ブロンドの髪を肩の上で、父親のひざの上ではねまわる子どもように揺らしながらやって来る女を見て、オゲは自分が何を言われるか察知した。

金髪女のくちびるはトマトピューレのように真っ赤に口紅が塗られていた。女は近づいてくるとつくり笑いをして「マフロウ(奥さま)、何をお探しですか?」

オゲは、だいじょうぶ、自分で好きなように見ますから、ちょっと見てるだけですから、と言う。

それなのにショップの女は、振り払っても離れない嫌な臭いみたいにまとわりついて、オゲの後をついてくる。女は紫のタートルネックを着ていて、首が締め上げられているみたいに見えた。オゲはタートルネックはどうにも耐えられない、窒息してしまう。

オゲにはショップの女が親切でそうしているのではないことがわかっていた。何を思っているかオゲにはわかる。「ウィブラで買ったみたいなジーンズに着古したTシャツのアフリカ人の女が、わたしのブティックで何を買おうっていうの? 何が買えるってのかしら?」

オゲはショップの女を無視して、ナイティーみたいなシルクのドレスに手を触れる。女はすぐそばにやって来て、オゲが何も聞かないうちに「300ユーロです、マフロウ」、女はつまようじをパチンと砕いたような声で言う。最低限の礼儀をなんとか保ちつつ、この応対を楽しんでいるのだとオゲにはわかる。この女、いつまで礼儀をわきまえていられるかしら、それがオゲの思うところ。

オゲは空調のよくきいた店の反対側へと歩いていき、スカートを手にとる。女がやって来てオゲの後ろに陣取るとき、ブロンドのボブの髪がオゲの後頭部をかすめた。そして「350ユーロなんですけど」うんざりしたような声で言う。オゲは、このヒトあたしが読めないと思ってるのかしら。いいかげんにしてほしい、値段は見落としようがないくらいくっきり書かれてるのに。

「あれ、いただこうかしら」 そう言える自分の経済力を感じながら意気揚々とオゲは言う。

ところが女は面白がってでもいるように微笑んで、オゲの声が聞こえない振りをする。女はオゲがこんな高価な服にお金が使える身分じゃないはず、と思っている。それでもう一度値段を言う、ゴングでも鳴らすみたいに語気を強めて。オゲは店内を一通り見て一枚のスカートに目星をつけている。藤色のフリルで縁どられた茶色のスカート。てっぺんにお砂糖をまぶしたチョコレートアイスクリームを思わせる。最初にあれを食べたときのことを思い出して、オゲは微笑む。このスカートを着たらきっと素敵、オゲは確信する。楽しかった思い出に酔いつつ、財布の中身にも浮かれて、足どり軽く、スカートに合わせるブラウスを見てまわる。これと思うものを見つけると、試着室に入って試してみる。試着室の鏡の前でオゲはくるりとまわり、満足してにっこりする。

オゲがお札を取り出すと、ミズ・ブロンドヘアは尊敬の入り混じったまなざしを向けてにっこり笑った。お祈りでもしているように口元を動かしながら、スカートとブラウスを丁寧に包み、ブティックの名前が大きく書かれた光沢のあるショッピングバッグにそっと入れる。

ミズ・ブロンドヘアは生まれたての赤ん坊を扱うように紙袋を持ち、気前のいい笑顔を見せるが目は笑っていない、そしてオゲに手渡し、良い一日をお過ごしください、と言う。オゲはショップの女の変貌ぶりを楽しむ。幸せな気持ちと言ってもいいくらい。ここのところオゲは100%の幸福感を味わっていない、だからまあまあ幸せな感じ、はそれだけで価値がある。



オゲはいつもお金がなく、お金が欲しいとずっと思っていた。お金のことを気にしなくてもいい両親の元には生まれなかった。小さい頃から、オゲは自分の家族がはまり込んでいる貧乏の連鎖を断ちきりたいと思っていた。お金持ちのすべすべした肌触りをうらやんでいた。富あるものの香り。殺人と盗み以外のことなら何でも、やってみたいと思ってきた。そして運が巡ってきたとき、オゲは両手でしっかりそれをつかみとった。しっかり幸運と握手し、それが逃げないようにした。



オゲは通りに出た。太陽は出ていたけれど、いつも通り、暖かさの感じられない日の光だった。オゲは自分の今いる場所を確認するように、空を見上げる。故郷では、太陽はいつも強烈で、戸外にいるときは目を細めていた。ここでは太陽は、子どもの絵の中の、空に貼りついた黄色いプラスチックみたいに弱々しい。男が一人、オゲの方に歩いてくる。明るい茶色の上着を着て、やや前屈みになって歩いている。左のポケットから犬の糞取り用具がのぞいている。男は犬を抱いている。赤ん坊に授乳しているみたいな格好で、胸元に犬をしっかり抱え込んでいる。でもその犬は生まれたてとはまるで言いがたい。黒くて硬そうな毛並みのきたない犬だった。オゲの横を通り過ぎるとき、犬がクーンと哀しげに鳴き、男は足をとめてオゲに笑いかけた。笑うというにはあまりに哀しげな笑い、そして犬が病気なんですと言った。男は犬を僕の黒ちゃんと呼んでいた。「Mijn blackie is ziek(僕のブラッキーは病気なんです)」 聞いてもいないのに、見知らぬ者同士なのに、男はそう言った。ずっと泣いていたか酔っぱらっているみたいなしわがれ声で、あるいはその両方だったのかもしれない。オゲは男の顔を見た。使い古された紙袋みたいな顔だった。目は何かを訴えかけていた。寂しさなのだろうか。手で触れられるほどの孤独感、オゲは手を伸ばせばその感触がつかめるような気がした。この男には家族はいるのだろうか、病気のブラッキーを胸に抱えて歩きまわるこの見知らぬ男には。この男はひょっとして犬が死ぬのを待っているのか。もしブラッキーが死んだら、この男はどうするんだろう。彼の人生も伸びすぎた輪ゴムみたいにパチンと切れるのか。そこで事切れ、放置され、誰の引き取り手もなく、2003年にフランスで熱波のために死んだ老女たちみたいになるのか。オゲはヨーロッパで老いていくことを考えて身震いする。自分は祖母が老いていったようにして年をとりたい、家族がそばにいて、子どもたちが順番にオゲのために身のまわりの世話をしてくれるような。オゲは男に微笑みを返し、ブラッキーが元気になりますように、と言う。男は泣き出すんじゃないかと思ったけれど、犬の顔を上に向けて鼻にキスをする。そして悲しみで重い足を引きずるようにして立ち去る。



オゲの父親はバスの運転手だった。エヌグ(ナイジェリア南部の町)の富豪の一人、ムバカ首長が所有するバスを借りて運転していた。オゲは自分の父親が汚れた洗濯物であるかのように、友だちの目から隠そうとしていたことを恥ずかしい気持ちで思い出す。からだの隅々まで貧乏が染みついているような男だと思っていたからだ。貧乏は、卑しく空虚な目の中に現われていた。貧乏は、ふらふらと安定しない歩き方の中に現われていた。オゲはこういうむき出しの貧しさを友だちの詮索の目の前に晒したくなかった。夜ベッドの中で、別の新しい父親がいたらいいのにと願っていたことを思い出す。ひと目でわかる貧しいバスの運転手なんかではなく、地元の安酒オゴゴロの臭いをさせて、毎晩ママ・フライデーの店から帰ってくるような父でもなく。ママ・フライデーはこの辺の男たちの溜まり場。店主のママ・フライデーは山羊の頭料理ンクウォビで知られた人。オゲは父と母が言い争っているとき、ママ・フライデーくらい美味いンクウォビが喰えたらもっと家にいるはずだと、父が言っているのを聞いたことがある。母親は、山羊を家に持ち帰る器量が父親にあれば、ママ・フライデーなんて自分の料理にたちうちできないと言い返した。母親はオゴゴロを次から次へと父に売りつけるママ・フライデーは、地獄に行くと言っていた。ある日オゲは母親に聞いてみた。父さんは責任感がないんじゃないの、と。その応えとして、母親はオゲの口元をピシャリと打った。年上の者に生意気なことを言うもんじゃない、と言って。オゲはもう十七歳で、胸もふくらみ、ボーイフレンドとも寝ていて(もちろん母親は知らないけれど)、自分はもう母親と同じ大人だと感じていたとしても、そういうことは問題ではなかった。もしまた母親に歯向かうようなことを言ったら、今度は口の中から歯をたたき落とすと、オクラの木が育ての親を追い越すことは絶対ないとわからせてやると言った。母親はすべての責任を、オゴゴロを男たちに売って、育てるべき子どもたちが家にいることを忘れさせてしまうママ・フライデーに押しつけていた。「ママ・フライデーは大きくて深い悪魔の鍋の中で火あぶりにされたらいい」 オゲの母親はそう言い放って、長いため息をついた。今度は母親に言い返さなかったが、オゲは静かに痛むくちびるをなめていた。



子どもにひもを繋いで歩いている女がいる。黒いカーリーヘアがくるくると頭をおおっている子だった。四歳にもなっていない女の子で、お腹のところでひもに繋がれていた。ひもを外そうとするのだが、母親はひもを引き、何か早口でその子に言った。子どもは大声でワッと泣き出す。なんでこの女は自分の子を犬みたいにひもで繋いでいるのだろう。オゲは疑問をもつ。理に合わない世界だ、とオゲは思う。犬が抱っこされて、子どもがひもに繋がれている、そういう世界。五年間ここに住んだことでずいぶん無神経になり、免疫もできているはずなのに、どうしてこんなに気持ちが揺れるのだろう、そう自問する。最初の頃は、外に出かけるたびに、慣れない新しい世界にいちいち反応して声を上げていた。今でもよく覚えているのは、オゲの祖母くらいの年齢の近所の人が、自分を紹介するとき「ジーナです」と名乗ったときには驚いて開いた口が塞がらなかった。故郷では、年配の女たちは自分のことを名前で紹介することはない。オゲはジーナを呼ぶとき、頭に「ママ」という尊敬語をつけないことにはどうにも口がまわらなかった。ジーナは驚いて、何で「ママ」なんて付けて呼ぶのと聞いてきた。居心地悪いわ、と言うのだ。オゲはジーナと呼ぶようにした。そうするしかなかった。

初めてオゲが公衆の面前でキスするカップルを見たときは、自分の方が恥ずかしくなってしまった。でも彼らは、ブリュッセル行きの列車の到着を待つそこにいる人々の目には、まるで映っていないんだと気づいた。誰もがいつも通り、笑ったり、話したり、顔をしかめたりして行き来していた。以来、オゲもそこで何か見ても驚いたりはしなくなった。徐々に街をまとうことに慣れてきたオゲである。昨日、公園のベンチで抱き合っているカップルを見たけれど、オゲは目をそらして読んでいるフレアー・マガジンに頭を埋めただけである。十二、三歳の子どもたちがたばこを吸っているところに寄っていって、あなたたちは命と引き換えにたばこを吸って小遣いを燃やしてるのよ、などと言うことは今ではなくなった。泣いている赤ん坊に手を焼いている女の人がいても、手伝いましょうか、などと申し出ることもしない。オゲはこの新しい土地を身に馴染ませている。かつて故郷を身にまとっていたように。



乾期に突然豪雨が降り出したみたいに、キングスリーがオゲの生活に入ってきた。何でもない普通の日があって、次の日には一人の男が軒先にやって来て、ガソリンの臭いを漂わせながら手を洗わしてほしいと頼んだ。男が言うには、すぐそこで車が壊れちゃって、直していたんだけどそれで手が汚れてしまって、だけど今から人と約束があるんです。オゲはからかうような口調で、それにしては随分見た目の印象が悪すぎやしない、まるでガソリンスタンドを襲ってきたみたいよ、と言った。男は真ん中に隙間がある見事な歯並びを見せて笑った。オゲは知らない男と冗談を言ったりは普段しないし、今は十六歳のときから三年間つきあっているボーイフレンドがいた。でも軒下にいるこの男は無害に見えた。それにガソリンの臭いを撒き散らしながらも、腕時計は高価なものに見えた。オゲのボーイフレンドといえば、高価なものなど何ひとつもっていない。ボーイフレンドの父親は所在不明、母親は雨期に焼いたトウモロコシとウベ(ヤムイモ)を売っていた。オゲは彼を愛してはいたけれど、誰かもっと羽振りのいい人と出会うまでのことと思って、彼と過ごしている自分に気づいていた。目の前にいる男はキングスリーと名乗り、オゲに名前を聞いてきた。オゲ、と名前を告げると、きれいな名前だねと言った。知っている中で一番美しい名前だ、女神の名だね。男のことを愉快な人だと思っている証拠に、オゲは笑ってみせた。男はウィンクすると、ヨーロッパから来たんだ、カーディーラーをしていてね、ベルギーからラゴスに車を輸入してるんだ、と言った。手を洗った後で、男はオゲと握手すると、また会えないかなと聞いてきた。オゲは男の手首の高価な時計に目をやって、いいわよ、もちろんよ、あなたのいいときにいつでも、と答えた。

何回か男はオゲを高級なレストランに連れていって、フライドチキンや山羊のペッパースープを食べさせた。男はウェイターに多額のチップを置いた。料理が驚くほど高くても文句のひとつもいわなかったが、一椀のペッパースープに払った料金は、山羊がまるまる一頭買える値段だった。男は今まで行ったことのある場所について話した。ベルギーやスペイン、イタリアなど。そういう場所はいつまでも続くパーティのように聞こえた。ブリュッセルの夜を見せたいとか、バルセロナでショッピングをしようなどと男は言った。オゲはそれほど罪悪感なくボーイフレンドと別れた。心から愛していたから辛い気持ちはあったけれど、いつかは愛せなくなることもわかっていた。

オゲが母親に、キングスリーが結婚の申し込みをしようとしていると伝えた日、母親は家の小さな居間(夜はオゲの寝室になった)の中を踊りまわって、娘がわたしを幸せにしてくれた、わたしはオガラニャ(金持ち)の義理の母になるんだ、と言った。これで、今まで囚われていた貧乏の連鎖を断ち切れると、オゲは幸せだった。オゲは貧乏を切り落とそうとしていた、新しい夫を愛する努力をしよう、たとえそれほど彼のことを知らなくても、きっと成し遂げられる。



今は九月、もう寒い。新しい家で恋しいものがあるとするなら、それは暖かさだ。ここに来た最初の年、オゲは冬を、雪を、楽しみにしていた。毎朝起きると、寝ている間に雪が降ったかもしれないと、アパートの窓から外を見た。とうとう雪が降った日、頭にふわふわと降りかかる雪片を心から楽しみ、まるで映画みたいだと思った。

オゲはキングスリーのルノー・メガーヌの上の雪をすくって、口の中に放り込んだことを思い出す。冬ってどんな味だろう、と思ったのだ。もうちょっと何か、甘いものだと思っていた。でも何も味はなかった。それでも雪に興奮し、写真を何本も撮りまくり故郷に送った。オゲと雪が映ってるだけの写真を。雪に寝そべって脚を高く持ち上げているもの。雪玉をカメラに向かってぶつけて笑っている無邪気なオゲ。雪の上にすわって、手袋をはめた手で毛糸の帽子をかぶろうとしているところ。今はもう、その興奮は消え去った。オゲは雪にあきあきしている。エヌグの太陽が恋しくなっている。

オゲはゼシュークのモールに着く。パンケーキの店ピノッキオがクロック・マダムと名前が変わっているのを見つける。ウェイトレスも変わっていたらいいのに、とオゲは期待する。まだ店がピノッキオと呼ばれていた頃、カールした黒髪を膨らませた背の低いウェイトレスが、無愛想にオゲのテーブルを担当した。ウェイトレスはオゲのフラマン語がもたもたしているので腹を立て、早く注文してくれとオゲをせかした。オゲが注文すると、ウェイトレスはパンケーキをぶすっとした顔でもってきて、ドスンとテーブルに置いた。オゲは店長を呼んでほしいと言うにも、自分のフラマン語が不十分なことを嘆きながら、パンケーキを食べた。文句のひとつも言いたい気持ちだった。以降、この店には来るまいとオゲは誓った。もしあのとき、不満をぶつけていたら何か変わっただろうか。あのウェイトレスは店長に戒められただろうか。そうなったともオゲには思えない。トゥルノウトのC&Aで、万引きしたと訴えられたことがある。レジ係が会計のとき盗難防止タグを外すのを忘れていて、オゲが買った商品を店外に持ち出したからだ。店長はオゲに向かって、近頃はフリンダリンゲン(外国人)の万引きが多くてねぇ、と言うばかりだった。謝られて当然のこととオゲは思ったけれど、それを主張するだけの語彙がなかった。かわりに、今後その店ではいっさい買わないことにした。その店長は謝るどころか、石のような冷たい目でオゲを威嚇したのだ。

キングスリーのことを愛するように努力するというオゲの試みは誤りだった。誰かを愛するというのは努力してそうなるものではない。オゲはそうなったらと願ったけれど、心はいつまでも頑なまま、譲歩することがない。どうやっても動かない心、昔のボーイフレンド、キングスリーのために捨てたジョーを思い出しては想いをつのらせるばかり。夜、夫のかたわらで横になり指をその背中に走らせても、ジョーといたときのようなトキメキがなかった。

結婚が不幸せかと聞かれれば、そうとも言えない。何も不幸なことはなかったのだから。キングスリーがオゲに手をあげることはなかった。彼がオゲにお金を出し渋ることもなかった。毎月、故郷の両親にお金を送るため、駅にあるウェスタン・ユニオンの振り込みサービスへとオゲを送り出しさえする。

だからといって、オゲは自分が本当に幸せだとも言えない。壁紙で飾られたアパートの窓から外を見て、幸せそうなカップルたち、手を握りあい自分たちの愛を信じきっている彼らを眺めていると、固いしこりのようなものがせり上がって、胸の内に根をおろす。頑固で融通のきかない自分に悪態をつくのはこんなときである。

日本語訳:だいこくかずえ

Originally published in Muse Apprentice Guild, Fall 2003.

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