温の手記 2006 MAY

温 又柔

5月15日 火曜日

あたしは、ーーあたしは、どこの国の人間でもない。どこの国の人間にもなれるわ。いまは日本で生きているのよ。好きで、そうしているのよ。日本にいるしか仕方がないからではなくてこの国にいたいから、いるのよ、あたしはそうしようと思えば、どこの国でだって生きられるわ。夏生は言った。
(大庭みな子「浦島草」)
 
小学生のとき、「国語」は得意だった。「国語」の教科書に書いてあることを、だれよりもじょうずに音読した。
父が、母と私とを連れて台北から東京に移り住んだのは、八十年代の初頭……ときの首相が「留学生受け入れ十万人計画」を発表した年だった。日本国際教育協会(現・日本国際教育支援協会)が、日本語学習者のための日本語能力試験を始めたのも同じ年である。父と母は、日本語という、母語とは異なる言語を、遣うようになった。私は、幼稚園を出、小学校に上がる頃には同じ年頃の子どもと同じぐらい、巧く日本語を話せるようになっていた。両親とちがって日本語が母語のようになった。
 ……理不尽な理由で苛められたことはない。たとえば、日本人でない、とか、外国人だから、といった類の。そのような理由で仲間に入れてもらえなかったということは、一度も、ない。私にとって、自分が日本人でないということは、劣等感では、決して、なかった。
 ただ、人と違う、ということがやたらと怖かった。見たくないテレビを、見た。聞きたくない音楽を、聞いた。読みたくないマンガも、読んだ。みんながしていることはみんな、した。

 自分の母親が、同級生たちの母親と違う。

 それだけは、どうしようもなかった。
 「国語」が得意だった小学生の私は、両親とりわけ母親の日本語の拙いのを恥じていた。それを、母の、ではなく自分自身の欠陥のように思えてならなかった。母の母語は日本語ではない。日本で、日本人のように育ちつつあった私には、母にとっての日本語が外国語である、ということを思いやる余裕がなかった。私にとっての日本語は空気のようなものだった。空気のように、日本語を吸い、吐いた。
 わたしは、日本語に不自由しなかった。

 だけれど、日本語は空気ではない。

 日本語には、ときおり異物感が混じり、私の舌をざらりと舐めた。「留学生受け入れ十万人計画」が達成された年のある秋の日、私は品川の東京入国管理局で途方に暮れた。二十年。二十年、この国で育ち、この国でない土地では自分を外国人のように感じるようになった。しかし、育った国でも、私は外国人だったのだ。
 
 日本語……日本語と、自分との蜜月を思った。日本語が、しばらくのあいだ、私がこの国の人間であることの、私の根拠となった。

 向かい側の電器屋には、最新型のテレビが陳列されている。おおきいのも、ちいさいのも、一斉にニュース番組を映し出す時間だった。私は喫茶店の窓越しにそれを眺めている。雨の降りしきる、薄暗い冬の午後だった。
 ニュース画面に、不遜な態度のおんなが映し出された。こどもを殺したおんなだという。こどもを、ふたりも、殺したという。
 ーーこのままでは娘がだめになってしまう。だからこどもを殺した。
それで、それで他人の子を殺してもいいわけ? おんなを責めることばを吐き出す自分の声が震えているのが分かった。しかし私は、他人の子を殺したおんなの、肩を持とうともしている。その自分を、必死に抑えようとしている。喫茶店の片隅で私は、身震いせんばかりに熱いものが喉もとをこみあげてくるのを感じた。この烈しい動揺は、こどもを殺したというおんなの名が、画面に現れたときから始まっていた。それは、日本人の名、ではなかった。
日本人男性と結婚し、来日したおんなは、日本語が不自由で周囲との意志疎通ができなかった。自分の娘が他の子どもとなじめないのは、周りにいるこどもたちが悪いからだ、とおんなは思った。
 ーーああ。
  声にならなかった。
 ーーこれでまた、かのじょのような母親や、そのこどもたちは、生き辛くなったりするのかなぁ。
  なんと小さいのだろう、私の声。

  後日、ある雑誌が「事件」を以下のように評しているのを見た。
 
ーー日本社会に適応しきれていない外国人が、ついに子どもに刃を向ける時代になったことを、我々は覚悟するべきだろう。
 
適応? 我々?
声をあげて、笑おうかと思った。
胸が潰れそう。私は、兎に角、焦っている。
日本語と、「国語」は違う。絶対に、違う。



5月24日 水曜日

舌を抜かれた者たち。わたしたちは、半端なスペイン語しか話せない人間。あなた方にとって、わたしたちは言語的悪夢、言語的異常型、言語的あいのこ、冗談の材料にはもってこい。炎をことばで話すので、わたしたちは文化的に十字架にかけられている。人種的にも、文化的にも、言語的にも、わたしたちはみなし子ーーそしてわたしたちが話すのは、ことばのみなし子。
(グロリア・アンサルドゥーア《菅啓次郎訳》「野生の舌を飼い馴らすには」)

鼻腔、口腔、咽頭、喉頭、声帯、気管……口腔断面図のゴシック文字を指でなぞってゆく。上唇、下唇、歯茎、舌先、中舌。私の指は、それらひとつひとつの“器官”に、名前を与えているかの如く振舞う。
 これらのひとつひとつに、名前があるだなんて殊更に知らなくたっていい。それでも。
 人間は生まれたときからこれらの器官を遣うことで母語を獲得する。ひとつの言語を習得するということは、これらの器官自体が、ある言語の発話体系に慣れ親しむということを意味する。
 母語、という基盤はそのように創り上げられる。
 もはや、その言語ーー母語で発話するのに最も相応しい動かし方でしか、舌や、口腔を遣うことが出来なくなってしまう……という錯覚。
 事実、「外国語」の習得は、(勿論人によるが)、そうそう容易なことではないと一般的には思われている。

舌ッ足らず。
罵られる前に、自分で罵る。恥ずかしがる。誰もいないのに。ひとりで恥ずかしがっている。
私は、「標準中国語」の母音と子音の発音を練習していた。
そり舌音が、いつまでたっても出来ない。
在日コリアンにとってのハングルのように、私にとっての中国語もまた「単なる外国語」ではないので、中国語を自分のもののようには滑らかに遣いこなせないのは、恥ずかしいと同時に切ないことでもあった。私の舌は、依然、そり舌音を発するのに非協力的である。
「単なる外国語」としての中国語をネイティブ並みに習得し、ついには上海に旅立っていった友人ーー日本人のーーが居た。
 「中国人に対し、自分を日本人と思わせないような中国語を話せるようになるのが目標だ」と話していた彼は、ある時期の私にとって、私の最も不安定な部分を根から支えてくれた友人の一人である。
 彼や、その期間、彼と交わした数々の会話のおかげで私は、自分を日本人と思うことを、自分自身に許してやるというきっかけを掴んだのであった。
 それは、私にとって、辿り着くべきひとつの段階だった。長く、留まっているのには危うすぎる段階。次なる段階を目指して、つま先が震える。
 
 日本語を母語として習得した私の口腔器官は、日本語に支配されている。
 この偉大なる支配者の懐をくすぐるのが、日本語で文学を志そうとする私の究極の目標であるといったら、可笑しいだろうか。
 日本語が私の運命なら、私も日本語の運命となりたい。

メキシコ系アメリカ人であるグロリア・アンサルドゥーアは少女の頃、
「おまえには英語を話して欲しいの。いい仕事を見つけるには英語が上手じゃないとね。せっかく学校に行かせても、あいかわらず訛った英語しか話せないんじゃ何にもならない」と母親に言われたのだという。
 グロリア・アンサルドゥーアが生まれ育ったのは、テキサス南部、メキシコとの国境地帯の村だった。
 グロリア・アンサルドゥーアが母親に言われたのと同じようなことを、グロリア・アンサルドゥーアよりもちょうど三十年あとに生まれた私も、両親から言われたことがある。
「中国語も、日本語も中途半端になるぐらいなら、せめて日本語だけでもちゃんとしたものを話せるように普通の日本人の通う公立小学校へと入れることにしたのよ」。
 かくして、「国語」としての日本語を習い覚えた私は、ちゃんと(・・・・)した(・・)日本語(・・・)を話すようになった。私の話す日本語を聞いた大抵の日本人は、私の日本語を「冗談の材料」にはしないだろう。両親の予言どおりだったとも言えるが、その「代償」に私は、中国語を話すたびに「嗤われても仕方がない」という覚悟をいつも抱きしめている。
 そり舌音を上手に発する為の練習を、拒みたくなる。言ってしまえば、サボりたくなる。自分で、自分に呆れる。どうしてだか、母語であったかもしれないこの言語への執着が、私には不足しているようなのだ。恥ずかしさと切なさはいつしか遠のき、私は、日本語との蜜月を見せ付けるように、自分のほうから中国語の習得を諦める素振りすらしてみる。

 ここからは只の遊びだ。
 舌を、巻いてみる。唇を、軽く噛む。突き出す。喉の奥から、アー、と言ってみる。口腔断面図になってしまった私の、それぞれの器官の上に、ゴシック文字が、印字されていくのを想像する。
 私は、ただの怠け者で……外国語の習得に怠け者は向かないのだ。


温 又柔サイトONの手記」より


温 又柔(おん・ゆうじゅう)
1980年、台北生まれ。父の日本赴任に伴い1983年から東京在住。

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