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陽気な氷河(1)

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ずっと昔のこと、リッター山とトゴバ山の間の名もない山の麓で、三年続きの大雪の後に氷河がひとつ生まれました。氷河は白皮松が生え登っている上限の地点の、とても高い山の間のクレバスから這い出てきて、扇形にその身を広げていましたが、上の方の端っこは、山腹から滑り落ちてくるゆるんだ雪の下にもぐっていて見えません。三年続きの厳しい冬の間、嵐が来るたびに月単位でシエラの山頂は暗いベールにおおわれ、雪が降りに降り、風が吹きに吹き、吹き寄せられた雪のかたまりが自分の重さにたえられず、山腹の長い溝を滑り落ちていきました。そこは日の当たらない北の斜面で、しかも夏の間ずっと雨がちの寒い日々がつづいたので、つぎの雪どけで雪が消えてやっと、氷河は石だらけの小さな平地に身を広げることができました。まだとても小さな氷河で、十メートルにも満たない透明なキラキラした氷のカタマリでしたが、一方の端をスカスカの荒い雪粒の下の黒いぬかるみに突っ込み、高い方の端は、ガラスに粉をふりかけたようなきれいな乾いた雪つぶを身にまとっていました。そんなわけで、山のヒツジが夏になって草を食べにやって来たとき、小さな氷河はそこにいたのです。

 雪どけでヒースの草地が姿をあらわし、苔むした岩々があたためられる頃には、山が抱きこんでいるその手をゆるめたので、氷河は自分の重さで斜面を這い降りはじめました。ゆっくりと動きはじめたその瞬間、小さな氷河は喜びのきしみ声をあげました。
 「あー」と小さな氷河。「ボクはもう、一ケ所にずっと座りこんでるような、ただの雪のかたまりじゃあないんだ。ボクは、ボクは、もう、りっぱな氷河なんだ」。自分がほんとに氷河なのか、ずっと気にかかっていたのです。
 夏の終わりまでに、峰の日の当たらないところで、氷河は体長を伸ばしていきました。やがて雪が大量に、ドカドカと降りはじめましたが、氷河はじっと耐えていました。ただ、氷河の下の山肌にひび割れができ始めたので、旅にそろそろ出る頃かなと、考えはじめてもいました。旅をしたいとずっと思っていましたし、大雪がつづいて、夏の間も気温が上がらなかったせいで氷河は大きさを増していて、石だらけの平地をほとんどおおうくらいまでに成長していました。これなら世の中に出て、りっぱにやっていけると自信を高めていたのです。たしかに、その時期は来ているようでした。見わたすと、あたり一面が古い氷河の通った跡で深くえぐられ、高い峰はとがった氷できらめいていました。斜面の下の方では、大きな花コウ岩が透明なガラス質を輝かせ、その下にはカシオペやブルーヒースが広がり、それから表面を磨かれた花コウ岩のかけらがあって、ペンステモンやヒースがそれにつづき、さらに下にいくと歩くのに苦労するくらい丸くつるつるになった花コウ岩あり、そしてユキノシタやシモツケソウがあらわれ、最後はジャブジャブと音をたてている石だらけの川に行きつきます。小さな氷河はキラキラしながら、小さな草花たちになでられながら、山腹を這い降りていき、平地のいちばん先っぽのところに着いて、断がいの端から下を見おろそうとしました。でも下を見ようにも、氷河は全身かたい氷でできているので、うまくかがめません。
 「これくらいのこと、平気さ」と小さな氷河。「ちょうどいい高さのところまで、崖を這い降りればいいだけさ」。氷河は峡谷へのくだり道になっているガレキの上で、身を支えようと固そうなものをつかみました。ゆるんだ雪が上からのしかってきていましたが、それにつぶされる前に、氷の縁が崖の外に押し出され、砕け散り、輝く川底にむかって落ちていきました。
 「いっそよかった」陽気な氷河はいいました。「上で氷を砕きながら、下にそれをためていく、半分の時間で仕事がすむってもんさ」
 でも、それでもう終わりでした。それが平地のいちばん端まで氷が行き着いた最後の年でした。次の年は、雪が少なく晴れの多い年になりました。むきだしの岩の斜面が熱くなり、ずっと熱いままだったので、氷は溶けはじめ、溶けた水が流れになって崖をこえて、白銀のベールとなって谷間に落ちていきました。
 「なんて、幸運なんだ」と氷河。「川の先頭になれるなんて、すごい出世だ。そのうえ、これなら滝越えも簡単さ」。




陽気な氷河(2)

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 溶けた氷河は透きとおった水になって、トクトクと音をたてながら石の中に落ちていきました。そして水かさを増しながら、トゴバからの激流の方へと峡谷を降りていって、次の夏になってクロウタ水鳥に見つけられました。グレイブルーのまるまるとしたクロウタ水鳥は、滝を落ちていく氷水と同じように、ピチャピチャ水しぶきをまき散らしながら、小石の水切りのようにピョンピョンとやってきました。クロウタ水鳥は氷の縁に止まって鳴きやむと、川の上をいっしょに滑りはじめました。
 「おわかりかもしれませんけど」と氷河。「ボクは人生を始めようと思って、山を降りてきました。でも、嬉しいことに、いまやボクは川になったんです」。
 「なんだって楽しい」とクロウタ水鳥。「こ、れ、が、わたしの仲間がずっと信じてきたモットー。じっさいその通りだし」。滝のしぶきの中を出たり入ったりして餌を探しているクロウタ水鳥に近寄ったら、こう繰りかえし歌っているのが聴こえるでしょう。「なんだって楽しい」と。氷河が流れの中でどんどん小さくなっていっている間も歌はつづきましたが、ついに氷河は中がくりぬかれ、そこから、やわらかなきれいな青い光が洩れはじめました。するとクロウタ水鳥はその氷の横あなの中に飛びこんで、歌声をすてきに響かせて、水音と氷のチンチン鳴る音とのハーモニーを聞かせました。そのときにはゴロゴロ石の平地の方では氷河はすっかり姿を消していましたけれど、それでもクロウタ水鳥の楽しげな歌に反対したりはしませんでした。 ゴロゴロ石の平地では風が一寸ヤナギの種を運んできて、芽を出し、根を降ろしていました。小さなキンポウゲも顔を出し、氷水のみずたまりの中で身震いしました。
 「なんだか、自分の草原をもったみたいだ」と氷河。このときにはマンネングサや紫ペンステモンの花が、平地のへりの湿った割れ目で咲いていました。「山のこんな場所に可愛い氷の庭ができるなんて、信じられないや。氷河としてみんなに知られることと、道々で石を磨くことくらいしか考えてなかったのに。クロウタ水鳥はまったく正しいや。なんだって、うまくいくさ」。
 クロウタ水鳥は冬の初めの、川が雪にせきとめられて濁ったぬかるみになる頃に流れを下って山すそまで降りていき、雪解けと共にまた、山に戻ってきます。だから十月から六月までの間は、クロウタ水鳥と氷河が出会うことはあまりないのです。
 「だけど、だけど」と氷河。「きみがいない時が長ければ長いほど、互いに、いつ会えるんだろうって思いがつのるのさ」。
 「こればっかりはね」とクロウタ水鳥。どんな嵐も寒さもクロウタ水鳥は平気だったけれども、食べものなしには生きられないからです。




陽気な氷河(3)

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 こうしていく冬もいっしょに越えたある初夏、クロウタ水鳥は、滝をおちる水の流れが弱まっていることに気づきました。わずかばかりの水のしずくがシダを震わせながら、岩の割れ目に消えていくのを見ました。クロウタ水鳥はただの陽気な小鳥でしたが、そんなことをグズグズ言ったりするような弱虫ではありません。氷河はもうそんなに長くはもたないのはわかっていました。だから、クロウタ水鳥は穴だらけの氷の横あなの回りをスイスイ飛びまわっては、あのいつもの陽気な歌を、いっそう軽やかに楽し気に歌いつづけました。
 「まったく、ほんとうに」と氷河。「ボクが楽しいことってのはさ。前のボクは、バシャバシャすごい音をたてて、滝を越えて落ちていくときが最高だった。でも今は、この草地に水をもたらすことが素敵に思えるんだ」
 見るとかつて氷が広がっていたところは、ほとんど草でおおわれて、まん中にはカシオペの花がすばらしい白鈴のカーペットを広げています。年を越えるごとに、緑は深く、花々にあふれていきました。クロウタ水鳥がずっと見まもり、いつも気にかけ、楽しんできた氷河が育んだ庭、それが、ある年流れを登ってきてみると、草地も水もすっかり消え去っていました。それを見たクロウタ水鳥の、悲しみをどう言ったらいいでしょう。
 長い冬があって、雷鳴とどろく嵐が来て、かつて氷河がいた草地には、山頂から花コウ岩の大きな塊がころがり落ち、つぎつぎに滑り落ちてきてガレキの山となりました。草地は砕けて尖った石の下に埋もれて、跡形もありません。
 それでも、ずっと友達だった氷河がいた場所に、クロウタ水鳥は来るのをやめず、何回も何回も来ては、楽し気に歌をうたって飛びまわりました。そんなある日、太陽が照りつけ、ヒースが草地を白く染める頃、細くて小さな水の流れがガレキの山からはい出してきているのを見つけました。そしてその陽気な音を聞いてすぐに、ああ、友達の小さな氷河だ、もしかしたらその子どもなのかな、と思いました。
 「いやー、ほんと」泉がぶくぶくと言いました。「まったく、なんて幸運なんだろう、ボクは。氷河のボクは確かに、夏をいくつも越えている間に溶けてしまったけど、ここに転がってる石たちが守ってくれているから、ここで永遠の泉になったって、不思議じゃあないよね」
 実際その通りになったのです。砕けた石の間にたまった雪どけ水といっしょに、草地のあったところに水たまりをつくり、その泉は乾くことがありませんでした。それから毎夏というもの、ヒース、ペンステモン、ユキノシタがいっせいに花を咲かせると、陽気な水が名もない峰のふもとからやってきて、そこにクロウタ水鳥も水しぶきの滝から登って来て、がれきの上にとまって歌をうたいました。みんなでいっしょに歌をうたうと、その歌声はすてきなハーモニーになりました。耳をよーく澄ましてみれば、歌の文句はいつもいつも同じ、あの楽しげな歌だと気づくと思います。

(2003.12.5..改稿)

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