ディミエ・アブラカサは十四歳。小さな耳、長い首、器用で繊細なスリの手をもっていた。祖母はディミエの肌が磨き上げたカムウッドのようだ、と言った。母親は息子の目を嫌っていた。



アダカ・ボロ通りにある197番地と書かれたその家は、青空色にペイントされていた。戸口の上には、黒い文字で次のような言葉があった。

この建物は売り家ではありません
419条詐欺に注意*

入口のドアは掛けがねが壊れているせいで半開き、灯油の燃えかすとネズミの毛の臭いがする通路の方に開いていた。通路には九つのドアが向かい合っているが、どれもすすで汚れ、いいかげんな修理が施され、けばけばしいステッカーが貼られて、それぞれに異彩を放っていた。通路は中庭に通じている。そこは貯蔵庫と調理場、人の集まる場である。



ディミエ・アブラカサは通路に足を踏み入れ、自分の家の方に歩いていった。そして右側の五番目のドアのノブをまわす。ドアがきしりながら開いた。中から熱気があふれ出て、薬物の燃える臭いが漂った。ディミエは学校のカバンを肩からおろし、部屋に入るとかかとでドアを閉めた。テレビがついていた。メネイアとベナエビがいた。
「おかえり、ディミエ」 弟と妹が声をそろえて言った。
「ああ」 ディミエが応える。そして母親の方を見て言う。「ただいま、ンマー」 

母親のダオジュ・アナブラバはベッドで脇腹をつけて横になり、顔をドアの方に向けていた。胸からひざのところに、赤と黒と緑のプリントの布を掛けている。汗で肌が光っていた。白い三枚花弁の花のついた薄緑のシーツは、汗でへたっている。ベッドのそばの床には、ジンの空ビンが転がっていた。ディミエ・アブラカサは母親が返事をするのを待っていたけれど、返事を返さないことはわかっていた。返事がないので、ディミエはあきらめて、部屋の隅の方に制服を脱ぎにいった。

電球がひとつ、天井から吊り下がり、部屋を照らしていた。ドアの向かい側の壁に窓がひとつあったけれど、木のシャッターがおりていて、さびた釘で打ちつけられていた。壁にそってベッドがあった。ベッドの足元のところに、木の机が置かれていた。机の上には、古びたメッキのフォトフレームに入った写真が一枚。ディミエ・アブラカサはそこでパンツを脱ぎ、一番下の引き出しをあけて中をかきまわし、ジーンズと黄色いTシャツを引っぱり出した。

メネイアとベナエビはテレビの前であぐらをかいて座っていた。スクリーンから放たれる光が、黙ってテレビを見る二人の顔の上でチカチカしていた。メネイアは母親とそっくりで、一ヵ所だけ違うのは、ダオジュ・アナブラバが右頬に毋斑があるのに対して、メネイアは同じ場所にレーズンのような色形の黒子(ほくろ)があることだった。メネイアはベナエビより四つ年上、弟は八歳で乳歯が抜けかわっている最中だった。ベナエビは親指をいつも吸っていた。姉のメネイアはなんとかしてその癖をやめさせようとしていた。手を苦い葉っぱの汁につけてみたり、ニワトリのふんを指にぬってみたりしたけれど、ベナエビは指吸いをやめなかった。ツメをかんでいないときは、抜けた歯の間に親指を突っ込んでいた。両手の何本かの指は、ヒョウソで瘢痕(はんこん)になっていた。親指の皮膚は白くしなびて、ホルマリン漬けの標本のようだった。

ディミエ・アブラカサは机から離れた。メネイアが顔を向けてきたが、目はテレビ画面に当てられたままだった。
「何食べる? ディミエ」 メネイアが訊く。
ディミエ・アブラカサはベッドの頭の方に歩いていき、壁に寄りかかって、足を組み、こう言った。「ガリーがまだあるんじゃないか、だろ?」
「でもスープがない」とメネイア。
ベナエビが親指を吸いながら、顔をあげて言う。「お腹すいた」
「何食べるの?」 メネイアがまた訊く。
ディミエ・アブラカサは母親の方に目をやった。母親の顔は無表情で、抜け殻のように見えた。生きている証といえば、頬に張りついたいく筋かの茶色の髪が、息をするたびに動くことくらい。ディミエはメネイアの方に向いて言った。「明日までもつくらいスープをつくるには、いくらかかるかな?」
「300」 メネイアがざっと見積もって言った。
「魚の、肉の?」
「肉」
「魚の方が安いだろ」
「でも、この前二回とも魚のスープだった」
ディミエは答えない。メネイアが折れて、ため息まじりに言う。「わかった、魚でいい。200で買えると思うけど。それでいい?」
「そうだな」とディミエ・アブラカサ。「オレは、、、」とズボンのポケットをひっくり返し、紙くずや糸くずと共にナイラ札を取り出す。「、、、百と六、七、、、170ナイラある。おまえは?」
「あたしは10ナイラしかない、ディミエ」
「こっちよこして。ベナエビ、おまえは?」
「お腹すいた」 ベナエビがつぶやいた。メネイアが弟の方に顔を向けて、ピシリと言う。「ベナエビ、口から手を出して、たたくよ。バブバブブーの甘ったれ。あんたお金は?」
「50ナイラあるけどやらない」
「わかった、どこにある?」
「だからそれは、、」
「うるさい。どこよお金は」
「ママに今朝あげた」
皆の目がベッドの方に向けられた。メネイアが沈黙をやぶる。鼻をならして「フフン、そんならもうないよ。どうする、ディミエ?」
「180だな」とディミエ・アブラカサ。札を数え、折って束にしたものを右の尻ポケットに入れた。「これでなんとか、、」
その言葉は突然の暗転によってとぎれた。停電だ。
「あー、ネパ電*だよ」 ベナエビが足を叩きながら騒いだ。「またかよ」
「うるさいっ」と姉のメネイア。「すぐまた電気くるよ」と言い、「神さまのおぼしめしでね」
ディミエ・アブラカサは二人の声がするあたりに少しずつ近寄る。地下室のような暗さ、すえたアルコールの臭い、不快な暑さのせいで、ディミエは部屋にいるのが耐えられなくなった。ドアのところへ行って開け、通路に出た。ドアを閉めるとき振り向くと、母親がじっとこちらを見ていた。肩肘をついて頭をあげ、髪を指先でうしろになでつけた。そしてこう言った。「あたしのクスリなしに帰ってくるんじゃないよ」



ディミエ・アブラカサは午後の強い日射しの中へと出ていった。地平線を見ると、太陽にかぶさるように黒い雨雲のかたまりがあった。じっとりと空気は重く、風はなかった。建物の前を渡るとき、近道して裏道を行くことを考えたが、ポケットにお金が入っていることを思い出し、表通りを歩いていった。

以前は漆黒だった道路は、灰を流したようなグレーに変わり、埋め込まれたボルトやビンのふたが太陽を浴びて、光を放っていた。アスファルトにはニキビのような穴があちこちあいていて、歩道の上は、枝が伸びたように割れ目が入っていた。溝はところどころ泥で埋まり、別のところはゴミが詰まっていた。町の暮らしを彩る音楽といえば、エンジンの回転音、車のクラクション、カンカンドンドン音をたてる職人たちの仕事場、そして人々の怒声怒号(世界で有数のやかましい地域だ)。町は騒音に満ち、塵がうずまく。

第二砂地を通り過ぎ、向こうからやってくるヤムイモを高く積んだ手押し車を避けて道を渡ると、ディミエ・アブラカサは急に小便がしたくなった。ディミエは立ち止まり、まわりを見まわし、目をつけた路地を入っていった。路地は影になっていて、焼けつく太陽は外の世界だった。太陽のぎらつきを逃れると、急に切迫感が増してきた。急いで路地を行き、歩を進めながら息をつめていた。路地は糞の山があちこちにあり、小便の臭いが漂っていた。道の両側にある建物の窓は板でふさがれていて、はがれたペイントが苔のついた板の上で丸まっていた。男の子の一団が路地の向こうでたむろしていた。

ディミエ・アブラカサは立ち止まると、ズボンの前を開けた。壁に書いてある文字を黙殺する。そこにはこう書かれていた。

ここで小便をするな
地主からの警告

ディミエは壁に向かって放尿した。背中をそらせふーっと気をゆるませた。そして泡だつ流れにさわらないよう足をずらした。路地の向こうの少年たちのあげる興奮した声に一瞬気をとられる。ディミエが最後の一滴をしぼり落としていると、少年たちがワッと歓声をあげ、同時に悲鳴があたりをつんざいた。びっくりしてディミエは飛び上がり、ズボンのジッパーをひっかけてしまった。小さく悲鳴をあげ、自分のものをつかむとシーと息を吸う。注意深く指をつかって、ジッパーの歯からなんとか解放する。

ネコの口臭を感じて何だか知りたくてたまらず、ディミエ・アブラカサは少年たちの方に近寄っていった。少年たちが道をあけた。ディミエはその並びの中に入っていった。袋だたきにしているのは、何か人間以下のもののようだった。血の海に横たわっているのは、みすぼらしくも哀れな犬、あるいは山羊かと思ったが、それはボロをまとった女が縮こまっている姿だった。女は少年たちに囲まれてうずくまっていた。ひざを抱え、両手で耳を押さえていた。ひざ頭は荒れ、手は垢で木の根っこのようだった。もさもさした茶色っぽい髪の束が肩に落ち、その上にゴミ捨て場のゴミが撒き散らかされていた。悪病の臭いが漂っていた。

ディミエ・アブラカサは少年たちの方に目をやった。何人いるのか数を数えはじめたが、十二人目まできたとき、一人が動いて邪魔をした。ディミエのいる端からまた数え直すのはめんどうだった。何人かは手に棒を、他の者はレンガを持っていた。両方手にしている者も少しいた。ディミエはこの中の二人は同級生だと気づいたが、そのほかは知らない子ばかりだった。

ディミエは女をまた見た。その女は歯を鳴らしてうなり、しゃがんだまま体を揺らせていた。目は恐怖で血走っていたが、顔は笑っていた。女は取り囲む少年たちに目をさまよわせ、鳥がするみたいに、とうとつに首を回した。ディミエ・アブラカサは目をそらし、知り合いの二人の内、近くにいる方のバリドムのところまで、列をかきわけて進み、肩に手を置いた。

「このキチガイなにした」 ディミエが訊く。
もう一人の知り合いのバリポが、ディミエ・アブラカサに怒りの目を向けながら答える。「狂ってンだよ」
そのとき女が手を地面について立ち上がろうとした。少年たちは女の動きを察知した。棒を手にした者たちが女に飛びかかり、頭や背中、尻、脚を打った。女の口から悲鳴がもれた。少年たちの連打で、女はまたしゃがみこんだ。

少年たちは再び放心状態になっていた。もう遊びではない。この子たちは魂を昂揚させ溺れさせていた。女が萎縮したことで、さらに気を高ぶらせていた。何人かが大声で叫びながら輪から飛び出し、心はやらせてうずくまった女に突進していく。

一人が言う。「気違いにかまれたら、オマエも気違いになる」 そうだそうだという賛同が、少年たちの輪をめぐった。
「狂犬病の犬にかまれたら、オマエも狂う」とバリポが言った。
「そうだ、ッラ」 バリドムがうなづく。
「けどなオレは狂う前に、犬の首ブッとばす」 そう言ったのは最初に言い出した少年。
「でキねえ」とバリポ。「狂犬病の犬は狂っテンだって」
「でキる」
「でキねぇって」
「でキるって言ってんだろが」
「でキねぇって言ってんだろが」
「この気違いアマのドタマぶっとばすってんだよ。やらせてみろよ」
しばし沈黙。それから少年たちの歓声とあざけりの声がわきあがった。「オメエできねぇ、エリガ。そイつにやらセロ、エリガ、気違いアマのドタマぶっとばさセロって」

エリガが隣りにいたディミエ・アブラカサの方に振り向いた。「石もってるか?」 ディミエ・アブラカサはいや、と首を振った。バリポが訊く。「石いるか?」 答えを待たずに、バリドムがレンガをひとつ差し出す。エリガとバリドムの間に立っていたディミエ・アブラカサは、それに手をのばし、持ち上げ、「気違い女」に投げつけた。レンガは女の側頭部に当たり、バラバラと崩れて破片が散った。女が恐ろしい悲鳴をあげ、その声は路地に響きわたった。それは痛みと怒りの入り混じった爆発だった。そして超人的な勢いで、傷口から血を撒き散らしながら、やられた相手に飛びかかってきた。少年たちは隊列をくずして路地から逃げ出した。服を脱ぎ散らしていくように、走り去る少年たちの叫び声が尾を引いていった。

腹の中で煮えたぎっていた恐怖はおさまりかけていた。ディミエ・アブラカサは路地からも、少年たちからも、市場からもはるか遠くまで来ていた。電柱のまわりのさびたフレームに寄りかかり、何とか息を整えようとした。激しい呼吸で胸が波うっている。両手でのどをつかみ、汗で濡れたTシャツの襟首を引っぱった。追っ手に捕まりはしまいかと、あたりに鋭い視線を放っていた。通行人がそばまで来ると歩をゆるめ、ディミエをちらりと眺め、また足早に去っていった。



雨雲が太陽をおおったとき、ディミエ・アブラカサは鉄道の連絡駅にいた。あたりは薄暗くなり、気温が急に落ちて、どこからともなく一陣の風がやってきた。風は強まり、塵をあたりに撒き散らした。稲光が闇を裂き、大岩が割れるような音が空から次々に降ってきた。そしてまた激しい稲光が起こり、雷鳴が天を裂くように鳴り響いた。

鳥の群れが悲鳴のような声をあげて空を渡っていく。ちょっとした間があって、すべてが凍りついたように一瞬静まり、それから草原が燃えるような音がしたかと思うと、雨が落ちてきた。雨粒が地面に届く直前、フォークで空を引っ掻いたように青白い稲光が走り、光の一矢が逃げるツバメを直撃した。ツバメは空中で動きをとめ、雨が地を打つように転がり落ちた。

激しい雨の幕の中を、歩行者が走って逃げる。歩道に水たまりができ、溝に向かって激しく流れ出し、そこも溢れると車道に大量の水が溢れた。道路は川になっていた。車のエンジンが水を飲み、水蒸気を上げ、そしてダメになった。道の端も歩道も水が溢れていっぱいになった。あちこちで車のクラクションが長々と鳴り続けた。

ディミエ・アブラカサは歩道を離れて道路に出た。立ち往生している車の間を縫って歩いた。車のボンネットは触るとまだ温かかく、車は空っぽなのにエンジンが回っていた。ドライバーは車を降りて走り、渋滞のいちばん前の人が群れているところに合流した。

ディミエ・アブラカサは群衆の方へと進んでいき、その群れをかき分けて先頭までたどり着いた。そこには大きな穴があり水が溢れていた。渋滞は家畜を積んだボロトラックが、穴を通り抜けようとして起きたものだった。トラックは立ち往生していた。運転手は泥水にひざまでつかり、タイヤの下から泥をすくっていた。水が運転手の胸をピチャピチャと洗った。

群衆は言い争いをしていた。トラックを脇に押しやった方がいいという人々、迂回すればいいという人々。ディミエ・アブラカサはそれを見ていてわくわくした。人々は党派にわかれ、面と向かって声を張り上げていた。二人の交通巡査と警察官が群衆の中にいた。交通巡査官の一人は頭の後ろで手を組み、声を上げる人々の顔をぽかんと見ていた。もう一人はトラックをにらみつけ、顔をしかめていた。警察官は人々を仲裁しようとしていたが、争いに巻き込まれてその努力も水の泡、論争は激しさを増すばかりで、そこから脱出するために手錠をちらつかせなければならないほどだった。

そのとき群衆の前の方で、言い合いの頭越しに、誰かが叫んだ。「助かったー、軍隊が来たぞ」

軍隊の列が軍靴を鳴らしながら、早足で近づいてきた。群衆が道をあける。隊列がトラックのところまで来ると、ずんぐりした太鼓腹の、両ほほにエグバ族の誇りを表す四本の印をつけた司令官の軍曹が声をあげた。「クア・シュン!」 兵隊が歩を止めた。兵隊は皆、片手にむちを片手にライフル銃を持っていた。軍曹はむちを振りながら群衆の方に向いてこう命令した。「今すぐ、ここから立ち去れ」

群衆が散った。あちこちで車のドアをバタンバタンしめる音が響く。

交通巡査官二人はその場から消えたが、警察官はそこにつっ立っていた。胸をそらせて、軍曹のところに歩み進んだ。軍曹が振り返った。
「軍曹閣下」と警察官は言って、敬礼する。「路面の状況ですが、、」
軍曹がさえぎった。「何の状況だ」
軍曹よりはるかに大きい警察官は笑みを浮かべながら前にかがんで、「このワハラ*に対するトラックの責任についてですが、、」
「おまえは兵士か?」 軍曹がつっけんどんに言った。
「いえ、閣下、しかし、、」
「じゃあ、元兵士なのか?」
「いや、閣下」 警察官はそわそわし始めた。
「おまえの妻は兵士か?」
「いえ」

警察官は答えながら、不安げに硬い表情の押し黙った兵士の隊列に目をやっていて、軍曹が怒りで顔をゆがめて怒鳴りつけるところを見逃した。「このいまいましい平民が!」そう言って、警察官ののど元にむちを見舞った。警官は地面に倒れ、舌を飲みこまないようにぐっと押し出した。その襟首をぐいとつかむと、軍曹はむちで顔を打ちつけ、それから水の溢れている穴のところに引っぱっていった。そこで手を離し、一歩退いた。軍曹の顔が平常に戻った。

「泥ん中を這いまわれ、このクソが」 軍曹は声を落として言った。
恐怖と痛みで震えながら顔からは血を流し、警官は目をぎゅっとつむり泥水の中を這いずった。そして腹這いのまま水没した。からだを揺すると水が波うった。軍曹はむちを首にかけ、もったいぶった仕草で袖口を折り返した。それが済むと、かろうじて聞きとれる声で言った。「出ていけ」

警官は四つ足で水からころがり出ると、息をついた。軍曹が兵隊の方に向いて命令を下した。「道からトラックをどけろ」

兵隊たちがいっせいに動き出した。トラックの運転手を殴りつけると、積み荷台から牛を放ち、尻を蹴りあげて追いたてた。それから群衆の中に入っていって、屈強そうな男を何人か選んだ。その男たちがトラックを引っぱり、兵士たちが押した。軍曹は大声で指示を与えながらむちを振り上げ、トラックの移動を指揮した。数分のうちに、渋滞した車の列は喜びのクラクションを鳴らしながら走り去っていった。

雨はやんでいた。ディミエ・アブラカサはびしょ濡れで、腹が減って、ぐったりしていた。ずいぶんと長い時間がたってしまった。メネイアとベナエビはきっと待ちくたびれていることだろう。二人で道に出て、どっちの方向から帰ってくるか、どちらが先に兄を見つけるか、見張っているかもしれない。と思ったとき、自分の名前を呼ぶ声がした。ディミエは顔を上げて車の海を眺めた。ディミ! エンジン音の上の方でまた声がした。手を振っている車があるのを見つけ、それが家主のアルハジ・タジュディーン(タジュディーンさん)だとわかった。家主は片手で車を押し、もう片方の手でハンドルを操縦していた。後ろに付いた車の列が、家主を急かしてクラクションを鳴らしていた。ディミエ・アブラカサは家主のところへ飛んでいった。
「こんにちは」 ディミエは挨拶する。そして車の後ろにまわった。二人で車を押す。少し動きが早まったようだ。
「ひとりで押せるか?」 タジュディーンさんが肩越しに振り向いて訊いた。
「うん」 ディミエ・アブラカサは答えた。
「じゃ、たのむ」 タジュディーンさんは運転席に飛び乗ると、ドアを閉めた。
「押せ、押せ」
ディミエ・アブラカサはくちびるを噛む。雨で濡れたアスファルトで足がすべった。
「もっとだよ、オマエは女か。もっと押せ!」
白い排気ガスがどっと出る。エンジンがかかり、ブスブスと音をたて、命を吹き返す。ディミエ・アブラカサは汗で顔を光らせ、車の助手席のドアに走った。ドアの取手に手がかかろうとしたとき、車はハンドルをきってやかましい音をたてる道路に飛び出し、そのまま走り去った。ディミエ・アブラカサは空をつかんで立ちつくした。そして自分の足で歩きはじめた。



野外バーは古いビーチパラソルで日陰をつくり、その下にテーブルとベンチを置いていた。六人の男がベンチにすわり、三人がテーブルのまわりに立っていた。男たちはビールのジョッキーやウィスキーグラス、プラスチックのカップを手にしていた。色も違えばサイズも形も違うビンが、無秩序に(でも店の女主人にとってはいい感じに)テーブルの上に並べられていた。女主人は客のひとりの膝の上にすわっていた。男の手は女の膝に置かれ、男が頭をそらして飲み物を飲むとき、女がグラスを男の口に当てていた。ディミエ・アブラカサが屋台に近づいてくるのを見ると、女はグラスを男に手渡し、立ち上がって前に進み出た。

「何ガいるんダ?」 女はディミエの前に立ちふさがった。「あんたニ飲みものやるなんて思うナヨ、ッラ」
女の顔は腐ったミルクのような色で、それは漂白クリームをずっと長いこと使い続けているせいだった。手の甲は打ち身が直りかけたような色、腕や脚はいたるところ静脈が浮き出ていた。

「へっ、なにミてる。オマエくちきけンのか?」 そう言うと尻に手を置いた。ディミエ・アブラカサは目を落とした。
ベンチの男のひとりが笑いながら声をかけた。「マダム・グローリーよ、チビにかまうなって、ッナぁ」
マダム・グローリーが振り返って、男を指さした。「きけッテの。くさったおマえの口でこいつのこと言うジャナイ、ッラ。こドモに出すもんハここにない。このちびコじぶんで死にたいナラ」 そして女はディミエ・アブラカサの方に振り向いて、人さし指を突きたてながら、「よそにメンドみてくれルもの探せって。アクマがよその女のこドモ害しても、あたしの知ったコチャない」 女は手を上げて頭の上で後光を描き、ディミエ・アブラカサにパチンと指を鳴らした。「神の名のもとニことわる」

「おーおー、マダム・グローリー、あんたッサ」 さっき口をきいたベンチの男が叫んだ。「だれがこの子を寄こしたか知ってんだろ?」
「そうであってもダ」と女主人。ディミエ・アブラカサを疑わしそうな目でじっと見つめた。「あいつカ、寄こしたんは?」と訊いてくる。
「そうです」とディミエ・アブラカサ。
「ダレなんだよ」

Tシャツのへりをねじっていた手をズボンのポケットにすべらせながら、ディミエ・アブラカサは本当のことを言おうとした。母親が寄こしたんだと。手をポケットから出し、マダム・グローリーをびくびくと見つめ、それから今度は両手をポケットにつっこんで、声を上げた。
「あれーっ」
「なに!」 マダム・グローリーが叫ぶ。「あたしをからカッテんのか」 女の後ろにいる男たちのバカ笑いにあおられて、女はディミエ・アブラカサを押さえつけた。女は逃げようとしたディミエの耳をつかむと、前に引きずっていった。道のところまで来ると、手を離し、頭を突いて、言い放った。「でてケて。役たたずのチビこ、アホタんが、ママに気の毒だガね。出てけッ」

ディミエ・アブラカサは侮辱の言葉を背に、燃える耳を手でこすりながら、そこから立ち去った。



ゴルゴタのように目の前にぬっと現われた建物に向かって歩きながら、ディミエ・アブラカサは持っていたお金をいつどうやってなくしてしまったのか、記憶を隅から隅までひっくり返してたどっていた。家を出てから、何度も途中で絶望におそわれて泣きそうになったけれど、ディミエはそれに負けなかった。




第二砂地はカナ通りとアダカ・ボロ通りの交差点のところにあった。サッカー用の競技場だが、芝ではなく砂地になっている。周囲は低いコンクリートの壁で囲まれていた。週末に地元クラブの試合がここで行なわれるときは、この壁は見物人の群れでおおわれた。でもこの日の午後、競技場はがらんとしていて、ディミエ・アブラカサは壁を乗り越えて中に入った。

競技場の端の、ゴールポストの後ろにピンポン台が据えられていた。三人の少年がそのまわりに立っていた。二人がピンポンに興じていた。ボールがネットにかかると、ナイラ札の束を片手に持ったもう一人の少年が叫んだ。「アウト5回!」
「だれ勝ってンの?」 台に近づきながらディミエ・アブラカサが訊く。
「シーッ!」 サーブしようとしていた方の少年がそう言って、ディミエ・アブラカサを怒りの目で見た。二人は同時に顔見知りだと気づいた。
「おまえか!」 エリガが言った。「あれからどう、、、あのキチガイからどやって逃げたんだ?」
対戦相手の少年が言う。「こいつガいってたやつカ? キチガイに石投げたやつカ?」
「そう、ッラ」
「つわものダナ、たいしたやつだ!」 三人が称賛の目でディミエ・アブラカサを見る。
エリガがピンポン台に向きなおって、サーブをした。対戦相手の少年は不意をつかれて、あわててボールを追う。ラケットをボールに当てるがアウトになる。
「ゲームオーバー!」 審判役の少年が落ちたボールを追いながら叫んだ。
やられた方の少年はエリガをにらみつけ、不満を言いたてる。「うそだ、チブゾ、みとめないぞ。エリガがサーブしたときこっちは準備がまだだったんだぞ」
「でもおまえ、やり直しっていってネーぞ、クロテムボ。こいつがやり直しってユーの聞いたかだれか?」とエリガ。
「いや」 チブゾが言う。
「でもおまえ急にやったろ。やりなおしだ!」
エリガがラケットをテーブルに投げた。「やりなおしさせてみろってか」とエリガ。審判役のところへ歩みよって手を差し出す。「おれの金くれ」
「チブゾ、わたすナ、ッラ」とクロテムボ、そう言いながらラケットを台に投げて、シャツのボタンをはずし始めた。「やりなおしするか、かけやめるか。おまえ、勝てねえくせに、おれにいかさますんな」
二人は鼻をつきあわせて、互いをにらみつける。クロテムボは背が低いが、鍛冶屋の弟子のように筋肉隆々。握りしめたげんこつでエリガの胸元を突く。「できねえだろ、エリガ」とクロテムボ。

エリガが後ろに退いたと思ったら、ぐるっと向きを変えて走り出した。クロテムボが笑いながら声を上げる。そしてチブゾの方に顔を向けたとき、ガラスの割れる音を耳にした。迫りくる危険を目の端に感じて、クロテムボが逃げ出した。
「なんでおまえにげンだ?」 エリガが割れたガラスビンをこれみよがしに振りあげて、台の横を行ったり来たりしながら言った。「こいよ、できるもんなら」
クロテムボは距離をとってエリガを見ている。裸の胸が上下している。クロテムボは人差し指の先を舌につけ、前にかがんでその指を地面にこすりつけた。その指をエリガに向けると、声を震わせて言った。「いいかよく聞けよ、エリガ、こんどおまえを見つけたら、、」
「だまっれー、このウスノロが」
クロテムボが立ち去った。エリガがその後ろ姿を見ていた。それから向きを変えてディミエ・アブラカサの目を見て、片目をつぶった。ピンポン台のところに来ると、割れたビンを台の下に投げた。クロテムボのシャツをテーブルから取りあげると、顔と首筋の汗をそれでぬぐい、投げ捨てた。シャツは空中を泳ぎ、ふわりと広がった。

チブゾが言った。「クロテムボみたら、おまえ逃げろや、ッラ。あいつ容赦しないぞ。そんでと、おまえら180かけたろ、オレの取り分どけて、おまえの金は30、あってる?」
エリガがディミエ・アブラカサを見ながらうなづいた。ディミエ・アブラカサはその目を見て、視線をそらした。エリガがチブゾから丸めた札を受けとる。札を数えたあとで、ディミエ・アブラカサの方に向いて「おれとかけしてやるか?」と訊いた。
「やんねぇ!」とディミエ・アブラカサ。
エリガが笑った。「日がまた出てきタナ。おれいくけど、おまえも来る?」
ディミエ・アブラカサは肩をすくめて、「いいよ」
チブゾがピンポン台を片づけている間に、二人はそこを離れた。二人が立ち去った後の砂地には、足跡が飛び跳ね踊っていた。

カナ通りが終わるあたりで、ピンクの三階建てのホテルが現われた。ホテルを囲む壁の上部はガラス片で縁どられていて、庭にはたくさんの果樹が植えられていた。門の近くにある大きなアーモンドの木が、奇妙に幹を傾げて枝を伸ばし壁にもたれかかっていた。その葉陰は、子どもや浮浪者が集まる場所になっていた。

壁のところに着くと、エリガは木の下へと向かい、顔を道路の方に向けて枯れ葉のたまったところに腰をおろし、壁に寄りかかった。ディミエ・アブラカサもそれに続いた。風が少し吹いて、腐りかけた果物の臭いがあたりに漂った。

二人が来たとき宙に舞った葉っぱが落ちつき、しばしの静寂のあと、エリガがディミエ・アブラカサの肩に手をおいて訊いた。「名前なンてんだ?」
「ディミエ」
「ディミ、ディミ気違い、、、デ・キチ」 エリガがうなづいた。「おまえをデキチって呼ぼう。おれの名は、、」
「エリガだろ」

ディミエ・アブラカサは腕の上を這っているアリをつかまえた。アリをつまんで、バタバタする脚とパチパチいうはさみを見た。指先でアリをつぶすと、手をジーンズでふいた。

「なんであのキチガイに石なげた?」とエリガ。目はディミエの手を見ていた。長くてほっそりした指、噛んだつめ、静脈の線。ディミエ・アブラカサはその視線を感じて、手を丸めた。

「別に」とディミエ。そのとき心に浮かんだのは、自分の母親の姿、ベッドの上でひざを抱えてすわり、両手で耳を塞いでいる格好の母だった。丸めた手を振り上げて自分のひざを二度打ち、それから葉っぱの地面に手をおろした。

「おまえ変なやつだな、ッラー、デキチよ」とエリガ。

道路に学校で課外活動を終えた生徒たちの姿があふれた。制服姿の女生徒のグループがホテルの方に歩いてきた。女の子たちはディミエたちの方を見ながらこそこそ何か言っていた。その列が通り過ぎるとき、先頭にいた女の子がエリガの方に顔を向けて、鼻で笑った。

エリガはすくっと立ち上がり、その女の子の方へ向かっていった。女の子は背が高くがっしりとしていて、髪は短く刈られ、サッカー選手のようなふくらはぎをしていた。着ているのは高校の制服のワンピース、唯一のアクセサリーは、イングランド・サッカーの強豪クラブ、チェルシーFCへの愛と忠誠を誓うゴムのリストバンドだった。

エリガがその女の子のそばに近づいて言う。「だれミテ笑ってンだ、このオンナ男」
女の子が立ち止まりエリガを見る。エリガが質問を繰り返す。女の子たちの間で、合図でもあったようにドッと笑いが起こった。足を踏み鳴らし、腹をおさえ、互いに押し合いへし合いしている。エリガは怒りで顔をゆがませ、女の子の手首をつかんだ。

エリガは女の子の腕をひねった。それほど強くではないが、自分の力を相手にわからせるには充分だと思った。「もう一度笑ってみろ」 そうエリガは言って、手を前に引いた。そして女の子の足を踏みつけた。

女の子たちが寄ってきて、ハチの巣をつついたようにザワザワと声をあげながらエリガを取り囲んだ。人質にされている女の子がエリガの手の中で動いたと思ったら、次の瞬間、エリガの腹にげんこつをくらわせた。エリガは手を離し、痛みで声を上げながらからだを屈めた。

「泣いてんのぉ?」と女の子は言いながら、かがんでエリガの肩に触れ、見せかけの同情心をしめす。「からだ起こして、、」と言おうとして吹き出し、「できるものならね」と続けた。

歯ぎしりしながら、エリガはやっとのことでからだを伸ばした。女の子たちがエリガが次に何をするか見ていた。エリガはどうしていいかわからない様子で立っていた。ディミエ・アブラカサが立ち上がった。「あんた、知ってるよ」 ディミエは殴った女の子に言った。「おんなじ学校に前行ってたんだけど、覚えてる? 聖イグナティオスだけど」
女の子がじっとディミエを見た。「あんた、メネイアの兄さん?」
「そうだ」
「ああ、そうだ、あんたね。知ってる顔だと思ってたんだ」と言うとエリガにドスンと肩をぶつけながら前に進み出て、握手の手を突き出した。ディミエはその手をとった。女の子はギュッと手を握った。その手をそのまま離さなかった。
「アダフォーっていう名前。あんたのは、、、ええっと、忘れたわ、ッハ」
「ディミエ」
「ディミ! そうそうディミ」 そう言って笑った。「あんたの家、行ったことあるよ」 そこまで言ってちょっと声を落とした。わずかにくぐもった声で、「あんたの父さんが死んだときだわ」 そしてまたすぐに元の顔に戻って訊いてきた。
「今どこの学校行ってんの?」
「GCSSボーイズ」とディミエ・アブラカサ。
「あたし、聖ロザリオよ」
「知ってる」
「なんで?」
「制服着てるだろ」
アドフォーがディミエの手をつかんで揺すりながら笑った。アドフォーはエリガがにやにやしているの見て、笑いをとめた。そしてディミエ・アブラカサの手を離した。
「あのイカシタやつは友だちなの?」とアドフォー。
「そう」とディミエ・アブラカサ。
アドフォーが不満そうに口をゆがめた。何か言いかけて口をつぐみ、エリガを見て言った。「いつかあたしのワナに落ちるよ」 そしてディミエ・アブラカサの方に向き直って、「あんたの妹によろしくね」

女の子たちが角をまがって声が遠ざかると、ディミエ・アブラカサは訊いた。「腹だいじょうか?」
「ああ」とエリガ。前に足を踏み出しかけてすぐに戻り、吐き捨てるように言った。「オンナたちめが!」
ディミエ・アブラカサは笑った。「たしかにそうだな。家にも一人いるよ」
「もうあいつらのことはいい。腹減ったな、なんか食いモンさがしィいくわ」
食べもののことを聞いて、ディミエ・アブラカサは肩越しに家の方を見て言った。「おれ、もういくわ」
「わかった」 エリガはそう言うと、ズボンのウェストのところに手を入れた。手が出てくるとき青いものがチラッと見えた。ベルトをウェストのところで滑らせると満足げにしていた。そして顔をあげたとき、ディミエ・アブラカサが自分を見ているのに気づいた。両腕を脇につけ、それから少し持ち上げてみせた。
「おい!」 ディミエ・アブラカサが呼ぶと、エリガが立ち止まった。
ディミエ・アブラカサは今日の午後起きたことを思い返していた。路地でやらされたこと、クロテムボとの賭け金、アドフォーとのやりあい。自分の金が消えたこと。エリガが金をすったんだ、それは確かなことに思えた。

エリガの顔を見ていて、胸の動機が激しくなった。「っさあ」 出てきた声はかすれて、つばが歯にまとわりついた。「金、借りられるかな?」 二人は互いの顔を探りあっていた。ディミエ・アブラカサは目を落とした。「たのむよ、かあさんの金を今日なくしちゃったんだ」と言う。
エリガの声はそっけなかった。「わるい、おれネエ」
ディミエ・アブラカサはうなづくと、顔をそむけた。怒りの涙がまつげを濡らしているのを見られたくなかった。そこから立ち去ろうとしてすぐ立ち止まり、あたりを見た。エリガはまだそこに立ってこちらを見ていた。
「じゃあな」とエリガが言った。



ディミエ・アブラカサが197番地に戻ってきたのは、空の端が夜に染まり始めるころだった。家主が車を入れているところと出くわした。家主のタジュディーンさんが窓から頭を突き出して、エンジン音にかぶさるように声をあげた。「ちょっと待っててくれ」

ディミエ・アブラカサは家主が車を駐車し、取手をまわして窓を閉め、ドアをロックするのを見ていた。白いプジョー404だった。車体がさびて腐食している。フロントガラスは右隅のところに、クモの巣状のひびが入っていた。

「かあさんはいるか?」  タジュディーンさんが車のキーを揺らして、ディミエ・アブラカサの方に歩きながら聞いた。

沈んだ気分でディミエ・アブラカサは家主の顔をのぞきこんだ。タジュディーンさんは見たこともないくらい、鼻の穴がでかい。鼻の穴は白っぽいもさもさした毛でいっぱいで、耳の中の毛の束と同じ色をしていた。頭はつるつるに剃ってあるのに、鼻と耳の毛はぼさぼさのままだった。家主が母親に会いたいという理由はただひとつ。ディミエ・アブラカサは家主にうなづいて「います」と答え、こう付け加えた。「でもかあさんは具合がよくないんです」

家主は建物の入口に向かった。「それがどうした?」と肩越しに荒い声を投げつけてくる。「いつだってそうだ。あんたたちがここに越してきてから、かあさんの具合がよかったことが一日でもあるか?」 家主は廊下を歩いていく。ディミエ・アブラカサはその足音と、各部屋から上がる家主へのあいさつの声を追ってついていく。
木の扉がバタンと閉まる音にディミエはびっくりして歩みをとめる。
ディミエの家のドアはあいていた。まだ電気はきていない。薄暗い部屋の中にぼんやりとした人影が見える。家主は母親のところまで行く。母親はベッドの端にすわり、ひざをぎゅっと締め足を床におろしている。メネイアとベナエビは机のそばの隅でうずくまっている。

「あんたんとこは今日、ここを出ていってもらう」と家主が大声をあげた。「まるまる三週間、あんたんとこの家賃は切れたままだ。もう待てないぞ。おれがここで慈善事業をやってるとでも思ってんのか! いったいどんだけの人がこの部屋貸してくれと言ってるか、知ってんのか?!」 ここで一息ついた。「あんたんとこが人間らしく暮らすのが無理ってのなら、外で犬みたいに生きろってことだ。どっちでもおれには関係ない。でもな、おまえは今日、ここを出ていくんだ、わかったか!」

ベナエビが鼻をすすった。メネイアが手で口を押さえる。ダオジュ・アナブラバは足を動かし、手で太ももをこすり、ため息をついてこう言った。
「二人だけで話せませんか、お願いですよ、だんなさん」
「何を話すって? 金のことを言えってんだ!」
「わかります、だんなさん。でも子どもたちを外へ、、、」
「あーン? どこへだ。それとも、子どもらはここに住まないのか? いいか、あんた、誰かがおれの金を今日払わにゃならんのだ。息子だろうが、ッハ、娘だろうが、ッハ、おまえさんだろうが、ッハ、誰でもかまわん。今日家賃を払うか、荷物まとめて出ていくか、どっちかだ!」

ダオジュ・アナブラバは顔を上げた。「でもだんなさん、そんな言い方しないでくださいよ」 ダオジュはからだに巻いた布がゆるんでいるのを脇の下に挟みこんだ。そしてその手で顔の汗をぬぐった。

家主がじっとダオジュを見ていた。からだの線を追いながら目をじょじょに下に向け、頭から足元を見て、また足から頭へと視線を戻した。そして咳払いをして言った。「わかった。話を聞こうじゃないか。あんたが誠意をもって話すならな。だが話す前に聞きたい、家賃をあんたは持ってるんか?」
「いえ。でもあと二、三日待ってもらえれば、、、」
家主がフンと鼻を鳴らした。「あんたんとこの家賃はもう三週間も滞納してんだ。この部屋は借り手が列をなしてるんだよ。あんた仕事してないんだって? 飲んべいだとも聞いてる。酔っぱらいはこの家に置くわけにいかん。それに職なしもな」 声を落としてさらに、「さあ、言ってもらおう、なんでおれが待たにゃならんのだ?」

ダオジュ・アナブラバは黙っていた。
「言ってもらおう、何でだ?」
ディミエ・アブラカサが母親を助けようとして言った。「お願いです、おじさん、、」
「年上のもんが話してるときは黙ってろ!」 ディミエの顔も見ずに家主が言った。
部屋の外の廊下をこそこそと歩く音が過ぎていった。それ以外の音はなく静まりかえっている。
家主がため息をついた。「おれは意地悪な人間じゃあない。アッラーのご加護によって、おれにも子どもがいる。誰であれ子どものいる未亡人を放り出したりはしたくないんだ。だからな、」 ここまで言ってダオジュ・アナブラバが顔をあげるのを待った。「だから、三週間の猶予を与えたんだよ、今日までな」 家主はダオジュ・アナブラバの視線をとらえると、手をズボンの股のところへやった。

ダオジュ・アナブラバはその意味を理解した。そして目を見開いて、「んまあ、だんなさん、、、」

家主は肩をすくめた。「あんたもおれも大人だ。あんた次第ってことだ」  もみ手をするとその手を開いて前に伸ばした。「あんた次第だ。三週間分の家賃を今日払うか、荷物をまとめて今日出ていくかどっちかだ」
ダオジュ・アナブラバはからだを折り、手をひざに置いた。指の関節を鳴らし、親指を引っぱる。そして肩をがっくりと落とした。

顔をあげて長男の方を見ると、硬い声でこう言った。「ディミエ、妹と弟を連れて外に出て。ドアを閉めて」
ディミエ・アブラカサは動かなかった。
「聞こえたのかい?」
「うん、ンマ」
「なら出ていって」
子どもたちが並んで部屋を出ていく。ドアと柱の隙間から、家主がベッドの方に近づき、こう言っているのが聞こえた。「ディミはいい子だ。今日、車を押すのを手伝ってくれたんだよ」

足音が廊下でして、親しげな別れの挨拶の言葉が聞こえ、家主が出てくるのがわかった。建物の入口に出てきた家主は、ちょっと立ちどまって、夜空に上がった満月に目をパチパチさせた。顔がアスベストの灯りの下で光っていた。家主はあくびをし、手をあげて額をぬぐい、その手を下ろして腹をこすり、両脇に垂らした。車の方に歩いてくるとき、子どもたちの方に目を向けることはなく、鍵をあけ、エンジンをかけ、そのまま走り去った。

車がブルブルとエンジン音をたてて消え去り、ぽっかり残された静寂の中でベナエビが言った。「お腹すいた」 ベナエビはお腹をへらして、親指をチュウチュウと吸っていた。

メネイアがディミエ・アブラカサのひざに手を置いた。「ずいぶん長くかかったんだね。もう待って待って待ちくたびれた。ンマ怒ってたよ。何買ったの」
ディミエ・アブラカサはそっぽを向いた。
「何買ったの?」とまた妹が訊く。
廊下から料理する音と匂いが漂ってきた。ネズミが一匹、建物の壁際をピョコピョコとやってきたが、ディミエ・アブラカサの視線を感じると、暗がりの方へ逃げていった。

「ディミエったら!」とメネイア。怒りと不安で声がふるえている。「ンマのものは買えたんでしょうね、少なくとも」
「金落としたんだ」とディミエ・アブラカサ。顔を向けて妹の反応を見ようとはしなかった。見なくてもわかった。
メネイアは言葉もなく兄を見つめたが、ベナエビの方はのどをゴロゴロ言わせながら、立ち上がって家に走り込んだ。床を鳴らしてやってくる足音を聞いて、メネイアは兄のひざをぎゅっと握った。それから自分の方に手を引っ込めた。

「おまえは何をなくしったって?」
ディミエ・アブラカサはあわてて立ち上がった。母親が戸口に立っていた。むき出しの肩に月明かりが落ち、汗が光を放っていた。ディミエに近づいてくる母親は、怒りに燃えて猛々しく脂ぎっていた。
ディミエのところで足をとめると、その影が息子におおいかぶさった。そして足で息子の右足の親指を強く突いた。かがんで息子の顔をのぞきこみ、繰り返した。「何をなくしったって?」 息が酒臭かった。

暗闇の中で最初の一発が放たれた。ディミエはバランスを失った。母親は息子に馬乗りになり、打ち据え、引っ掻き、蹴り上げた。ディミエ・アブラカサはひざをついて、頭を抱えた。ディミエはきつい蹴りを腹に受けて、うなり声をあげる。母親がコンクリート板を持ち上げて降りかかろうとしたとき、見ていたアパートの住人たちが母親を抱きとめた。母親はそれを振り切ろうとして、悪態をついた。

住人の何人かがダオジュ・アナブラバを部屋に連れていき、別の何人かがしゃがみこんでいるディミエ・アブラカサのまわりに集まった。メネイアは兄のそばにひざまづいていた。顔を両手でおおい、肩を震わせていた。母親の暴力のすさまじさに驚いたベナエビは、胸のところで両手を握りしめ兄の後ろに立っていた。一つ向こうの部屋の住人のママ・マラチがディミエ・アブラカサの肩に手を置いた。「あんた何かママを怒らせるようなひどいことしたんだろう?」 そう言ってかがむと、ディミエの腕をつかんで手を頭から引き離した。誰かがトーチを点けて、ディミエの方に灯りを当てた。ディミエの目はヘッドライトにとらえられた野うさぎのようだった。くちびるには血の斑点があり、首の横には白い引っかき傷が四ヵ所あった。灯りを当てられると、それに反応したように傷から血が流れ出した。メネイアが息をつめた。ママ・マラチがディミエの腕を離した。ディミエの腕がひざに落ちた。

住人たちは片隅に集まって、あれこれ相談しているようだった。子どもたちの耳に、いくつかの言葉が繰り返し聞こえた。「母親」「家主」「酒」などの言葉だ。そしてモガジ氏が子どもたちの方にやってきた。
「今晩寝る場所はあるのかな?」
メネイアが深く息を吸って、鼻から出した。ディミエ・アブラカサとベナエビは黙ったままだった。
「口きいて。あんたたちどうなの?」 ママ・マラチが子どもたちに向かって怒鳴った。
メネイアが小さく咳払いして言った。「おばあちゃんのところ」
「兄さんといっしょにそこに行きなさい」 モガジ氏が言った。モガジ氏のトーチライトがメネイアの顔を照らした。「もう泣くんじゃない、メネ、顔をふいて。朝になったら母さんに話しておくよ。脱脂綿とアルコールがあるから、取りにおいで。ディマの傷を洗っておやり」



アナブラバおばあちゃんの家は、ごろつきの若いのがうろうろしている地域として知られた場所にあった。以前は住むのにいい場所だったらしく、家並みはその頃の面影を残している。簡素で、コテージ風で、家の前にスペースがあって、玄関から道路まで小道があった。犯罪への不安から防犯設備が強化され、今では家の入口や窓はすべて金具で補強され、道路に面した庭は壁と門で囲われていた。玄関からの小道の端は、がれきを積んで塞がれていた。

子どもたちがおばあちゃんの家に着いて、門をしばらくの間ガタガタいわせた後、やっとおばあちゃんの声がした。「何のよう?」
メネイアが答えた。「あたしたちよ、おばあちゃん」
「メネイアなの?」
「そう、おばあちゃん」
「ディミエは?」
「おばあちゃん」
「ベナエビは?」
「おばあちゃん?」
「なんでまたこんな遅くに子どもが外にいるの? ここは安全じゃないんだから。ちょっと待って、いま行くから」
扉の金具がガチャガチャと大きな音をたて、やっと玄関のドアがきしりながら暗い闇に向かって開いた。家には灯りがついていなかった。
「ちょっと待って、、」
「おばあちゃん?」
おばあちゃんの声が子どもたちの方に流れてきた。「ディミエ、誰かいないかよおく見てちょうだい」
子どもたちは道路をきょろきょろ見渡した。「誰もいないよ、おばあちゃん」 ディミエ・アブラカサが言った。

「よく見て」とおばあちゃんがさらに言う。
ディミエ・アブラカサは少しさがってあたりを透かし見る。道路に人影はない。
「大丈夫だよ、おばあちゃん。誰もいない」
アナブラバおあばちゃんは玄関口に顔を出した。臭いでもかぐように少し様子をみて、それから段差を降りて足早に門のところまでやってきた。「今いくよ、今いくよ」 そう小さな声で言いながら門の鍵を開け、門扉を開いて子どもたちを中に入れ、ガチャガチャいわせて門を閉めると鍵をかけた。「さあさ中に入って、ここは安全じゃないからね」 そう言って腕を広げ、子どもたちの背を押しながら玄関口の方に導いた。

ドアにかんぬきをかけると、アナブラバおばあちゃんは腰をかがめて、ドアのそばの椅子に置いてある台風用のランプの火を強めた。よっこらしょとからだを伸ばすと、子どもたちの方を向いて、門のところで音がするもんで、あんたたちだとわかるまでは恐かったよ、と話した。「おかあさんはどうしたんだい?」 ディミエ・アブラカサの顔ををのぞきこんで訊いた。ランプの火は弱々しかったので、ディミエの首の引っかき傷には気づかなかった。
「どうもしないよ」とディミエ・アブラカサ。「今日ぼくたち何も食べてないんだ。家には食べものがないし。ベンはお腹へるとうるさいったらないの、知ってるでしょ」
アナブラバおばあちゃんは息をついた。「心配してたのよー」 そう言ってディミエの方に手を伸ばし引き寄せると胸に抱きしめた。「ずっと会ってなかったわね、、、あんたなんて痩せっぽちなの、ディミエ。なんで遊びに来ないのよ」
ベナエビが口を開いた。「ンマがぼくらにダメって、、、」 と、メネイアが「うるさいよ、ベナエビ」と口を挟んだ。
苦笑いしながら、アナブラバおばあちゃんが言った。「だいじょうぶだよ。この子の言おうとしてることくらいわかってるからね」 おあばちゃんはディミエ・アブラカサを離すと、ベナエビの手をとった。「おいで、いい子だね、何か食べさせてあげよう」


アナブラバおばあちゃんが子どもたちの食べものを用意して、台所から声をかけると、うとうとしていたベナエビが飛び上がって、暗い廊下を走っていった。メネイアがディミエ・アブラカサに料理をもってこようか、と訊いてからベナエビの後を追った。ディミエはうんと言って椅子に沈んだ。妹の足音が遠のくと、部屋の暗さが海のように押し寄せてきて、ディミエの首の傷を洗った。ディミエは母のことを思った。ひとり家にいる母。母親も今日一日何も食べていなかった。その上、薬もなく、家主に辱めを受けて耐えなければならなかった。家主のことを思い出し、ディミエ・アブラカサは起き上がって首の傷にさわった。パタパタいう足音で考えが中断された。

アナブラバおばあちゃんが部屋の中央にあるテーブルに台風用のランプを置いて、ディミエ・アブラカサの正面にすわった。冷ましてから食べなさい、というおばあちゃんの言いつけを無視して、ベナエビは椅子に腰をおろすなり皿の料理に食らいついた。料理はヤムイモを茹でた料理だった。ベナエビはこれが大好きで、いい香りが湯気と共にあがっているのを、ハフハフ言いながら口にした。メネイアがディミエ・アブラカサに皿を手渡し、その横にすわった。カチャカチャというフォークの音が部屋を満たした。

アナブラバおばあちゃんがディミエが食べものをつついているのに気づいた。
「どうしたの、ディミエ?」
「別に」とディミエ。
「でもあんた食べてないじゃない」
「それほどお腹へってないんだ」
ベナエビがげっぷをすると立ち上がり、自分の皿を向こうにやって、水をがぶがぶと飲んだ。そして元の椅子に倒れこんだ。「まだ食べる?」 アナブラバおばあちゃんが訊いた。「もうお腹いっぱい」 ベナエビはそう言うと、お腹をボンボンとたたきうなり声をあげた。親指をくちびるの油を拭くふりをして口に近づけ、歯の間にすべりこませた。

メネイアは食べ終わると、皆の皿を集めた。兄の皿をよけると、ディミエが首をふって皿を突き出したので、それも一緒に下げた。灯りを手に、メネイアは台所に向かった。暗闇の中で、ベナエビが眠りに落ちていった。部屋にその息づかいが満ちる。

「明日は学校がある日だね」とアナブラバおばあちゃん。自分に問いかけるような口調で、一語一語確認するように言った。それから思いついたように、「あんたたち、そうとう早く起きないと。そうすれば家に寄ってから学校に行けるよ。メネイアはわたしと寝なさい。男の子たちはお母さんの昔の部屋で寝ればいい」
ディミエ・アブラカサが異を唱えた。「おばあちゃん」
「何、ディミエ」
「ぼくはここで寝ないよ。家に帰る」
「だめよ!」 アナブラバおばあちゃんは立ち上がって声をあげた。
「ぼく帰んなくちゃ。ンマは一日何も食べてないんだ。何か食べものを持ってかなきゃ。具合もよくないし」 ディミエ・アブラカサは言った。
「でももう十一時過ぎよ。外に出るには遅すぎる。ダメダメ」
「ンマは一日何も食べてないんだ。それに具合もよくない」
ディミエの声はせっぱづまっていた。アナブラバおばあちゃんは頭を垂れた。「でも時間が遅いし、遠いし、、」 ディミエ・アブラカサがさえぎって言った。「オカダまでのお金をくれたら、家まで二十分で行けるよ」

メネイアが台所から戻ると、アナブラバおばあちゃんは、頼みの綱というように顔を向けた。「あんたの兄さんは、アダカ・ボロに今晩帰るって言ってるよ」
メネイアは台風用のランプをテーブルに置くと、灯りを固定した。ディミエの顔から灯りがそれた。「ほんとなの、ディミエ?」 メネイアが訊ねる。
「ああ」
メネイアは祖母が驚きあきれる顔を見て頭を振った。アナブラバおばあちゃんは腕をどすんとひざの上に落とした。
「わかったよ、ディミエ。ンマに食べるものを包んでくる」とメネイア。
メネイアが手にポリ袋をもって再び現われると、アナブラバおばあちゃんは立ち上がってメネイアを見た。おばあちゃんは台風用ランプをもらうと、言うことを聞かない孫への不満をぶつぶつ口ごもりながら、自室に向かった。裸足の足をひきずるようにして戻ってくると、ナイラ札の束をディミエ・アブラカサに手渡した。「交通費と少し余分に」
「ありがとう、おばあちゃん」 ディミエ・アブラカサは、メネイアが椅子の脇においた袋を取り上げた。祖母と妹に見送られながら、ドアへと向かった。

「急いで行くのよ。安全じゃないんだから」 ドアの鍵を外しながらアナブラバおばあちゃんが言った。メネイアに鍵を突き出すと、こう指示した。「ディミエについていって、門を開けて。開ける前によく外を見てね。ディミエが外に出たら、すぐに鍵を閉めるのよ」 アナブラバは、マンドレイクの根っこのような節くれだった手を孫息子の肩に置いた。「おやすみ、いい子。おかあさんによろしくね。おかあさんに会ったら、、、うんん、いいの、何でもない。さあ急いで」 アナブラバはディミエを押し出すとき、一瞬ツメをその肌にくい込ませた。


10
ディミエ・アブラカサが着いたとき、家は眠りについていた。正面の入口は掛けがねが壊れているので、錠が下ろされていることはない。ドアを押して中に入った。通路にはコオロギの鳴き声やネズミの走る気配、ヒキガエルがゲロゲロいう声が息づいていた。ディミエは自分の家のドアに向かい、一度ノックして、耳を澄ませた。ノブに手を置き、まわした。ドアが開いた。

部屋は闇に包まれていた。ポリ袋の中に手を入れて、ろうそくとマッチ箱を探した。帰る途中で買ったものだ。モグラが巣に戻るときの確かさで、木の机のところに歩いていった。そこまで来ると、マッチを擦り、ろうそくの芯に火を移した。溶けたろうを机の上にたらし、ろうそくを固定した。ゆらめく黄色い炎が、子どものときの、まだフロックを着ていた頃の母親の写真にあたる。父親のひざに腰掛ける母親、その横には母の母がすわっている。ディミエの母の目は幸せに満ち満ちていた。ディミエは振り向いた。

ダオジュ・アナブラバはベッドの頭のところにすわって、ディミエを見ていた。腕をひざの上に置いて、手の先をぶらさげていた。ディミエ・アブラカサは机のところを離れ、さっきポリ袋を置いたところに行った。袋に手を突っこんでステンレスの容器と、透明の液体の入ったビンを取り出す。ろうそくの火がステンレス容器とガラスビンに反射すると、ベッドのスプリングがきしんだ。ディミエはベッドに近づいて、手にしているものを差し出した。母親がベッドを降りてディミエを見た。母親はビンをつかむと匂いをかいだ。「ディミエ、あんたいい子だね」 その声は涙でしわがれていた。息子の額とほおにキスをした。涙とよだれに濡れたキスが、ディミエの顔をしめらせた。母親は息子の手からステンレスの容器を取ると、ベッドの上に置いた。それからビンのキャップを開けると、頭をうしろにのけぞらせた。

「ああ、いい子だね、あんたは、あたしの一番の、たった一人の息子だよ。ありがとね」 そう歌いながら、腰をくねらせて即興の踊りをやってみせた。それから向き直ると、しっかりとディミエを胸に抱きしめた。

夜も更けていき、母親は、ダオジュ・アナブラバは、食べものをつまみビンから液を流しこみながら、息子に何度も何度も詫びの言葉を吐いた。今までの生活について、母親としての至らなさについて、ディミエの祖父を殺してしまったことについて。ディミエ・アブラカサはこういう話は耳にたこができるほど聞いていたので、黙っていた。

母親のしゃべりはろれつが怪しくなり、まぶたが下がり、あらがいながら、閉じられた。眠りの中ですすり泣き、胸にはビンを抱きしめていた。大きなおならを続けざまにした。母親のすすり泣きがいびきに変わると、ディミエ・アブラカサはすわっていたベッドの端から立ち上がった。ディミエは母親の手からビンをはずすと、壁際のすぐに手の届くところに置いた。朝になって母がビンを探さなくていいように。それからフトンを母親に掛けてやり、ろうそくの火を吹き消した。

朝になって、ディミエ・アブラカサが目を開けると、頭のところの電球に灯りが点いていた。ディミエはそれをじっと、目の中で黒い斑点が現われるまで見つめていた。そして首をひねり、母親が起きているのに気づいた。母親はベッドの端で、死んださなぎのように丸まって、ディミエの顔をじっと見ていた。ディミエはおはようと言ったが、答えはなかった。胸の鼓動がディミエの中で響き、のど元に苦いものがこみ上げて口をまずくさせた。立ち上がり、家を出る準備を始めた。ディミエが制服を広げていると、母親がベッドから降りて、ビンに少し残った液を飲み干すと、横に投げ捨てた。そしてディミエの方に迫ってきた。からだをゆらゆらさせながらくちびるをなめた。酒臭い息がディミエの顔をおおった。母と息子はじっと見つめあった。母親は爬虫類のように目がすわっている。息子は絶望で光を放つ目をまんまるに見開いている。ダオジュ・アナブラバがひびわれたくちびるに薄笑いを浮かべて「おまえの目がいやなんだよ」、そう言ったとき、ディミエは母親をぴしゃりと打った。



<訳註>
*1)419条詐欺に注意:Nigerian 419と言われる国際的詐欺で、送金などお金の受け渡しを介した詐欺。ナイジェリアで最初に多発したことから、そう呼ばれるようになった。419はナイジェリア刑法の番号。

*2)ネパ電:NEPA(National Electric Power Authorityの略称)。ナイジェリアの電力会社。NEPA Lagosというサッカーチームをもっている。

*3)ワハラ:<英>trouble、問題、災難、やっかいごとを意味するナイジェリアのピジン。
ピジンとは、共通母語をもたない人々の間で使われる共通言語で、ナイジェリア・ピジンは英語をベースにしている。クレオール言語のように母語化したものとは考えられていないようだが、500万人近い人に第一言語として使われているという調査もあり、ナイジェリア国内で幅広く横断的に話されている模様。ナイジェリアでは子どもたちも早くからピジンを覚えるという。この小説の中でも、子どもたち同士の会話の多くはピジンである。また野外バーの女主人もピジンを話している。ブロークン・イングリッシュに様々な現地語の音やニュアンスがミックスされている印象があり、その粗い感じが会話に独特のライブ感(生命感や臨場感)をかもし出している。


*この作品は2013年11月5日まで、著者A. イゴニ・バレットの許可により掲載されます。(2011年11月5日より24ヶ月間)


訳:だいこくかずえ


初出:.KWANI?