚い毛におおわれたヒヒの顔は、科学者が描く進化論の図の中の人間のようだった。チンパンジーより近いわ、エマ夫人は思った。前にそれを、テレビで聞いたことがあるのをすっかり忘れていた。エマ夫人とヒヒ の主たる類似点はその手にあったが、とがった鼻やなめらかな頰、まゆ、とりわけ目もよく似ていた。真っ白な眼球の中に、感じやすく聡明な茶色の瞳があった。
 ヒヒはエマ夫人をじっと見た。その目がエマ夫人の肩から胸へ、ウェストへと移動した。エマ夫人は顔を赤らめたけれど、警戒させるようなことはしなかった。ヒヒの目をじっと覗き込むと、自分が裸にされたように感じた。そしてヒヒの悲しげで不安そうな深い眼差しを受けとめて、心が震えた。でもそれはちょっとの間のこと。すぐにヒヒは頭を下げて、ばつが悪そうにした。メスのヒヒが何が起きたのかに気づいて、木の上から声をあげ、すごい勢いで降りてくると、オスヒヒとエマ夫人の間に陣どった。オスはメスを追い払ったが、メスは戻って来て、オスの背に乗って耳をかんだ。それからメスが先を走り、年老いたオスがあとを追いかけ、檻の奥にある見学者の目を避けるためのレンガ囲いの中に、二匹して消えた。


ろく:冒険はじまる

 飼育係ドゥイジョがやって来た。果物を入れたプラスチックの箱をもってきて、チンパンジーの檻の中に置いた。チンパンジーは天井から吊るした防水シートに乗って揺られていて、降りてこなかった。ドゥイジョが糞と食べカスをきれいにし、ホースを取り出して床に水をまいた。檻の外から、エマ夫人はそれを見ていた。ドゥイジョは水撒きを終えると、桶の中に果物をあけた。チンパンジーがそれを見に、ロープを伝って降りてきた。ドゥイジョは檻を出て、ドアを閉め、チェーンを掛けた。そして悪戯っぽい目つきをエマ夫人に送り、耳にこうささやいた。虎は倉庫にいるよ。メス虎が前脚に棘をさしてしまったんで、治療するために麻酔をかけた。オスの方は眠らせた、メスがいないと神経質になるからね。虎たちを見たいかい?
 そんなことできるの? とエマ夫人。
 この世にただのものはない、とドゥイジョが言った。金を払ってもいいと思うかい?
 エマ夫人は少しの間考えた。
 いいわよ、エマ夫人は答えた。払ってもいいわ。
 日はほとんど落ちていた。ユーカリの木々の陰には、夜の寒さが訪れていた。動物園に面した建物の窓に二つ灯りがともった。これは秘密でやることだから、とドゥイジョが説明した。園長は使用人にすごく厳しくて、来場者に話しかけているところを見られたりしたら、自分は罰せられる。虎を見せたとなれば、なおさらだ。エマ夫人はどう答えていいのかわからなかった。ドゥイジョはエマ夫人の手をとると、その手を引いて先を行った。男の手がしっかり正確に脈うっていた。二人で小さな丘を登り、反対側に降りると、色あせた建物の壁が目の前に迫った。片隅の低い位置に、小さな黒い鉄の扉があった。ドゥイジョがそれを開けた。
 入って、とドゥイジョが言った。怖がらないで。動物園はじきに閉まる、来場者はみんな帰る。そのあとは、わたしらだけだ。
 ドアを通りぬけるのに、エマ夫人はかがんだ。からだを中に入れた途端、ドゥイジョが外からかんぬきを掛けた。エマ夫人は自分が檻の端にいるのだとわかった。衝立があり、来場者から中が見えないようになっていて、動物のちょっとしたプライバシーを保っていた。エマ夫人はゾッとした。何の動物の檻に自分は閉じ込められたのか。
 少ししてドゥイジョが檻の外にあらわれた。脚が柵の向こうに見えていた。
 ドゥイジョ、ここは安全なの? エマ夫人が訊いた。
 ドゥイジョが笑った。
 心配ないよ、とドゥイジョ。ナマケモノの檻だ、この時間あいつらは眠ってる。衝立のうしろに隠れていて。もっとうしろに下がって。まだ片足と帽子の端が見えてるよ。
 そのときになって、エマ夫人は麦わら帽のことを思い出した。衝立のうしろでそれをパッと脱ぐと、折りたたんだ。ナマケモノ! そんなもの見たことがなかった。ナマケモノと閉じ込められて、危険じゃないのかしら。でも何の音も聞こえてはこなかった。檻は空っぽみたいだった。
 ところでさあ、とドゥイジョが檻の外からささやいた。なんでオレの名を知ってるんだ。
 管理人があなたにあいさつしたとき聞こえたのよ、とエマ夫人。
 そうか、わたしはドゥイジョだ、そう返してきた。それで奥さん、あんたの名前は?
 エマよ、小さく答えた。わたしはミセス・エマ。
 そのとき、檻の中で何かが動いた。エマ夫人が衝立の片側からのぞいた。檻の中央に大きな枯れ枝が立てかけられていて、その高いところから黒い塊が降りてきた。
 隠れて、ミセス・エマ、隠れるんだ、ドゥイジョが必死で促した。誰かに見られたら、わたしは職を失う。音をたてたんで、ナマケモノを起こしちまった、でもおとなしい動物だから、怖がらなくていい。すぐ行くから。ここが閉まったら、戻ってきて虎を見せに連れていくから。
 それでエマ夫人は一人残され、檻の中で、衝立のうしろに隠れて、知らない動物にその身をゆだねた。
 なんでこんなことになったのかしら、エマ夫人はつぶやいた。


なな:母の抱擁

 黒い塊が枝から降りてきた。大きな爪を枯れ枝に食い込ませて、地面にドサッと落ちた。檻の反対側、エマ夫人の正面に、水の桶と四つ割のリンゴがあった。黒い塊はそこに向かってきた。
 ドゥイジョ、ドゥイジョ! あたしをどうしようっていうの。エマ夫人は泣きださんばかり。
 その声を聞きつけて、ナマケモノは方向転換して、衝立の方に歩きはじめた。エマ夫人はうずくまり手で目をおおった。指の間からのぞいてはいたが。エマ夫人は黒っぽい頭が、毛の生えた背中が、長い腕を引きずるようにしてゆっくり近づいてくるのを目にした。ナマケモノはゆったりと体を揺らし、鋭い黒いかぎ爪の手を地面につけて向かってきた。堂々たる体躯の悲しい生き物、甲羅のない亀のように。エマ夫人は哀れみを感じたが、なおこの動物が恐かった。突然、ナマケモノが間近に迫った。両腕をエマ夫人の首に掛けると、その胸にぶらさがった。エマ夫人は声をあげそうになった。ナマケモノは頭をエマ夫人の肩にこすりつけ、眠りに落ちた。その瞬間、エマ夫人はこの動物は無害だとわかり、人心地ついた。
 男の子を二人連れた女性が、檻の前を通り過ぎた。一方の子が動物の名が書かれたボードを見て、足を止め探そうとしたが、すぐにあきらめて、出口の方に三人で消えた。衝立のうしろで隠れていたエマ夫人は、三人が立ち去る足音を聞いた。ナマケモノは眠りつづけ、温かな優しい寝息をたてていた。動物園の出口では、従業員たちがまた明日、おやすみ、などとあいさつを交わしていた。そのあと、あたりは静まりかえった。そしてドゥイジョが戻ってきた。
 ミセス・エマ、ミセス・エマ、ドゥイジョは檻の向こうから呼んだ。
 シーッ、エマ夫人が言った。静かにしてちょうだい。友だちが寝てるのよ。
 ドゥイジョが鉄の扉を開け、エマ夫人はコンクリートの床にナマケモノをそっと置いた。ナマケモノは目を覚ますことなく、まりのように丸くなった。ドゥイジョはエマ夫人が檻から這い出るのを手助けした。


はち:象とあそぶ

 二人は並んで(少しエマ夫人が遅れて)、空っぽの動物園を無言で歩いた。ときどきドゥイジョが立ち止まり、エマ夫人を待った。アヒルの池の縁に沿っていき、大きなテラスの真ん中に立って体を揺らしている象の前を通り過ぎた。ドゥイジョが指差した。
 あいつはサーカスにいたんだ。警察が象を没収したのは、書類がちゃんとしたものじゃなかったからさ。前いたのが年で死んだとき、ここに送られてきた。あいつはピルエットができるけど、なんなら見せようか?
 エマ夫人はぜひ、と答えた。見てみたかったのだ。
 10ペソだけど、とドゥイジョ。あの象は10ペソ以下じゃ芸を見せない。
 エマ夫人はちょっと考えてから、バッグの中を探り札を一枚出した。ドゥイジョは受け取るとポケットに突っ込み、囲いを飛び越えて象の前に立った。
 立って! ドゥイジョが両手を振り上げて言った。
 象が後ろ足で立った。その姿は巨大な犬がエサをもらおうとしているみたいだった。
 ミセス・エマにあいさつして! ドゥイジョが命令した。
 象は長い鼻をもちあげて伸ばし、ラッパのような音を出した。
 よっし、よくできた、いい子だ、とドゥイジョ。そう言って象をパンパンとたたいた。象は鼻を下ろし、四つ脚の姿勢に戻った。ドゥイジョは檻のそばの小屋に走っていくと、干し草の山を抱えて戻ってきた。ご褒美なのだろうか。
 もうすっかり夜になっていた。ときどき街の灯りが木々の間を通り抜け、丘を越えて動物園の一角を照らし出した。コウモリが中庭と檻の間を飛んでいた。ガラスの檻の中では、蛇たちが体をほどき、湿った外気を舌で味わっていた。
 名前はなんていうの? エマ夫人が訊いた。
 誰の?
 象よ。
 あいつに名前はない。ゾウって呼んでるよ、特にない、ドゥイジョが答えた。
 虎のところまでは遠いのかしら、とエマ夫人。
 すぐそこだ。
 疲れてしまったわ。
 ドゥイジョは答えない。


きゅう:虎と出会う

 動物園の使用人の倉庫はライオンの檻のうしろにあった。ドゥイジョが電気をつけた。そこは大きな窓のない部屋で、波トタンのスライド門があった。穀類の束と袋があり、人が中に入れる大きなフリーザーがあり、エサにする肉の塊が保存されていた。ロッカーにベンチ、埃をかぶった椅子、車輪が一つ欠けている壊れたポップコーンマシーンがあり、部屋の隅にはたくさんのシャベル、熊手、くわ、箒と掃除用具が置かれていた。
 部屋の中央に運搬台があり、その上に小さな檻が二つあった。一方にベンガル虎のオスが寝ていた。もう片方にはメス虎がいて、こちらも意識がなかった。前足の片方に包帯が巻かれていた。
 ほら、虎だよ、とドゥイジョ。
 エマ夫人は檻の前でじっと黙っていた。深く息を吸い込んだけれど、興奮してのどがつまり、また息を吐き出すことも難しかった。エマ夫人は胸に手を置いた。
 気に入ったかな、ドゥイジョが訊いた。
 エマ夫人はうなずき、一息つくと、息がもれた。
 素晴らしい虎だわ、とエマ夫人。
 エマ夫人は檻のまわりを歩いて、四方八方から虎を眺めた。
 ゆっくりとした足取りで、手は胸に置いたまま、エマ夫人は運搬台のまわりを歩いた。二匹の虎の規則正しい息づかいが、部屋を満たしていた。エマ夫人のゴム底の靴が、埃をかぶった床の上で音をたてることはなかった。ドゥイジョが咳ばらいして唾を吐いた。
 シーッ! エマ夫人が声をあげた。起こしてしまうでしょ。
 誰を? あいつらか? 明日の朝まで何があっても起きないよ、とドゥイジョは言い、檻の間から手を入れて、オス虎の上唇をもちあげ牙をつかんだ。
 あの子はドゥイジョの手を噛むわ、エマ夫人は思った。目を覚ましてドゥイジョを一打ちして、手を噛み切る。
 ドゥイジョは牙を揺らして抜こうとしているみたいだった。虎はなんの抵抗も見せなかった。
 放っておいてあげて、邪魔しないで、とエマ夫人。
 触ってみたいかい、とドゥイジョが訊いた。
 怖いわ。ここから見ているだけで充分。
 大丈夫だから、触ってみて、とドゥイジョ。
 わたしが?
 そうだよ。
 エマ夫人はこわごわ伸ばした手を、虎の背中に置いた。恐ろしさで体が震えた。この虎とても美しい、エマ夫人は思った。美しくて、強くて、恐ろしげで、わたしを一口で食べてしまえる。今他のことはいっさい考えられなかった。エマ夫人はすっかり虎の虜になっていた。しばらくそこに手を置いて、指で縞の毛皮をなでていた。胸の皮膚に手を伸ばすと、虎が息を吸ったり吐いたりするのが感じられた。虎がわずかにゴロゴロのどを鳴らすのを聞いた、とエマ夫人は思った。
 ドゥイジョはメス虎の前足の包帯を確かめ、明日の朝虎たちが起きたとき、それぞれの檻に水があるか見た。
 もういいだろう、とドゥイジョが促した。もう時間だ、行かなくちゃ。
 そうね、わかったわ、もういいわ。そう言うとエマ夫人は手を檻から出して、虎から離れた。
 そうね、わかったわ、もういいわ、そう言って、眠る虎に背を向けた。
 歩いていくエマ夫人の後ろで、ドゥイジョが灯りを消した。暗闇の中で、エマ夫人は首筋に熱い息を感じた。あの子だわ、わたしに飛びかかってくるのだわ、 エマ夫人は確信した。振り向くと、そこにはドゥイジョがいるだけ、そしてこう言った。さてと虎を見れただろう、50ペソだ、一匹につき25ペソ。
 エマ夫人は財布を探ると飼育係にお金を払った。


じゅう:冒険のしるし

 二人は眠っている動物の檻の間を歩いていった。ドゥイジョがエマ夫人に出口を教え、暗がりの中で道を示し、木の根っこや階段でつまずかないよう手助けした。出口に着く少し前に、ちくちくするとエマ夫人は思った。激しいかゆみだった。何かがエマ夫人の腕や脇の下、のど、胸を噛んだのだ。ドゥイジョがどうしたのか、と訊いてきた。エマ夫人は説明しようとした。
 門のすぐそばまで来ていた。ドゥイジョはエマ夫人を灯りの下に連れていった。外灯が円錐形の陽だまりをつくり、動物園の中を照らしていた。
 どれどれ、見せてみて、とドゥイジョ。
 戸惑いつつ、エマ夫人はシャツのボタンを上から二、三個はずした。ドゥイジョが顔を寄せてその箇所を調べた。
 ノミに噛まれたんだよ、これがドゥイジョの結論、虎のノミだ。
 どうしてノミだってわかるの? アレルギーじゃないかしら、とエマ夫人。
 虎アレルギーじゃないよ、奥さん。今までに虎に近寄ったことがないとしてもだ、あんたは虎アレルギーじゃないって、顔に書いてあるよ。それに、見てごらん。虎のノミは三度噛みついて、それで死ぬんだ。三回噛むんだけど、すぐ近くのところを噛む。ほらね。
 ドゥイジョが赤くなったところ指した。エマ夫人の白い胸には三つの跡。
 虎のノミは三つ星のマリアスみたいに噛む、三回、一列にね。だからわかりやすいんんだ、とドゥイジョ。エマ夫人はドゥイジョが正しいと認めざるを得ない。
 エマ夫人は虎からノミをもらったのだ。
 熱い湯をためて、エスパドル石鹸で洗えば痒みはとれる、とドゥイジョは言い、門をあけてエマ夫人を動物園の外に出した。二人は公園のただ中にいた。かたわらのチャニャルの木の茂みでは、何組かの男女がベンチでいちゃいちゃしていた。
 よっしと、じゃあお別れだな、とドゥイジョ。よかったよかった、また今度ここに来たくなったら、わかるよな、俺を探せばいいからさ。
 エマ夫人はドゥイジョと握手すると、くるりと向きを変え、歩きはじめた。


じゅういち(おわり):帰宅

 エマ夫人の靴が、やわらかな刈ったばかりの草で濡れた。外は涼しくなっていた。通りの灯りが一斉に木々を抜けて差し込み、芝をまだらにしていた。少しの間、エマ夫人は公園のどのあたりに自分がいるのかわからなかったが、すぐに見当をつけた。丘をくだっていき、ベンチにすわった。道の向こうを救急車がサイレンを鳴らしながら走っていった。エマ夫人は見上げると、目の前の建物の階数を数え、自分の部屋のバルコニーのガラス窓を見てみた。闇の中で、街の灯りを反射して窓は輝いていた。マリレンが完璧に磨いたのだ。エマ夫人はにっこりした。きちんと仕上げられた仕事に勝るものはない。ひざを少しさすると立ち上が り、道を渡っていった。ガードマンが中に入れてくれた。エレベーターが来るまでの間、二人で次の議会のことを話した。
 エマ夫人は部屋に入ると服をぬぎ、風呂に湯をため、噛まれた跡を消毒した。果物を少し食べ、横になった。ふとんに入って、目をとじたところで初めて、虎の毛皮の匂いと老いたヒヒの目を思った。そして麦わら帽子のことを思い出した。ナマケモノの檻に置いてきてしまった。
 明日、あれを取りに行こう、眠りにつく前そうつぶやいた。
 明日、銀行に寄って、お金を引き出して、あれを見にまた行こう、そう言って眠りに落ちた。



日本語版出版:葉っぱの坑夫





文学カルチェ・ラタン | happano.org



文学カルチェ・ラタン
002区 アルゼンチン





フェデリコ・ファルコ
Federico Falco
アルゼンチン内陸部の乾燥地帯に隣接する村、ヘネラル・カブレラに生まれる。短編小説集に「222匹のアヒルの子」「00」「サルの時間」、詩集に「空 港」「航空機」「Made in China」がある。ヴィデオアーティストでもあり、コルドバのブレーズ・パスカル大学で映像・文学・現代アートの教授をつとめる。現在アルゼンチン、マ ドリード、ニューヨークを拠点にしている。




スペイン語 → 英語 翻訳者:
サラ・ヴィレン
Sarah Viren




タイトルフォト

Sad baboon, Palermo Zoo, Buenos Aires
photo by Noah Miller (taken on February 16, 2006/Creative Commons)

STORY
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ホアン・ディエゴ・インカルドナ
ニコラス・ディ・カンディア
★フェデリコ・ファルコ
no.13

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[番外]
南米の都市のストリートアート
Sad baboon, Palermo Zoo, Buenos Aires