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21. 待機(上海〜サイゴン)
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上海に着くとぼくは朝鮮の留学生顧問を訪ね、ヨーロッパに行きたいという希望を伝えた。顧問は親切そうな中年の男の人で、しゃべり方から朝鮮北部の出身と思われた。ぼくの出身地や学歴、既婚かどうかなど質問した。中国当局からパスポートを取得できるよう、できるだけのことをすると約束してくれたが、しんぼう強く待つようにとも言い添えた。当局はとても面倒見はいいけれど、急いではやってくれないのだ。いずれにしても、ずいぶんと待たされることになった。
気持ちのいい秋の日がつづいた後に、雨が降りだした。雨季がやってきたのだ。朝から晩までしとしと雨は降りつづき、気温はどんどん下がっていった。ぼくの部屋には暖房はなく、朝鮮でつかっているような床暖房も、火鉢もなかった。なので雨にもかかわらず、街外れまでの長い散歩に出た。ここは大きな街で、一番近い郊外に出るにも1時間以上歩かねばならなかった。そこは奉天(ムクデン)みたいにどこまでも平らだった。山もなく、川もなかった。天候は満州のように荒れ模様ではなかったけれど、どんよりした空から霧雨が途切れることなく降りそそぎ、黒いタールの歩道の上に散っていった。夕方近くになって、西の空が少し明るくなり、赤い夕陽が顔を見せたかと思うと、どんよりした夕闇の中に消えていった。
それから霧がやってきて、草地をおおい、木々や茂みをすっぽり包みこんだ。野道さえも見えなくなるくらいすっぽりと。見えるのは、小さな石塚の上に一つずつ置かれた黒い漆塗りの棺だけ。なんですぐに埋めずに、こんな風に置き去りにされているのか。いくつもの棺が霧の中に浮かんで、亡霊のようだった。そしてまた雨が来た。
翌日の夜、食堂で夕飯を食べていると、同郷人に出会った。他にも4人朝鮮出身者がいるとのことで、みんなヨーロッパへ行くのを待っているが、パスポートが発行されないので発つことができないそうだ。その内の何人かに会ったけれど、ぼく同様、運が向くのをわびしい部屋でひたすら待っていた。その人たちは夏の間に上海に着いて、勉強をつづけるためにフランスに行こうとしていた。すでに6ヶ月待ちつづけており、旅立つ希望をなくしかけていた。
みんなすることがないので、ただ部屋にこもり、ひたすら待つ日々だった。4人は夜になると集まって、将棋をしたり、煙草を巻いたり、体を温めるために酒を口にしていた。ときどきフランスのことを話題にした。フランスについてたくさん本を読んでいるようだった。ポングンという名の学生はフランスに一度行ったことがあるという。ドイツにも行ったことがあり、いくつかの街を知っていた。ポングンはここを発つことができたら、ドイツの街を案内すると約束してくれた。ということで、鬱々としたパウカン通りに集まり、寒さの日々を将棋をしてやり過ごした。日がたつにつれ、ぼくらの気持ちはどんどん落ち込んでいった。
冬が去り、春がやってきた。港からひとつ、またひとつ、と船が西に向けて旅立っていった。そしてとうとう、ぼくらの番が、パスポートを手にするという喜びの日がやってきた。ぼくらは来るべき船旅に何を持って行こうかと、すっかり浮き足立った。朝に夕に旅の話でもちきりになり、買い物に出たり、荷物を詰めたりした。
ぼくらは港に向かった。薄日が行く手の道を照らしていた。ひとたび足を踏みいれたら最後、永遠に飲みこまれ消し去られてしまいそうな巨大な客船を、じっと見つめた。ぼくらは他の乗客につづいて乗船口をのぼり、デッキまでつづく果てしない廊下を歩いていった。デッキでは人々があちこちでざわめいていて、名を呼びあったり、何か叫んだり、笑ったり、さよならを言いながら泣いたりしていた。
警笛を低く鳴らしながら、船はゆっくりと川をすべり出し外洋へと向かった。誰かが岸壁で打ち上げ花火を上げ、これから始まる長い航海を祝福していた。岸壁も、家々も、手を振る人々もだんだん小さくなり、ついに見えなくなった。揚子江(ヤンズー)の河口に着くと、船はふたたび大きな警笛を鳴らし、ぼくらは大洋に出た。
ぼくらの船は、霧雨と穏やかな風の中、うねりに乗って南に向かった。夜になってぼくは、宋王朝の悲劇のことを思い出していた。戦闘を重ねるごとに、かつての栄光の帝国はモンゴルの騎馬隊のひづめに踏みにじられていった。哀れな王家は宮廷から宮廷へと逃げまわり、ついに海へ出た。しかし無慈悲なモンゴル帝国の将軍とその艦隊は、どこまでも追いかけて攻撃をしかけた。将軍が王室の船に攻め入ったとき、そこに残されていたのは12才の皇帝と宰相の二人きりだった。二人は宋王朝最後の生き残りだった。宰相は微動だにせず、沈む夕陽を眺めていた。そして皇帝の胸に帝国の紋章を付けると、抱き上げて海に身を投げた。これは南シナ海で千年以上前に起きたことだ*。ぼくは今この船が走っている場所が、そのあたりだろうと思った。夕闇が荒波の上に落ちていき、小さな帆船が行く手を横切っていった。ぼくは船室に降りていった。
東アジアの学生たちは、正規の運賃を払っていなかったので、全員で一つの大きな倉庫をあてがわれた。そこは積み荷を一掃して、学生用船室と呼ばれるものになっていて、100人ぐらいの学生がいた。みんな床の一角を定め、すでに横になっていた。暗がりの中、ぼくは船室の奥の方に進んだ。そこには同郷の学生たちが集合していて、ぼくらはこの船旅のあいだずっと寝起きをともにすることになっている。
中国の学生と会話するのは難しかった。ぼくらが古い学校で習った中国古典の言葉と、学生たちがしゃべる現代中国語とはだいぶ違っていた。ぼくらの中の1人が現代中国語をしゃべることができた。他の者はよく理解できなかったので、複雑なことを議論したりするときは筆で筆談をした。漢字の意味や書記法は古典と変わりなかった。
上海を出て3日後にサイゴンに着いた。陸に上がったけれど、役立たずの案内人のせいでたいして見物もできなかった。熱帯植物の生い茂る公園のような場所をふらふらと歩きまわった後に、動物園に行き着いた。そこで午後の残り時間を過ごした。みんな暑さにやられて疲れきっていたのだ。涼しくなってからぼくらはアシの草原を通って船に戻った。ベトナム人の家をあまり見物できなくてがっかりだった。ぼくらはこの国についてあまり知らない。中国が間に横たわっているからだ。
翌朝、ぼくらの船室に5人のベトナム人学生を見つけたときはすごく嬉しかった。両国の言葉に使われている漢字を介して、筆談で会話ができた。ベトナムの学生たちも朝鮮人に会えて嬉しそうだった。その中のひとりが、黙ってぼくらの筆談を見ていたが、朝鮮とベトナムは北と南それぞれ文明社会の端に位置しているんだな、と書きつけた。
*この話がモンゴルによる南宋滅亡の話だとすると、史実としては1279年のことなので、千年以上前というのは計算が合わない。ミロクが三一運動(1919年)の翌年亡命したとして1920年だから、641年前ということになる。
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