<<

第9章 時計


 新しい学校で隣にすわっていたのは、キソプという少年だった。明るく、格好のいい少年で、何でも答えを知ってそうに見えた。キソプはぼくが授業をほとんど理解できず、元気なく座っているので同情していた。博物学ではほとんどわかることはなく、算数はさらにひどかった。ときどきキソプはぼくの開いた練習帳をのぞきこんでは計算を書きつけ、難しい部分の答えを教えてくれた。だけれども、そうしてくれても、ぼくには答えがどうやって導かれたかがわからないので、ほとんど役たたずだった。それでぼくはまる一日をしょんぼりと、夕方が来るのをただただ待って席に座っていた。それでも家に向かう途中の道々、頭の整理を精一杯しようとしていた。ちょっと奇妙な自然科学やヨーロッパについて語られたことを、父さんに少しでも説明できるように。新しいことであれば、ほんのわずかのことでも、父さんは喜んだ。
 学校で習ったことをそのまま伝え、少しでもヨーロッパの物があればすべて持ち帰った。ヨーロッパで印刷された紙やそれに書かれた文字、大きな建物や橋、とがった塔の絵や写真など。注意深く、慎重に、父さんはすべてのものを吟味していた。
 休憩時間や放課後に、校庭にたむろする少年たちがいて、ヨーロッパの国々やそこにいる賢人たち(外国風の妙な発音でまったく名前が覚えられなかったが)の高尚な知識について話していた。プクソリという同級生の一人は、ずっと昔にヨーロッパの賢者を訪ねたという金持ちの中国人の話をした。高価なダイアモンドの指輪がその男の気づかぬ間に指から抜けて、中庭に転げ落ちた。話の途中、男がそれに気づき賢者にそれを言うと、こんな答えが返ってきた。「心配無用です、大切なわたしの客人。ヨーロッパでは自分のものでないものを取ろうとしたりはしませんからね」。中庭の向こうで召し使いが地面を掃いていた。心配でたまらない中国人が窓越しに見ていると、召し使いは指輪を拾い、落ちていた場所をほうきでさっと掃くと、そっと指輪を元に戻した。
 キソプはヨーロッパにしばらく住んだ中国の皇子の話をした。皇子は国に帰るときに、その土地でもっとも身分の高い人の元を敬意を表すために訪ね、いとまごいをし、それまでのもてなしに感謝をのべた。城の外で皇子は砂利道の草抜きをしている庭師に会った。そこでその男に、雇い主に気にいられているかどうか尋ねた。ところが庭師はこのように答えた。「わたし自身がこの庭の主ですから。ヨーロッパでは召し使いも主人もないのです。未開な国々とは違います」
 どんなにこの話に父さんが喜んだことか。「そうだろう」と父さんは興奮気味にぼくに言った。「ヨーロッパ人というのは、本物の人間なんだ」
 
 2、3日前に父さんが注文した大きな柱時計が真夜中の時を告げた。鐘の音は家中に響きわたった。鐘の音が静まると、チックタックという生真面目な音が静かな夜の中を鳴りつづけた。
 父さんはロウソクの灯りのそばにすわって、ぼくの教科書をくまなく見ていた。「ヨーロッパについて他に聞いたことはないのか?」
 「ないよ」
 「先生たちは誰がこの国々を治めているのか、教えないのか?」
 「うん。でも大統領じゃないかな。先生たちは大統領のことを王様みたいに話しているから」
 「ありえるな」
 父さんは教科書を読み進み、ときに考えこみ、ときに微笑んだりした。それから教科書全部を引き寄せ、自分の前に置いて、まるでそこに隠された新しい世界があるかのように、じっと見るのだった。
 ある日、家に帰ろうとしたら、校門のところで、一人の少年がぼくを待っていた。それは最上級生のヤンマと呼ばれている少年だった。「きみはナンムン(南門)のリー監査官のところの息子か?」 ぼくが現われるとこう聞いてきた。
 「そうだけど」とぼく。
 「ぼくらいっしょに、ある家に行って、そこの息子をこの学校に入れるよう話しにいくんだ」
 新しい学校の生徒たちが、中流家庭を訪ね歩き、親たちに新しい教育の価値を説明し、子どもたちを学校に来させるように説きふせるという話を聞いていた。
 「ソン先生が今夜はぼくら二人を選んだんだ」 ヤンマはぼくが尻込みするのに気づいてこう続けた。「夕飯が終わったらすぐに出て来てよ。柳橋のところで会おう。教科書を何冊か持ってくるのを忘れないで。それを親たちに見せるんだからね」
 川沿いを歩くぼくらに、夕闇がせまっていた。薄暗がりの中で、水面がきらめいていた。
 「ニュートンについて、知ってることある?」 ヤンマは歩きながら聞いてきた。
 「ない」とぼくは言わざるおえなかった。
 「でも、重力のことは聞いたことあるだろう? ものを落下させる力だ」
 ヤンマはびっくりしてぼくを見た。ぼくぐらいの年齢の男の子が、重力のことを知らないとは信じがたいようだった。
 「ぼくが知ってるのは、地球が太陽のまわりを回ってるってことだけだ」
 「そうだよ! それを言えばいいんだ」 ヤンマはにっこりして言った。「それか酸素のことを言ってもいいな。水は二つの物質、酸素と水素からできている、とね。ぼくらの祖先は宇宙は二つの極『陰と陽』から成るということは知っていた。でもヨーロッパ人はその原理が他の物質、水や空気、石にもあてはまることに気づいたんだ」
 ヤンマは言葉を選びながら美しく語った。その声はやわらかだった。
 「多くの人が悪い時代がやってきたと言っている。そういう人たちに、きみはこう答えなければいけない。悪い時代ではないんです、ただ新しい時代が来ただけなんです、とね。雪に降りこめられた長い冬のあとの春のように。ツツジが花咲き、カッコウが鳴く。それがぼくらの時代だって思うんだ」
 ぼくらが訪ねようとしていた家の父親は、筆屋だった。その家の正面は、「筆売ります」の大きな文字でおおわれていた。石段のいちばん上まで登ったところで、じょうろを持った若い女の人に会った。その人はぼくらが何のために来たかを聞くと、だまって家の中に入り、入り口の鍵をかけてしまった。ぼくらは入り口を何度もたたいたけれど、誰も出てこなかった。しばらく近くの山の急流の音を耳にしながら立っていたけれど、あきらめて町に戻った。
 「家に木の箱があったら」とヤンマ。「黒い紙を箱の内外に貼りつける。片側はあけたままにして、そこをすりガラスでおおうんだ。箱の反対側に小さな穴をあける。針の頭より小さくね。そうやって箱の中をのぞくと、ガラスの上に木や花が映ってるのが見えるんだ。みんなにそれを見せて、写真はそういう箱を使って写すんだと教えてあげてごらん」
 ヤンマは自分の家の前まで来ると、蔵書を見せるからとぼくを中に誘った。ヨーロッパ式の製本の本があり、金文字で表紙が飾られていた。ぼくはそれに触る勇気がなかった。
 「ヨーロッパでは金の文字を書くだけさ、ぼくらが黒い墨を使うようにね」 ヤンマは言った。
 帰ろうとすると、ヤンマはヨーロッパ風タイトルの、青い表紙の薄い本を差し出した。
 「これは進歩的な人々が読むべき本だ」とそれをぼくに渡しながら言った。「きみの父さんに見せるといい」
 ぼくは走って帰った。
 「アブラハム・リンカーン、アブラハム・リンカーン」 父さんはつぶやいた。「それは男の名前なのかな?」
 「そうだと思うよ、父さん」
 父さんは2、3ページ読み、他のページもぺらぺらと繰ると、本をためすがめつ眺めた。「もう寝なさい」 父さんが顔を上げもせず、唐突に言った。
 「その人はヨーロッパの賢者なの?」 ぼくは聞いた。
 父さんはうなずいた。
 「孔子や孟子みたいに?」
 「いや、違う」
 「じゃあ、朝鮮のユルゴクみたいな人?」
 父さんの表情には、じゃまされたくない気持ちがありありと表われていた。ぼくは口をとじて、父さんが本をすべて見終わるのを待った。本の中身が父さんを夢中にさせているのは明らかだった。でもぼくには何も言わない。父さんは静かに座って、目の前に本を置きじっと見つめていた。それからキセルに火をつけると吸った。
 このヨーロッパ人は詩人なのだろうか。英雄とか、悪い王の忠臣なのだろうか。ヨーロッパにも悪い王がいて、国を治めているとか?
 ぼくは引き出しから絵を取りだして、大きな建物や立派な橋、高く伸びる尖塔を見つめた。このとがった塔は何のためにあるのだろう?
 壁の柱時計が低く重い音で時を告げた。それははるか彼方からやってくる、雲間を割って現われる閃光のような、近づきがたい知の宝庫からの響きに聞こえた。
 
 父さんは病気のせいで、わずかのお客しか迎えいれていなかった。父さんが言うには、静寂と平安が必要だと。父さんは商用の客はすべてスンピルという若い秘書にまかせ、農場からやって来る農夫たちの面倒はスノクという管理人がやるよう指示を与えていた。訪問客は来ては去り、交渉ごとをしては言い争い、としていたが、でもそれはかつてぼくらの遊び場だった外庭でだけのことだった。内庭は塀と鍵のかけられる門とで他から遮られており、一日中静けさが保たれていた。朝には農夫が帚をかけ、夕べにはクオリが花に水やりをした。
 父さんが毎日会う来訪者といえば、母さんくらいだった。母さんは夕食の後に、クオリか他の使用人の一人を従えてやって来て、しばらくぼくらと時を過ごした。母さんは家のことについて父さんと話をし、内庭での出来事や母さんを訪ねてきた女性たちの話をした。それから母さんはぼくが学校から持ちかえった出来事に耳を傾け、窓にかけられたすだれを降ろし、灯りをともし、おやすみを言って去った。
 三人の姉のうち、一番上のクナギはもう結婚しており、一番下のセッチェは父さんの部屋に入るのをいまだに恥ずかしがっていた。オジニだけが夜になるとときどきやって来て、ぼくらの話に仲間入りするのだった。オジニはぼくの学校にとても興味をもっていて、教科書を見たがり、ときにここそこの一節を喜んで読み上げたりした。ときどきオジニはぼくが翌日使わない教科書を持っていきたがり、自室でひとり熱心に勉強していた。にもかかわらず、あるとき父さんがオジニも新しい学校に行きたいかと尋ねると、とても驚いてすぐに教科書を元に戻した。
 「わたしをからかうなんて!」と赤くなった。
 ある夕べ、ぼくがひとり内庭に面した「東の間」という小部屋でいると、オジニが会いにやって来た。「この教科書はどれも、すごく変じゃない」と不服げに言った。「ここには古典の言葉もないし、意味深い文章もないし。ミロクはこの教科書が将来自分を賢くするって信じているの?」
 「そうだと思うよ」とぼく。
 「じゃあ、この教科書からいったい何を学んでいるわけ?」 オジニはページを繰りながらぼくに聞いてきた。「可哀想に。あれだけの才能に恵まれているというのに。『中庸』を読み、たくさんの古典の詩をそらんじ、ユルゴクの逸話だって書き写したのに。今はと言えば、新しい学問なんかやって、無駄なことで自分をだめにしている」
 オジニは頭のいい女の子だった。読書が好きで、古典の逸話や小説をたくさん知っていた。話しぶりは母さんさえ知らない古典的な言葉や表現に満ちていて豊かだった。オジニは子どもたちの中で一番賢いと思われていて、実際のところ、ぼくの間違いに気づくのはオジニただひとりだった。オジニはぼくの書き方は下手くそで、言葉には品位や美しさがないと思っていた。そんなことから、ぼくはオジニと話すのを避けていた。
 「新しい学問はただ、今までと違うだけなんだ」 ぼくはやっとオジニにこう言った。「たとえばどうやって鉄道を敷くのかとか。それは誰もが何千キロの距離を移動することができるものなんだ。それから月までどれくらい距離があるか計算する方法とか、稲光からどうやって電気をつくり出すかとか」
 「それがミロクを賢くさせるわけじゃないでしょう」 オジニは納得できない風だった。
 「新しい時代の到来なんだよ」 ぼくは続けた。「長くて暗い眠りの後にやってきた明るい未来なんだ。新しい風がぼくらの目を覚まさせたんだ。春が来たんだ、長い冬が終わって。そうみんな言ってるよ」
 長いことオジニは言葉を失っている風で、ぼくの言うことが耳に入らないようだった。「じゃあ、ここからヨーロッパとみんなが言っているところまで、どれくらいあるの?」 オジニはやっとそう言った。
 「それはまだ習ってない。けど、何万キロのいく倍も先じゃないかと思う」
 「ずっと昔、王昭君は花の咲かない国に嫁いでいったそうよ。そこはそういう所じゃないの?」
 「ちがうよ。それはフン族の土地のことでしょ」
 「じゃあ、ヨーロッパには百合やレンギョウやツツジの花が咲いてると思う?」
 「わからない」
 「じゃあ、南風ってあると思う? 月夜の晩にお酒をたしなみつつ詩を詠むなんてする?」
 「どうだろう」
 「なあんだ、ミロクはなにひとつヨーロッパについて知らないじゃない」 オジニはがっかりしてこう決めつけた。



●ユルゴク(栗谷)
16世紀の朝鮮の儒学者。韓国の5000ウォン札の肖像となっている。
●王昭君(おうしょうくん)
原文(英語版)ではPrincess Zhao-junとなっている。古代中国の四大美女(西施,貂蝉,楊貴妃)の一人とされ、若くして後宮入りするが政略結婚の道具として利用され匈奴(Hun) の地に送られ、そこで生涯を終えたと言われている。