2008年 オリンピックの北京報告


広瀬健一


オリンピックの北京報告①

 8月3日から9日まで私は北京に行って来ました。旅の目的はオリンピックを前にした北京の様子を見ることとと無事オリンピックが開会されるのを見守るためでした。チベット暴動で中国でのオリンピックに否定的な雰囲気になったこと。ジョン・タイターの予言などではオリンピックが暴動で無くなるなどと予言されていること。私にとっては同じアジア民族であるチベットは大事だが、アジアの祭典となる中国でのオリンピックはもっと祝福されていいと思っている。日本で台湾在住のチベット人2世の方が長野での聖火リレーでチベット旗を持って抗議したために拘束された。私はそのような抗議には理解できるので、カンパに参加した。しかし、中国でのオリンピックを祝福する気持もあり、北京への出発を決めた。
 8/8の開会式は、北京市内のホテルでテレビで見た。その素晴らしい演出には感動した。少数民族の子供達が五芒星旗をもって来て掲げる。9年前に来た時には、雑誌には「祖国分裂分子を倒す」といった過激なことが書かれていたが、今は多民族の融和が説かれている気がした。世界での聖火ランナーでは、チベットの抗議ばかり強調されたが、テレビで見る中国国内の聖火ランナーの様子は、みなそれぞれ自由にポーズを取り聖火の受け渡しをして、みな本当に楽しんでいるようだった。私が北京で見始めた頃はちょうど四川省での聖火ランナーの様子だったが、そこでは少数民族の聖火ランナーが多数参加していた。また、踊りながら即興で書かれる巨大な書画。それをさらに子供達がかわいく書き足していく。また、ワイヤーで人を吊す演出もすばらしかった。最後は聖火の点火も空中で行われた。その瞬間、北京中で花火が行われ、私のホテルからも花火が見られた。その感動と無事、オリンピックが開会されたことから、ここにも「中国おめでとう。そしてありがとう。」と書くつもりでいた。
 日本に帰ってきてびっくりしたのが、カシュガルで武装警官が襲撃されるテロが起き、それを取材した日本人記者が暴行・拘束されたことだ。北京では見落としていたのかもしれないが、全然気づかなかった。その事件が起きたのは5日。そういえばその翌日の天安門広場では聖火の式典後、天安門広場が解放されるはずだったが、解放されなかったということがあった。




オリンピックの北京報告⑤

 北京五輪開会式に関する醜聞が飛び交っている。たしかに聖火が灯った時は北京中で花火が上がったが、開会式の開始の時、映像では私の泊まっていた北京内蒙古賓館でも花火が聞こえるはずが聞こえなかった。やはりCGだった。まあ、それはどうでもよかったが、国旗を運ぶ少数民族の子供達は本物を使うべきだったのではないか。
 私は結局、オリンピックの北京報告と言いつつ、オリンピックらしいところには行かなかった。鳥の巣どころか、オリンピック公園自体、関係者でないと入れなかった。
 通常の地下鉄自体、荷物検査があった。空港の荷物検査も厳重。いちいち、鞄の中まで開けられる。今回、ゴトクナイフをうっかり持ってきてしまい、成田は通過出来たが、経由地の上海空港で取り上げられた。昨年仕事で行った際は筆入れに入れていたカッターを没収。以前の中国は申告しなければなんでも通ったものだ。ゴトクナイフは旅の必需品だと思うが、それも持ち込めないのは不便になったものだ。それとは対照的に空港職員の態度は昔は横柄でパスポートは投げて返されたものだが、それは随分改善されてきている。
 オリンピックで振られている旗は中国の旗と、オリンピックの旗となんとコカ・コーラの旗だ。コカ・コーラは北京オリンピックを随分応援しているらしい。同じ赤だから気が合うのか。アメリカのパンクバンド、デッド・ケネディーズのベスト"Give me convenience or give me death"の裏ジャケットが、人民解放軍がコカ・コーラの旗を掲げる絵になっているが、それが真顔で行われているのが私の見た北京オリンピックだ。
 旗は天安門付近の物売りが売っている。公安の姿を見るとすばやく逃げ出していく。昔に比べると物乞いの姿はまったく見かけなくなった。昔は公園は有料だし、無料で座れるベンチなど無かった。日本のように、ホームレスの住処になるからだ。今は無料の公園やベンチが増えたものだ。昔見た中国の物乞いは、子連れだったり、本当に死にかけていたり、日本のホームレスよりも悲惨なものだった。北京市内は閉め出されているのだろうか。
 中国はまだ、昔の日本のように人と人との距離が近い。店に入ると外国人だろうとなんだろうとまず話しかけてくる。バスも日本のようなワンマンバスもあるが、そうでないバスもあり、切符売りが親切に行きたいところを聞いてきてくれる。赤ん坊を抱えた女性が乗ってくると若者から席を空けさせるのも切符売りの仕事だ。中国人に聞くと秋葉原のような通り魔事件はあるにはあるが、そんなことをするのは精神異常者に限られるという。ただ、8/9にあった鼓楼でのアメリカ人殺人事件はその類と言えるかもしれない。だんだんと中国でも日本型の犯罪も起きてきているのかもしれない。




オリンピックの北京報告⑦

 道端で雲南たばこ「阿詩瑪」を吸い、小吃で坦々面をすすり、燕京ビールを飲むと中国に来たと感じる。去年行った上海同様、今回の北京でもかって雲南の伝説のたばこと言われた「阿詩瑪」はもうどこにも売って無かった。代わりに雲南たばこ「紅塔山」を吸う。7年前行った時、3.5元だった坦々面は5元に値上がりしていた。青島ビールは以前のような甘さが無くなり、今はそれが残る燕京ビールがお気に入りだ。ビールの値段は昔と変わらない。しかし、北京の暑さの中飲み心地は変わらないが、以前に比べ酒が弱くなった私の足をぐだぐだにする。
 7年前来た時には2号線までしかなかった地下鉄は今や13号線まである。便利になったものだ。最近の中国人のマナーの向上により、乗り心地はもう東京と変わらない。煙草を吸う人も減ったものだ。これは世界的な傾向かもしれない。だが、私は中国煙草を吸っている。9年前や7年前、北京はもっとカラっと暑かったが、今は朝はいつも霧が出て、蒸し暑い。大気汚染のせいもあるのかもしれないが、昔の郊外ははげ山ばかりだったのに、最近は植林が進んで緑が多い。それが霧の原因のようだ。車の量は確かに多い。日本が特殊なのだが、右側通行の道路の横断は未だに慣れない。
 北京オリンピックが終わった。「オリンピックを見に来たのか?」と聞かれたが、オリンピックの中国語の発音「奥運」を覚えて来なくて、最初答えられなかった。それぐらいは覚えて行けばよかった。覚えた言葉は「加油中国」(がんばれ中国)。最初、「中国に石油を」という意味かと思ってしまった。北京人にはなぜかいつも韓国人に間違えられる。今回も「韓国人か?」と聞かれた。日本人や日本に来ている中国人に聞いてもどう見ても日本人だと言われるのだが。
 閉会式の日本選手は他の国に比べ、やっぱり日本人同士で固まっていた。日本はやっぱり鎖国のようなものなのだなと感じてしまう。日本は国際化よりも江戸時代化している。それでも私の中に中国は根付いている。92年に行ってから99年に北京に行くまで間、92年に見た中国が夢の中まで出てくる。何がいいのかと言葉では出てこないのだが、やっぱり第二の故郷だと思ってしまう。中国にはダメな人も多いのだが、賢者のようにまじめな人もいる。それは昔から変わらない。この構造を分からずに、ダメなところばかりあげつらっていると味方にすべき人まで敵に回すだろう。胡錦涛はあきらかに後者だ。さすが胡耀邦の意志を継ぐ者。中国の姿は変わってきている。
 今回、スキャナーを買い直し、92年の中国のフィルムをフィルムスキャンしてみた。忘れていた景色を思い出す。最近、今にばかり取り憑かれていた私は、写真を見て、私の人生もそんなに悪くないと思えてきた。最後にその写真を紹介したいと思う。やっぱり言いたい。
中国おめでとう。そしてありがとう。



上の写真:著者のウェブサイト「メルヘンメーカー 」より
北京の798芸術区の入口(この798芸術区は国営の廃工場をそのまま利用して、ギャラリーにしている。ギャラリーはほとんど無料。壁には文革時代のスローガンがそのまま書かれている。ここでも過去のものを壊して新しいものに作り替えるのではなく、古いものを新しい芸術に変えていく最近の北京のセンスが生きている。)

Copyright by Kenich Hirose
Photograph Copyright by Kenich Hirose

広瀬健一

自称詩人、会社員です。埼玉大学教養学部文化人類学コース卒。
twitter:http://twitter.com/laozionoff


index | previous | next