Mary Austin in 1900
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メアリー・オースティンについて


日本ではほとんど知られていないアメリカの作家メアリー・オースティンについて、わたしのメアリーとの出会いにもふれながら書いていきたいと思います。メアリー・オースティンとはどんな人であったか、どのように生き、何を考え、どのように創作にとりくんでいたのか、さまざまな参考資料やメアリー自身の著作を当たりながら、探っていきたいと思います。
だいこくかずえ<編・訳者>

上の写真:チャールズ・ルミス撮影*

☆メアリー・オースティンの代表作「雨の降らない土地」の連載が始まりました。ミヤギユカリさんの絵とともにお楽しみいただけます。(2008年7月〜)



#1 #2 #3 #4 

#0 メアリーとの出会い


わたしがメアリーに出会ったのは、3、4年前のこと。アメリカのナチュラリストで作家のテリー・ウィリアムズ(1955年〜 )の著作を読んだり、日本語に訳したりしていたときのことでした。テリー・ウィリアムズはユタ州に住んでいて、アメリカの沙漠についてのエッセイや小説を書いている人です。わたしはテリーをつうじてアメリカの沙漠文学やナチュラリストの人々を知りました。日本でも出版されているエドワード・アビー(1927〜1989年)の「砂の楽園」を読んだのもその頃です。

アメリカのインターネット書店amazon.comで、テリーの新しい著作をさがしているとき、関連データの中に、メアリー・オースティンの名前がありました。メアリーの著作の中でもっとも知られている The Land of Little Rain(1903年) のイントロダクションをテリーが書いていたからです。こうしてわたしの手元にメアリーの本が届くことになります。一冊、また一冊と、メアリーの本はamazonから届きつづけ、先月手にしたThe American Rhythmで6册となりました。このアンソロジー詩集「シカ星」を編むための原典の一つである著作です。

出会いとなったThe Land of Little Rainがすばらしい本であることは、最初の数行を読んですぐにわかりました。渇いた、きびしい、胸につきささるような文体で、沙漠のランドスケープやそこで起こる自然現象が語られていました。訳してみたいと思いましたが、その頃のわたしには、書かれている英語が難しく、手がつけがたいものでした。そこでメアリーの文体や沙漠のレファレンスに慣れようと、子どものための短編集The Basket Woman(A Book of Indian Tales)を訳すことにしました。「インディアン・テイルズ - シエラネバダから14の物語」(だいこくかずえ+ジェフ・ブラワー訳)です。葉っぱの坑夫スタートと同時に連載をはじめ、毎月1〜2話ずつ更新して、1年3ヵ月かかって全編を訳し終えました。子どものための物語といっても、内容的にも英語的にもけっして易しくはなく、訳すのにずいぶん苦労しましたが、メアリーが「子ども向き」などという志向をちっとももっていない人であることがわかり、共感をおぼえたものです。翻訳にあたっては、モントリオールのジェフ・ブラワーの知識や解釈にずいぶんと助けられました。

このようにしてメアリーと出会い、作品を読み、翻訳をはじめたわたしですが、作品を読めば読むほど、メアリーのことを知れば知るほど、好奇心と尊敬の気持ちは増していきました。100年前の女性の思想や生き方が、こんなにも現代に生きるわたしに響くことに心から驚かされ感動する日々でした。


#1 メアリーとウォーレス


メアリー・ハンター、1868年イリノイ州カーリンヴィル生まれ。メアリーがカレッジを卒業した1888年、ハンター一家はカリフォルニア州ベイカーズフィールドに移り住みます。農場で子どもたちを教えていたとき、メアリーは近くの農場に住んでいたスタフォード・ウォーレス・オースティンと出会います。二人は急ぐようにして、1891年に結婚。サンフランシスコへと向かいます。ウォーレスは(メアリーはこう呼んでいたそうです)1860年ハワイ生まれのアメリカ人で、両親はサトウキビ農場を経営していました。20才のとき家族とともにカリフォルニア州ベイエリアに移り住み、バークリー大学で最終教育を終えます。

メアリーとウォーレスは結婚後、サンフランシスコにしばらく住みますが、その後オーウェンズ・ヴァレーのいくつかの町を移り住み、1892年ローンパインにたどりつきます。ウォーレスはかんがいシステムの事業をはじめて失敗したり、臨時的な職業を点々としますが、やがて教師として働くようになり、1898年にはインヨー地域の教育長を務めるようになります。1900年に二人は、自分たちで設計した家をインディペンデンスに建てています。

1905年、メアリーとウォーレスはロスアンジェルス市の水管理計画に対する反対運動をおこなっています。この年は、二人が離婚した年でもありました。このときメアリー37才、ウォーレス45才、娘のルースは11才くらいだったと思われます。




#2 自然への関心


メアリーは10才になるかならないかのころから、書くことを志していたそうで、実際書きはじめてもいたようです。同時に自然界への興味を早くから持ち、地質学に関する本からインスピレーションを受けて、化石の収集に熱中したりもしていました。母親が農場を経営していたサンホアキン・ヴァレーに住むようになってから、メアリーはこの土地に心を動かされ、昼も夜も多くの時間を野外で過ごすようになります。夜行性動物の観察、植物の種類とその変化の記録、季節はどのように流れていくのか、羊たちの動向や羊飼いから聞く話の数々、インディアンや開拓者たちの暮らしぶりなど、この土地で目にするあらゆるものがメアリーの興味の対象になりました。

またメアリーは、この土地のことなら何でも知っているテホン・ランチョの経営者エドワードにすっかり傾倒し、足しげく通っては、さまざまな知識や情報を得るようになります。エドワードの方も、この頭の回転の早い、そう明な少女によろこんで話を聞かせていたようです。

メアリーの最初の本The Land of Little Rain(「雨のふらない土地」)は、カリフォルニアの沙漠地帯の自然とそこに住む人々について書かれた14のスケッチからなるノンフィクション作品です。メアリーはこの本を1ヵ月で書き上げたそうですが、本人いわく、書きはじめる前の12年にわたる観察期間があったからね、ということのようです。

註・メアリーのポートレイト撮影者:
*チャールズ・フレッチャー・ルミス(1859〜1928年):サウスウエストの作家、
編集者、歴史家、考古学者、図書館員、歴史遺産保護活動家



#3 どのようにしてインディアンたちと出会ったか
   <メアリー・オースティン自伝「Earth Horizon」より>


その冬、メアリーは病気で、インディアンの女たちがときどきやってきては世話してくれることを受けるいれる以外なすすべもなく、くる日もくる日もただベッドに臥せっていました。赤んぼうが健やかに成長していっているのを見て、マハラ(インディアンの女のこと)がビーズのような目と茶色い肌のむっちりした自分の赤んぼうといっしょに、世話をしてくれていたのだと、やがて気づくのでした。メアリーは二人の赤んぼうが健康に育っているかどうか確かめるため、マハラに医者に診てもらわないかと、勇気をふるって言い出しました。マハラは自分の母乳をメアリーの子どもにもやっていることに恥じらいがあり、また自分のやり方に自信もなかったので、素直にありがたくその申し出を受け入れました。2、3年たって、メアリーの子どもが話すのが普通より遅いというので、そのマハラの女は、おしゃべりを早めるというマキバドリの舌の乾燥させたものを、ローンパインに移り住んだメアリーの元まではるばる届けに来たのでした。

メアリーがインディアンたちの本当の姿を知るようになったのは、このような経験の中でのことでした。ジョージズ・クリークの上の方の茂みの中に、スズメバチの巣のような茶色の円すい小屋が建ちならぶ小さな集落がありました。メアリーはよく晴れた気持ちのいい日にインディアンの女たちが、野生ヒヤシンスの根っこを掘ったり、種を集めたりするためにメサを横切っていくのを見るのが楽しみでした。体力がゆるせばメアリーも、女たちといっしょに行動することがあり、食べてもいい植物かどうか、薬用になるかなどの選別法を学んだり、自分の髪の毛でウズラのわなを作るやり方や、夏のせせらぎの砂地で、卵で重くなったマスをひと引きで引き上げるコツや、カゴづくりのためのヤナギや西洋スギの根っこをいつどのように集めたらいいかなどの知識を習得することに、すっかり心をうばわれていました。心とからだすべての働きに作用する労働の意味を知ること、それがインディアンの女たちの風習の中にはありました。メアリーはこのころそれを学びはじめ、それは生涯をつうじての暮らし方のひとつとなりました。


*マハラ:もとはインディアンの言葉ではありませんが、大平洋沿岸の白人たちと同じようにインディアンたちも、この言葉を「インディアンの女」として使っています。「マハラ」という言葉がどのようにして使われるようになったのかは、ほとんど知られていません。白人と知り合いになったどこかの部族の言葉だったのかもしれません。スペイン語で女を意味するムヘル(mujer)の発音を間違って覚えたとも考えられます。(メアリー・オースティン著「インディアン・テイルズ」より)
*メサ:アメリカ合衆国の南西部やメキシコの乾燥地帯でよく見られる卓上台地。頂上が平らで、山の上部をスパッと切り取ったような形をしている。スペイン語の「テーブル」が語源。



#4 マス釣り
   <「Earth Horizon」より>


赤んぼう連れでマス釣りをする大変さを、メアリーはよくわかってはいましたが、近くの川にはマスがたくさんいて、ときに大きな獲物が季節の嵐で押し流され、浅瀬に打ちあげられたりしました。

ジョージズ・クリークの近くにある小さな峡谷のひとつで、集中豪雨があったときのことです。それは山のところから非常な高さの光る水しぶきとなって、雷の音をともなって現われ、勢いづいたまま、平原いっぱいに前進し、それから浅い涸れ谷に雨を排水しながら、徐々に下っていき、メアリーの家から14、5mのあたりを通過していきました。

メアリーは片腕に赤んぼうを、もう片方にくわを持ち、嵐が残していったものを、大きくて元気のいい湖水マスが、バタバタと水たまりであばれまわっているのを期待して外に出ました。くわでマスをしとめにかかる前に、浅い小さな流れをせきとめようと、赤んぼうをセージの茂みに寝かせました。

そのとき一匹のワシが舞い降りて、目をつけていたメアリーのマスをさらっていこうとしました。メアリーがくわを振るったので、ワシはマスをとり落としました。怒りの鳴き声をあげ、長く鋭い爪を見せながら、ワシはメアリーの眠っている赤んぼうに突進しました。今でもメアリーは、あのときもし、セージの茂みの中に赤んぼうを寝かせていなかったら何が起こっていたかと思うと、ひや汗がでます。舞い降りたところにもう一度メアリーのくわが入ると、ワシは鋭い叫び声をたてて、今度ばかりは大きく広げた翼を傾けながら、はるか遠くの青空の中へと消えていきました。

どうやってメアリーが家までもどったのか(マスを手に)、今でも本人は思い出すことができません。とはいえその事件が起きたのは、ワシのすみかを調べることもしないで赤んぼうを戸外に連れ出していたころの話。その日の夕食の席でメアリーは、ウォーレスには事件の話抜きで、マス釣りの話をしました。


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