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17. ソウル
朝食のすぐ後、ぼくらの汽船はチェムルポ港に入港した。ここで全員上陸させられた。ぼくはみんなの後について駅まで行き、列車に乗ってサムガクサン(三角山)が見えてくるまでの何時間かを過ごした。山や谷や村が、街にむかって走る列車の車窓を飛び去っていった。500年以上の歳月、ぼくらの王の公邸があったその街。ここはほんの2、3年前まで、毎夜、朝鮮全土からかがり火が届けられたところで、1ケ所に集められた大きなかがり火を、まだ小さかったぼくらは自分の町の城壁のところから見たものだった。また役人たちはここで王からの言葉を受け、それをもって地元の町を治めていた。ここはぼくらの国でいちばん知られた詩人が住んでいるところであり、学問のある人々や芸術家たちが一同に集まる場所でもあった。ぼくは目をとじて、感慨にひたった。列車は大きな駅に入る前、川の下を通るトンネルを走り抜けた。ぼくらがソウルに到着したことを告げる声が響いた。 荷物を持ち上げると、ぼくは乗客の流れに乗せられて駅の外に運ばれていた。見たことないような大きな広場が目の前にあった。耳をつんざく警笛やベルを鳴らす大音響、人力車や自転車やオートバイが市電のまわりを走りまわっていた。ぼくらは市電に乗った。永遠につづくかと思えるほどたった頃、市電は近代的な店や銀行、ホテルなどが並ぶ大通りに出た。そこは街の北部にあたり、多くの生徒たちがそのあたりに住むことになっていた。ここではあらゆる通り、あらゆる本屋、あらゆるレストランにいる学生たちが同じ制服を着て歩きまわっており、唯一学校の記章だけが違っていた。だれも何を読んでいるのかとか、どこの学校に行っているのかとか、どこの出身かなど尋ねたりしないのだった。街で声をかけあい、互いに助けあい、まるで大きな家族の一員のようだった。 次の朝、ぼくはソウル医科大学の門の前に立っていた。そこは街の東側にあり、敷地内にはヨーロッパ風の建物が数棟あった。紺色の制服に金の医大のバッジをつけた学生たちが、出たり入ったりしていた。新入生だけが私服姿で、朝鮮人は白の服、日本人は黒の服を着ていた。ぼくは新入生たちといっしょに登記所に行って、書類や学科要項、制服と帽子につけるバッジをもらった。 化学は充分な授業項目があり、実験授業も豊富でよく整備されていた。一方で生理学は、ここでは新しい学問で、多くを学ぶことはできなかった。解剖学(医科大生にとって最も重要な科目)も、たいして変わらなかった。やせこけた教授がぼそぼそと不明瞭な口調で話をし、熱意に欠けていた。教授は骨を手に、輪郭やくぼみを指して、日本語、ドイツ語、ラテン語をつかって説明した。もぐもぐとそれも早口でしゃべったので、最前列にすわっている学生にさえ聞きとれなかった。ときおり黒板に何か書いたが、言っていること同様、それも理解困難な状態だった。だんだんにぼくらはペンをとって書くことをしなくなり、この2時間の苦痛から解放され、やせこけた顔が早く目の前から消えることだけを願ってやりすごすことを覚えた。 「ばかばかしい!」 ある者は不満をぶちまけた。 好奇心の強い生徒たちは、教授の席まで行って骨をもってくると、教科書に載っている写真と見比べてみたりした。 「ぼくらも取りにいくべきかな?」 隣の席の生徒がぼくに聞いた。 「きみが見たいなら」 ぼくはそう答えて、頭蓋骨を取りにいき、その子の目の前に置いた。 「これって人間の骨だよね」とその子は言った。 長いことじっと骨を眺めた後にそっと手に取って、手の中で重さを確かめ、また下に置いた。 「変だよな、これが人間の一部だなんてね」とつぶやいた。 とはいえ、ぼくらは頭蓋骨の割れ目、くぼみや突起部分をたんねんに観察し、教科書の間違いを白紙のままのノートに書きとめた。 隣の席の子は、朝鮮北部からやって来たもの静かで気持ちのいい生徒だった。みんなからイグウォンと呼ばれていた。医学生たちはたいてい二人一組になって、互いの知識を補ったり、ノートを確認しあったり、実験をいっしょにやったりしていた。そうやって組んだ相手とは宿舎もいっしょのことが多く、結局いちばんの友だちとなるのだった。イグウォンとぼくも広くて明るい部屋にいっしょに住んでいた。毎晩ぼくらはいっしょに勉強し、議論した。ある日は物理学を、次の日は化学を、また別の日には解剖学を、そして週に4回あるドイツ語文法もしばしば。 医学生はみんなドイツ語が必修で、それは医学書がドイツ語で書かれているからだった。寝床に入ってからも、二人してその日やった語尾の活用や語形変化を言いあったりした。 毎朝ぼくらはいっしょに学校まで歩いていき、夜になればいっしょに部屋に戻り、また勉強を続けるのだった。買い物もいっしょ、風呂もいっしょ、観劇にもいっしょに行った。日曜日にはソウルの街中を見物した。北宮、ナムサン(南山)にある公園、動物園、ときに漢江(ハンガン)まで遠足に行ったりもした。イグウォンはソウルに来て2年目で、いろんな場所を知っていた。 ぼくらの大学は朝鮮全土の中で、重要な学究の場とされていた。国のあちこちからやって来る著名人はみんなここを訪れたし、皇太子や政治家がソウルを訪問すれば、ぼくらは駅まで行進して出迎えなければならなかった。実際、学校全体に軍隊調が染みついている感じで、日本の統治者によって建てられた公共施設のような雰囲気があった。ぼくらには取りたい講議や演習を選ぶ自由はなかった。特別の理由なしに講議を欠席することも許されてなかったし、7月のいちばん暑い時期でさえ、休みもなしだった。 そんなわけで、学期が終わって、制服を脱ぎさり学校を離れるときが来て、嬉しくてしょうがなかった。ぼくらは休みの間どうやって過ごすか話し合った。秋になればまたいっしょに勉強の日々を送ることができるのだから。イグウォンはぼくの光学の勉強がずいぶん遅れていると考えていた。ぼくは物理学の教科書を荷物に入れた。イグウォンは机の前にすわって、ぼくを見ていた。イグウォンは休暇の間、家には帰らないと決めていた。両親とももういないのだ。ごく小さな頃、孤児となってクリスチャン一家に育てられたが、イグウォンがミッションスクールを選ばずに国立大に行ったことから、あまり歓迎される存在でなくなった。 休みの前の最後の夜、ぼくらはいっしょに街で過ごそうと決めた。そうやって過ごすのはめったにないことだった。曲がりくねった路地に導かれ、ぼくらは東宮の苔におおわれた高い城壁に歩いていった。ぼくらの王家の残存者が拘置されているのはこの王宮だ。使用人も含めて数百人の人間がいまもこの壁の中に留置されていると聞いている。ここを通るときはいつも、足音をひそめて歩く。もしかして中から王家の人の尊い声が聞こえはしないかと。かなわぬ望みだけれど。声ばかりか、ざわめきのかけら、歩く気配すら、壁の外にはとどかない。ぼくらの誇るべき古代王朝の末裔は、すっかり口を閉ざしてしまった。 長い長い城壁がとだえると、大通りに出た。そこから街の南部へと向かう。たくさん店があってそのウィンドウには日本やヨーロッパの贅沢品が並び、明るい照明できらきらと輝いていた。あっちでもこっちでも西洋音楽が流れ、バイオリンやピアノ、アコーディオンや蓄音機の音に満ちていた。ステーションホテルの庭園にはバンドが入り、ヨーロッパのマーチやダンスミュージックが演奏されていた。ぼくらは本屋街の一角に足をのばし、そこでぼくは故郷の友だちのために小説を何冊か買った。 帰り道、横丁に広がる夜市を抜けて行った。屋台や露店がいっぱい出ていて、安くて古いがらくたを売っていた。読みふるされた本、どこにでもある青と赤の線入りの便せん、絵や写真、扇、キセル、タバコ入れ、帽子、女性の絹の靴、どれもほこりをかぶってみすぼらしく、硬貨1、2枚で買えるものばかり。着古してはいたけれど上等そうな絹の服を着た老人たちが、通行人の気を引こうとつとめていた。その人たちは、以前どこかの地方や町で役人だった人だと誰もが知っていた。働き口を失い、生活に困り、少しの金を手に入れるため、家から必需品を持ち出して売っていた。たえまなく人が出たり入ったりしていて、安売りのかけ声、値切る客と商人の押し問答であたりは騒然としていた。 夜店の終わりあたりで、細い竹笛がうずたかく積み上げられている店を見つけた。それは白銅貨2枚で売られていた。イグウォンが竹笛を手にとって試した。ぼくは買うのに反対した。竹笛は見るからに粗雑なつくりで、いい音が出るようにはとても見えなかった。でもイグウォンはきかなかった。不良品だろうとなかろうと、楽器を扱ったことなんかないのだから、たいした問題ではないと言った。イグウォンはただ、寂しくなったときに一つ二つ簡単な歌でも吹けたらと願っているのだった。そこでぼくはたくさんの竹笛の中から清潔そうなものを選び、1、2曲試し吹きをしてから、イグウォンにどれを買ったらいいか薦めた。イグウォンが笛を買うと、見知らぬ若い男が近づいてきて、自分にも1本竹笛を選んでくれと言った。ぼくは選んでやった。ぼくに笛の選定をしてくれと頼むものが次々出てきた。年配の男と二人の女性が、あの男にしたようにわたしにもと言ってきた。イグウォンとぼくはあっという間に、竹笛を聞こうとする人々に取り囲まれた。ぼくは気にせず、人々を押し分けて帰ろうとした。するとそこの年老いた店主がまったく見映えの違う竹笛をぼくに差し出した。それは本物の楽士が使うような竹笛で、堅い竹の芯で作られ、すっきりとした繊細な模様がほどこされていた。店主の手にも同じような竹笛があり、ぶっきらぼうに(ほとんど命令口調で)ぼくに「タリオン」という古い学校でよく歌われた、ぼくの好きな朝鮮の古曲をいっしょに演奏するよう言った。その竹笛と口のきき方から、男は音楽の教師をやっていたか王朝の楽士と思われた。今やヨーロッパ音楽がどこでも手本にされ、男は職を失ったのだろう。この昔風の楽器をちゃんと扱う若者を見つけて男が喜んでいるのは確かで、ぼくといっしょに昔の曲を演奏したいと願っていた。そうであったとしても、ぼくはちゅうちょしていた。こんな人だかりのまん中で何かするために夜市に来たんじゃないだろう? イグウォンはさっきぼくが笛を吹いている間、黙って聞いていたけれど、興に乗っていたのは明らかだった。イグウォンはぼくに言われたようにするようささやいた。もはや制服を着ているわけでもなし、この年寄りを喜ばせてやっては、と。ぼくはゆっくりと竹笛を口にあて、絹の服を着た老紳士は笛を吹きはじめた。群集はじっと聴きいっていた。老いた楽士がときに速く、ときにゆっくり、追憶のうねりの中をさまよい、群集の前で演奏する喜びにひたっている間、人々は耳を澄まし立ちつくしていた。 南には、新しくできた日本人街の光の海が見える。今は老いさらばえた朝鮮人は街の北、暗い空の下で眠っている。夜空がサムガクサンを、世界から隔絶されたチャンドク宮殿を、漆黒のビロードでおおっていた。
*チェムルポ(済物浦)、今の仁川の旧称。韓国北西部にあり、ソウル、釜山につぐ都市。ソウルのベッドタウンでもあり、黄海に面した港湾都市。1883年に開港。ソウルとは地下鉄で結ばれている。
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