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22. 海上にて(シンガポール〜インド洋)
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南に向かって航海していくほどに、気温は上昇していった。シンガポールに近づくと、日よけのないところには居られないほど暑くなった。ぼくの目に刺すような痛みがはしったのはこの日射しのせいだろう。友人たちが、ぼくの目がひどく赤いと言うので、船医のところに見せに行った。医者は目の中に軟膏を入れ、包帯でぐるぐる巻きにしたので、目が見えなくなった。何の病気にかかったのかも告げられないまま、包帯を取らないようにときつく言われた。というわけで、ぼくはシンガポールに上陸することはできなかった。船医の言いつけに背いて包帯をはずし、遥かかなたのシンガポールの街を見ようとしたため、痛みはやむばかりか更にひどくなった。何も見えず、目の前でかすかな光がちらつくだけ、そして燃えるような痛みがきた。医者は船室にもどってそこで数日間、じっと寝ているよう言い渡した。これ以上炎症を起こさせないよう、わずかの太陽光線も避けるためだ。医者の言うことを聞いて、涼しい船室にいると少しよくなった。
ぼくは海の音を聞き、波の音を聞き、眠り、目覚め、また海の音を聞いた。
包帯を取るのを許されたとき、スマトラ海峡*は遥かかなた、インド洋に入っていた。見渡すかぎり船もなく、島もなく、陸地もなかった。海と真青な空がただ広がっていた。甲板に腰かけて、この世界をまた目にすることができて、日よけの下で仲間たちとおしゃべりに興じることができて幸せだった。ぼくら朝鮮の仲間たちは中国の学生たちに比べて、あまり勤勉ではなかった。中国人はいつも、むさぼるように本を読んでいたし、じゃまの入らない船室にこもって読書していることもしばしばだった。あまり読書をしない朝鮮人に対して、中国人は常に本をもって歩いていた。アンナン人(ベトナム人)の学生は本は読んでいたけれど、娯楽ものばかりだった。教科書はいっさいなし! 物語や長編小説などをフランス語やベトナム語で読んでいた。フランス語の本を読んでいるときは皆ひっそりしていた。でも母語で読むときは歌うように声を出していた。皆、それを見て笑った。ずっと北に住んでいるぼくら朝鮮人もそうやって同じようにして本を読むので、心を動かされた。そして故郷のことを思った。
甲板では、シンガポールから乗り込んだらしいインド人たちといっしょになった。その人たちは学生ではなく、ぼくらの船室に寝にこなかった。一等船室でも二等船室でもなく、ずっと甲板で飲み食いし、眠っていた。白髪の年老いた男二人と、老いた女性、若い女性の4人だった。甲板の中央付近に場所をしめ、毛布と持ち物をまわりに置いていた。
ずっと昔のこと、700年も800年も前のこと、朝鮮の学者たちはインドを訪れ、聖典の出所で修行をした。まず満州全土を踏破し、それからモンゴル、青海湖、そしてチベットの高原を渡っていった。「西方の空の下の不思議の地」に着くのに、2年の歳月を要した。多くの者は旅を終えられず、ほんのわずかの者だけが生き抜いてヒマラヤ越えに成功した。この熱帯の楽園にたどりついて、黄金の寺院の前で賢者の教えを耳にしたときは、どんなにか感動したことだろう。
ぼくらの甲板の仲間、インド人たちはきわめて静かな人たちだった。だまって座り、ときどき何かささやきあって、あとはじっと果てしない波間を眺めていた。
コロンボは雨が降っていた。それにもかかわらず、皆は桟橋に急ぎ、ここセイロン島を案内してくれるという案内人の後に続いた。サイゴンでは別のガイドについたため損をしたから。ぼくらは大人数のグループで街をゆっくりと歩いた。インド人の商店以外は、どれもヨーロッパ式の建物で、ソウルや上海のものとよく似ていた。どこに向かって歩いているのか誰もわからなかったけれど、何ひとつ見逃すまいと皆目を皿のようにしていた。
とうとう町外れまで来て、竹林の湿地とヤシの農園を抜け、大きな建物がぽつんとある場所にたどり着いた。それは博物館だった。中には幾千もの彫像(大仏)が収められていた。ぼくらが足早に部屋から部屋を渡り歩いている間、案内人は理解不能な言葉で展示物の説明をしようとしていた。それにはまったくもって閉口した。この大仏について学ぼうと、貴重な時間を使ってここで過ごした芸術家や敬けんな修行僧はいたのだろうか? ぼくらの大方は解説を理解しようとしなかったし、大仏をまともに見ようともしなかった。静かな場所を見つけるやいなや、本を取り出して読みふける者もいた。それからチップを渡す、という面倒なことが最後にあって、観光巡りよりそっちに時間を取られたくらいだった。それが済んでから、大急ぎで船に戻り、やっとのことで出発に間に合った。
次の日は雲がすっかり消えて、空は晴れ渡った。曇り空から一転、太陽が容赦なく照りつけた。甲板はインド人をのぞいてほぼ空っぽ。ぼくらはといえば、涼しい船室に避難して読書をした。日が沈むと、甲板はすぐに活気をとりもどした。さまざまな国の乗客があらわれ、それぞれの時を楽しんでいた。朝鮮人の一角では、ぼくら5人で、話のうまいキムが故郷の町の話をするのに耳を傾けた。他の者は小さなワインボトルとフランスのお菓子を手に入れてきた。これはぼくらの日々の習慣となっていて、順番に誰かが飲み物をこのお楽しみ会に持ってくるのだ。ワインや飲み物は食事のときに開けられるだけなので、手に入れるのはなかなか大変だった。酒類の販売は許されていなかった。仲間が気を失ったから気付け薬が必要だと、一度ならず給仕を言いくるめるのは簡単ではなかった。小さなおこぼれではあったけど、ぼくらの集まりをこの上なく楽しくしてくれた。
キムは昔の高麗王朝があったソンドの古都で育った。キムは名のある貴族たちの逸話をたくさん知っていて、それでぼくらを毎晩楽しませた。
船のへさき近くの柵のうしろ、巻き上げ機のそばに皆ですわった。ここは静かで、誰にもじゃまされない場所だった。水がすぐそばにあり、皆の声は海の音と混ざりあった。寝食を忘れて知的な議論に没頭する中国人学生や、自分たちの世界の中でささやきあっているインド人のじゃまはしなかった。ベトナムの学生はぼくらからはるか遠く離れたところで、木の箱を並べて陣地を囲っていた。それで朝鮮語、中国語、インドの言葉三つが混ざりあって響いていた。ときにすべての会話がぴたりと止み、また、ミツバチの巣でハチがぶんぶんうなり出すようにしてしゃべり声がはじまった。ひとり、またひとりと眠りについて、あたりは静まっていった。キムだけが故郷の町の逸話をえんえんとしていた。ぼくらの客船ポウルカ(Paulecat)はインド洋を月明かりの下、航海を続けるのだった。
*スマトラ海峡:現在スマトラ海峡の名前は地図にない。地理的に言うとマレー半島とスマトラ島の間にあるマラッカ海峡ではないか。日本の画家・黒田清輝の1900年6月11日の日記に、シンガポールを通過した後に、「今日はスマトラ海峡だ」という記述がある。西北に船で進みその後ベンガル湾に出ているので、マラッカ海峡、もしくはその手前をそう呼んでいたのかもしれない。(黒田記念館、黒田清輝日記より)
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/japanese/1900.html
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