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13. ソンニム湾で
ソンニムは牡蠣の養殖くらいしかこれといってない、人里はなれた小さな村だった。湾づたいに歩き、浜からだいぶ奥に入りこんだところに、20数軒のわらぶき屋根の農家がたっていた。昼のあいだ、村で人を見かけることはなく、男も女もそこから離れた山の中にある畑で働いていた。ときは大麦、小麦、トウモロコシの収穫期だった。ぼくは畑から畑を歩きまわり、刈ったトウモロコシの束がつぎつぎに積み荷になって牛車に乗せられ農場へ運ばれるのを見学した。
夜になると、村長の家の、ぼくにあてがわれた部屋にもどった。土壁の簡素な部屋で、隅に小さな木の机がぽつんと置かれていた。村は夕方、活気をとりもどした。牛がモウモウと啼き、家の外では母親たちが浜にいる子どもたちに夕飯の時間だと呼びまわっていた。それからすぐに静けさがもどり、村はひっそりと眠りについたようにみえた。そんななか、村長がぼくの部屋にやってきて、しばしぼくと話をしていった。部屋でいちばん暖かな場所を指して、そこに横になるよう言った。村長は灯心草ろうそくのそばに座り、秋になったらわらぶき屋根を直すため(そう説明していた)、わらを編んでいた。ランプは茶碗に野菜油を入れたもので、灯芯から弱々しい灯りがこぼれていた。横になっていると、わらのシャラシャラいう単調な音と部屋の暖かさに負けて、ついうとうとした。ふたたび目を覚ますと、たいがい灯りは消され、トルダリおじさん(こう村長を呼んでいた)は姿を消していた。静けさが家を、村をすっぽりおおっていた。海辺から夜の波が寄せたり引いたりする音だけが聞こえていた。
見るにたる収穫がないときは、農民たちの仕事につきあうこともないので、かわりに釣りに出かけた。釣りはとても楽しかった。畑での日常とはまったく違った楽しみがあった。釣り竿を手に、かごを腕に抱え、湾の入り江へ、干潮のときも水をかぶっている牡蠣の岩場へと、一直線に浜を歩いていった。岩にすわって、満ち潮がやってくるまで、静かにゆっくり釣りができた。毎日村長はぼくに、いつ岩場を離れたらいいか、満ち潮につかまらずにもどったらいいかを告げた。
そこで一日中、ひとりで釣りをして過ごした。糸釣りは生き餌を取るのによくやられている方法だった。それは指の太さほどもない魚で、別にうまいものでもなかった。それ以上のものはごくたまにしか釣れなかった。そしてその秋のあいだじゅう、農民たちの所望する鯛など1匹として目にすることはなかった。にもかかわらず、日々その岩場に通って、じっとすわって時間を過ごした。それは釣りをすることだけが楽しみではなく、そこから眺める風景が素晴らしく、とてもいい気分になれたから。湾に守られてすわり、目の前には無限に広がる大洋があった。水平線と空は溶けあい、境界がないように見えた。南を見れば、ひとけのない岩山のヨンピョン島が秋の空に伸びあがり、北には、低く連なる一筋の砂の丘が、雲にかすんでいた。見渡すかぎり、一隻の船も見えなかった。爽やかな風がときおり、濡れた牡蠣の岩の上を通り過ぎていった。
家に釣り道具があっても、農民たちは釣りに行かなかった。魚をつかまえるときは、大きな水流がある湾のむこうに網を仕掛けた。漁というのは「糸釣り」のことは指さず、もっと大物の魚、カレイやシタビラメ、白くて細長いメカジキなどを取るのが目的だった。網漁を見たこともなければ、網が仕掛けられているところも知らなかったので、ある日漁に出るからいっしょに来ないかと誘いを受けて、喜んだ。農民たちは夜の干潮時を選んだ。最初、少し不安になったけれど、網漁は夜が一番いいということがすぐにわかった。
浅瀬を湾にそって歩きはじめたとき、あたりは暗く、それは月が昇っていないせいだった。水は身をきる冷たさだった。やがて星あかりであたりは明るくなり、海面が輝きはじめた。そして海草や這いまわるカニが暗闇の中で見分けられるようになった。ぼくらは引き続ける潮を足に感じながら、えんえん続く砂の浅瀬を進んでいった。そして水際をさんざん歩いた後、激しく泡立つ大きな水流に行き着いた。流れのすぐ近くに、網は馬てい形に膜を張るようにに設置された。ときどきぼくの腕ほどもある魚が、網から飛び出そうと水の中で跳ねた。潮が引けば引くほど、魚たちは死にものぐるいになって逃げ出そうと暴れまわった。激しい抵抗の中、魚たちはのたうちまわり、逆上して跳ねまわり、ついに浜辺に打ち上げられて、夜空の下に水銀のような体を光らせた。
それからみんなで手早く魚を籠に入れ、家に持ち帰る。うち寄せる波が遠くまで引ききり、浅瀬は深い静寂におおわれた。遠くの方からときどき、人声がかすかに聞こえてきた。漁に来ていたよその村人が獲物を手に帰るところなのだろうが、姿は見えなかった。ここで溺れた人の魂が岸に立ちより美しい夜を愛でているのだろうか、それくらい、夜はかぎりなく美しく、静まりかえっていた。
秋晴れの日々がつづいた。脱穀作業が朝早くから晩まで行なわれた。亜麻の種子、豆、ソバの実、テンサイが収穫され、最後に米の取り入れが行なわれた。トウモロコシは、農民たちが通風機に当ててもみがらを取り去り、100升入りの藁ぶくろに詰めていった。村長はぼくを農家から農家へ連れ歩き、作業の全工程を説明した上、それぞれのトウモロコシの品種や品質の違いを説明した。
トルダリおじさんはぼくが村で寂しい思いをしないよういつも気を配ってくれていた。何もすることのない夜、ぼくが何か読むものがいるだろうと、おじさんは部屋に手書きの本を置いていってくれた。4冊あって、薄い詩集、逸話集、厚手の小説が2册だった。どの本も茶色の油紙に小さな文字で書かれていて、大半が手あかやこすれで変色し、かすかなランプの下でやっと読めるようなものだった。
「ここは静かだろう」 ある日おじさんが農家からの帰りに言った。「今までは町で暮らしていたからなあ。だけどな、いかなる時代にも、賢者というのは悪いことが起きている間は山に引きこもったものなんだ。昼は鋤(すき)を手にし、夜になってから筆をとっていたのさ。だからおまえもなあ、野蛮なやつらが出て行って昔のような良き日々がもどってくるまで、ここで静かに暮らせばいい」
この村の農家の人々は女も男もみんな、昔のいい時代がすぐにもどってくると信じていた。新しい王様があらわれて、この国を治めてくれればすぐにそうなると。ぼくはその見方には同調できなかった。人々に対して何か言うことはしなかったけれど。それはぼく自身が、ぼくらの国について何ひとついいことが思いうかばなかったからだ。それに、おじさんおばさんとぼくが呼んでいるような大人にむかって、反対意見を言うことは、失礼なことだと思っていた。地主一家とそこで働く農民たちが、家族のように互いを尊重し、あいさつをしあうのは古くからの習慣だった。ぼくはこの習慣が好きだった。だからいつも、たくさんいるおじさんおばさんを区別するのに、それぞれの農家の名前を付けて呼んでいた。ウドゥゴルおじさんとその奥さんのウドゥゴルおばさん、ツイッソンおじさんとその奥さんのツイッソンおばさんというように。ぼくは「町の甥っこ」と呼ばれていて、本当の甥のように扱われていた。村長は、この習慣は本当の家族の一員のようにお百姓たちに感じてもらえるから、いい習慣なのだとぼくに言った。一番裕福な地主一家を頭に、みんな合わせて大きな一族をなしていた。
秋が終わり、雪が降りはじめた。昼も夜も、湾の上を、畑や道の上を、大粒の雪片が風に舞っていた。収穫がすんで、収穫祭も終わると、食物庫は大きな南京錠でしっかりと閉ざされた。家々の屋根は新しい萱がふかれ、窓も新しい絹紙がほどこされていた。農民たちは暖かな部屋にこもり、手仕事に専念した。綱、ひも、ござ、網、わらじなどを作った。女たちは糸を紡いだり織物をしたりし、子どもたちは村の先生(お百姓の一人)のところに行かされ、書き方や読み方を冬の間だけ習った。
仕事で人々が集まることがあると、うわさ話に興じたり、順番に何か読んだりして過ごした。読まれる本は、英雄ものの古い物語が多かった。汚名を着せられ排斥され、故郷を離れることを余儀なくされた者が、飢えと寒さに耐えながらあちこちを放浪し、最後に隠者のところに辿り着きかくまわれる。物語の終わりには、主人公自身が賢者となり、宮廷に招かれ、王より権力をさずかる。そして才色兼備の女性と結婚し、故郷にもどり、そこで昔を知る者たちから温かく迎えられ、幸せな一生を送る。どの物語もそのような筋だった。何回同じ話を聞かされても、人々の楽しみがそこなわれることはなかった。聞くたびに、清廉潔白な主人公にふりかかる不運の人生にみんな怒りを新たにしていた。物語への陶酔は、厳粛かつ半ば歌うような朗読でさらに高められた。陽気にしゃべっていたかと思えば沈うつな調子にもどるといった、あらゆる声の変化と抑揚が動員されていた。雪が深くなればなるほど、夜が更ければふけるほど、物語の悲哀は増してゆき、はるか昔の英雄の悲しみを聞く者は身にしみて感じるのだった。ぼくは家々の扉の前に立ちどまって聞き耳をたてることがあった。物語の筋が聞きたいわけじゃない。ただ声の抑揚を聞いていたかったから、その声が穏やかだったぼくの子ども時代のことを思い起こさせるからだった。
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