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19. 出発


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 医学部の6学期のときそれは起きた。ある午後のこと、眼科学の授業を終えて出ていこうしたら、サンキュという仲のいいクラスメートに呼びとめられた。サンキュは声を落として、明日の晩、南雲にある食堂で開かれる会合に出るつもりはあるかと聞いてきた。行ってもいいと答えたが、いったい何の会合があるのか。サンキュはぼくをわきに呼んで、地元の学生たちから得た熟慮すべきある情報についてひそひそ声で伝えた。朝鮮人が日本政府に対して不当性を訴えるデモを起こそうとしており、学生たちもその一角をしめるというのだ。サンキュは二、三の信頼できる学友たちに、ぼくら医学部学生もそれに参加する意志があるかどうかを聞こうとしていた。
 イグウォンもサンキュから聞かれ、心を奪われているようだった。帰り道、イグウォンは一言もしゃべらなかった。ぼくらは部屋で手早くその日の学習をすますと、朝鮮人は何を政府に要求すればいいのか自問した。選挙権を得ること? それとも自分たちの軍隊を持つ? あるいは、地域の自治管理の権利?
 「なんであれ、社会的権利に関することだよ」 イグウォンは苛立たしそうに言い放った。
 「それは確かだな」
 「もしデモに参加したら、当局はぼくらを罰するってこと、わかってるか?」
 「ああ、わかってるよ」
 「ぼくらは他の学生よりもっと分が悪い。ぼくらは政府直属の学校にいるわけだから。やつらは言うだろうな、感謝の気持ちがあるなら、いかなる政治的行動にもかかわるべきじゃなかったってね」
 どうすべきか、問題は大きい。デモに参加すべきか、避けるべきか。ぼくらは高等医学を教えてくれている学部に対して(それも多分なにひとつ見返りなく)恩を感じていた。公費によってぼくらは、著名な科学者や聖職者、政治家などに会ったり、紹介されたりする機会にも恵まれてきた。
 イグウォンは長いこと考えていた。「ぼくらはどうするべきだと思う?」 そうぼくに聞いた。
 「ぼくにもわからない」
 「何か起きて、それが国全体のことであるなら、ぼくらもやらないわけにいかない」
 「そうだろうな」
 「そしたら、きみはどうする?」
 ぼくは黙っていた。
 「難しい状況だよな」 イグウォンはつぶやいた。「でもどうであれ、ぼくらは一緒に行動しような」
 「うん、それは絶対だ」
 翌晩、南雲にある食堂にぼくらが着くと、すでに10人くらいの学生が集まってきていた。サンキュは皆に、デモの準備はだいぶ進んでいる、でも公立学校の学生はあてにされていない、なぜならぼくらは「半日本人」と思われているからだ、と言った。皆はじっとサンキュの話に耳を傾け、参加の意志を募らせていた。一人の反対の声も聞かれなかった。デモのことを言い出したのは誰なのか、どのようにデモは組織されたのか、日本政府に何を要求しようとしているのか、誰も知らなかったが、そこにいた学生全員がデモに参加したいと思っていた。
 それから長いこと、ぼくらは朝鮮の古代文明について、先祖が成した文化的功績について話し合った。そして日本人は成り上がり者にすぎないと結論づけた。活版印刷のこと、潜水艦のこと、陶磁器のこと、紙やその他ぼくらの祖先が世界に先駆けて生み出したたくさんの品々のことを話した。
 ひと晩中、話を聞いた後、ぼくらの中で最も温厚で思慮深いイグウォンがこう言って参加の意志を示した。「わかったよ、じゃあ、ぼくらもデモに参加することにしよう」
 ぼくら医学部の学生は、デモ参加決断のしんがりだったにちがいないけれど、今こうしてデモに参加することになった。ぼくらはすっかり勢いづき、勝利はもう目前のような気分で高揚していた。サンキュはしばしばデモに関する前情報(旗やビラや行進の順番などさまざまな準備事項について)をもってあらわれた。そしてついに、「3月1日の午後2時、パゴダ公園からデモ開始」というニュースをかかえてやって来た。
 その日は暖く気持ちのいい、光あふれる春の日和となった。目を覚ますと、イグウォンは制服を着てもうすっかり準備を整えていた。その日ぼくは風邪気味で欠席許可を取ってあり、授業を受ける予定がなかった。
 「早めに公園に来てよ」 イグウォンはぼくに手を差し出しながら言った。「そうすればはぐれないですむから。いっしょに行進しような」
 「もちろんだ」
 イグウォンはにっこり笑うと部屋を出ていった。
 夕べは二人とも、ほんの少ししか眠れなかった。身体が鉛のように重く、寝床から起き上がることがなかなかできなかった。
 2時に公園に着いたときには公園じゅうが警官に囲まれており、囲いのある所はさらに人でぎっしりで、10歩も前に進むことができなかった。イグウォンも他の友人たちもどこにも姿が見えなかった。囲いの隅に立って、公園入り口付近にいる押し合いへし合いしている人々をひとりひとり見ていった。突然あたりがしんと静まり、誰かがパゴダの塔の上で、朝鮮の独立声明文を読みはじめた。ぼくのいるところからはひとことも言葉が聞きとれなかった。演説が終わり、ひと呼吸おいて、嵐のような万歳(マンセ)三唱が沸き起こり、幾千人もの声が何回も何回もこだました。小さな公園は張り詰めた空気でいっぱいになり、今にも破裂しそうだった。色とりどりの大小のビラが投げ上げられて、宙に舞った。デモ参加者は列をなして、万歳三唱を叫びつづける群集の脇をぬけて街なかへと繰り出していった。
 ぼくはビラをひとつ手にとり、声明文を読んだ。朝鮮人はこう宣言していた。「日本による併合は間違いだった。今日から先は、併合は無効となる」 朝鮮人は朝鮮の国民として、自分の運命は自分で決める権利を要求していた。ぼくは声明文を何回も読んで、そしてデモ隊の列に加わった。門のところで、誰かがぼくの手にビラの束を押しつけてきて、それを配るようぶっきらぼうに言った。
 通りはビラを必死になって受け取ろうと騒ぐ群集で埋めつくされていた。「やっとこの日が来たんだ」とある者は叫び、またある者は「これぞ我らの魂、学生たちよ、子どもたちよ!」と大声を出した。興奮しきった女たちの中には涙を流す者もあり、ぼくらに食べ物や飲み物を差し出した。
 警官隊はぼくらが街なかをデモするのを阻止することはなかった。公共施設や領事館だけが重装備の憲兵によって固められ、学生たちが侵入しないよう待機していた。
 それからあまり時を経ずして、ぼくらは取り囲まれてしまったと感じはじめた。デモは活力を失っていった。ぼくらが行進をしようとするところするところ、デモができないよう憲兵と警官にふさがれてしまった。そして何の制約も受けることなく「我らが自由国家」を宣誓したフランス領事館を出て、総督府へと向かおうとしたところで、ぼくらはとうとう袋小路に追い詰められた。前進の道は断たれた。道の両側が、4列に並んだ警官隊に占領されており、その真ん中に憲兵がいた。通りの両側で双方が一瞬向かい合ったと思うやいなや、第1列目が軍刀を抜いてデモの隊列に踊りかかった。最前列は持ちこたえたが、その後ろではパニックが波となって広がり、デモ隊は解体した。ぼくらの理想は消え去った。最後に残ったのは、輝かしいマンセ三唱ではなく、恨みつらみの泣き声だった。憲兵たちは、別の憲兵が待機している大通りへとぼくらを追いたて、すぐにまたデモ隊を捕まえに戻って行った。
 ぼくは怪我ひとつ負わずに家に戻ると、あっという間に眠りについた。目が覚めるとあたりは暗かった。イグウォンはまだ戻っていなかった。心配でじっとしておられず、イグウォンを探しに出た。街は不穏な空気に包まれ、どの通りも荒れ果て、薄暗かった。機関銃を手にした憲兵があらゆるところに配備されていた。黒い装甲車がぼくの脇を走り去っていった。
 ぼくは裏道にまわって同級生たちの部屋を訪ね、イグウォンの消息を尋ねた。イグウォンに何が起きたかを知る者はいなかった。寄宿舎の部屋から部屋をむなしく訪ね歩いた。そうしているうちに、サンキュと街角で出会った。サンキュもいなくなった友だちを探しに出てきていた。サンキュは仲間の誰彼なく探しており、イグウォンを含む5人の居所がわからないと言った。
 夜中になって戻った部屋はからっぽのままだった。
 夜はのろのろと過ぎていった。
 翌朝サンキュがイグウォンと他の4人の仲間は軽傷を負い、連行されたという知らせをもってやって来た。サンキュはぼくに刑務所にいる仲間に食べ物を持っていくよう頼んだ。
 そうこうするうちに民族蜂起が大きな街から小さな町々へと急速に広がり、そこから市場町へ、村々へとさらに飛び火していった。故郷では、キソプとマンスが他の同級生といっしょに逮捕されたと聞いた。学生たちや小中学校の男子生徒たちにつづいて、商人が運動に参加しはじめた。つづいて職人や農民たちが、最後には朝鮮人官吏たちまでが加わった。総督府は形勢がまずいことになってきたことに気づき、日本から軍隊をさらに招集した。10年前にぼくらの国が併合されたときとちょうど同じように、再び軍隊が町中を間断なく歩きまわっていた。あらゆるところで流血が起きた。キリスト教徒が住む村では、村じゅうの者が教会に閉じ込められ、生きたまま焼かれた。古い刑務所や留置所が拡張され、新しい収容施設が必要になった。警察が朝に夕に、そこで拷問をかけていることが知れ渡った。4回目の大きな民族蜂起が起こった後、ソウルの大学生たちは地下にもぐって、秘密裏に活動を続けた。ぼくはそこでビラづくりを担った。反乱鎮圧の後、東京司令部は長谷川総督を解雇、後任に調停役という触れ込みで斎藤という司令官を置いた。斎藤はその日まで軍服を着て軍刀を装備していた税務署員から、教師、通訳、医者にいたるまでのすべての官吏の武装を解いた。人々を恐怖に陥れた秘密警察は解散され、拷問が禁止された。朝鮮人の給料は日本人並みに上げられ、出版の自由が公布された。朝鮮人学校は日本人学校と同じ地位を与えられ、帝国大学がソウルに建設された。
 この融和政策と奇妙な対比を見せながら、3月のデモに参加した者たちに対して厳しい懲罰が加えられた。裁判所は「公共の平和を乱した者」に対して刑を宣告し続けたし、警察は活動に関係した者たちを血眼になって探し出し、逮捕した。追われる者たちの多くが国外へと亡命した。ぼく自身はと言えば、学生服を脱ぎ捨て、故郷への汽車に飛び乗った。

 この情勢不安の間ずっと、ぼくはかあさんにソウルでの出来事をほとんど伝えていなかった。たとえ伝えることがあっても慎重に言葉を選んでいた。当然、かあさんはぼくのことをひどく心配していた。ぼくが見聞きし体験したことのすべてを告げたとき、かあさんは顔を真っ青にして、ひとこともしゃべることなく部屋を出ていった。
 ぼくは深い眠りに落ちていった。ここ何ヶ月というもの、心安らかな夜はなく、疲れ果てていた。
 夕方になってかあさんがぼくのところにやって来た。「おまえは国を出たほうがいい」 そう言った。
 「国を出る?」 ぼくは言っている意味もよくわからずに、その言葉を口にした。
 ぼくはものをまともに考えることができなかった。底なしの疲労感がからだ中をおおっていた。
 「そう、おまえは逃げるんだよ」 かあさんは再度言った。「ヤールー川の上流は他よりも監視の目が厳しくないと聞いたことがある。今ならおまえはそこから北へ逃げることができる」
 ぼくは黙っていた。逃亡する勇気なんてぼくにはなかった。逃げようとした学生たちの多くが、その途上、逮捕されたり銃で撃たれたりしていたからだ。
 かあさんは危険性についてそれほど深刻に考えていなかった。たくさんの亡命者が川を渡って国境を越え、脱出を成功させていると信じていた。それこそがぼくのすべきことなのだった。国境の向こう側に行けば、パスポートを得ることができ、最終的にはヨーロッパに行って学問の続きができると。
 ヨーロッパという言葉さえも、ぼくを奮いたたせることはなかった。ヨーロッパの大学で勉強するなんてとてつもなく難しいことで、言葉ひとつとっても、アジア人には克服しがたい障壁となるくらいのことは知っていた。
 じょじょにかあさんはぼくを説き伏せた。かあさんの心の平安のためにも、ぼくは国を離れなければならないんだと思い始めていた。終わりのない危険に身をさらしてかあさんといっしょにいることより、ぼくが国を出た方がかあさんの心配をやわらげるだろうことは明らかだった。ぼくはデモに参加したことを後悔しかけていた。
 次の夜までに家を出ていく覚悟をかためた。ぼくがそれ以上家にとどまることをかあさんは許さなかった。国境を越えるまで、家の誰ひとり、ぼくの亡命を知らされなかった。
 かあさんはぼくに着替えの入った小さな籠と銀の懐中時計、一巻のお札を渡した。これがぼくが夢にまで見たもうひとつの世界への旅立ちに持ち出した、すべてのものだった。
 霧がたちこめる暗闇の中、かあさんは町の出口までぼくにつきそってきた。
 「勇気がないわけじゃない」 二人して沈黙の中を歩きつづけた後に、かあさんは言った。「おまえはときに落ち込むことがあるけれど、いつでも自分の考えはしっかりと持っている。おまえのことを心から信頼しているよ。勇気をもって。おまえは国境を難なく越えることができるさ。そしてヨーロッパの地を踏むんだよ。かあさんのことは心配しなくていい。おまえが帰ってくるのをしんぼう強く待っているからね。時は飛ぶように過ぎていく。もしも、再び会えることがなかったとしても、そのことをあまり思いわずらってはいけないよ。おまえはわたしの人生にかけがえのないものを与えてくれた。大きな喜びをね。さあ、わたしのミロク、ここからは自分で自分の道を切り開いていくんだよ」


参考:
1. フリー百科事典ウィキペディア「三・一独立運動」(ミロクの参加した1919年3月1日のデモは後にこう呼ばれる)
この記事の中にある「堤岩里事件」(堤岩里の教会で起きた虐殺、放火事件)のリンクをたどると、2007年2月28日朝日新聞等で報道された宇都宮太郎(当時の朝鮮軍司令官)の日記の発見についても触れられている。(2月28日以前に筆者がこのページを見たときは、この記事の前半部分の要旨のみで「虐殺の事実は疑わしい」となっていたので、報道後、前の書き込み者、または他の者が加筆した模様。)

2. 毎日フォトバンクに「朝鮮三一運動・朝鮮各地で検挙された学生」というタイトルの、当時の写真を見ることができます。(検索ワード「三一運動」で該当ページが出ます)
毎日新聞社(トップページからデジタルメディア→Photo Bankへ)
また「朝鮮総督府」で引くと、1930年前後の建物とその周辺の写真が閲覧できます。


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