夢は、夢ではなく

蝶は、蝶でない

雲のなかの、恋いこがれる精霊

夢の赤い部屋のなかの伝説


今は夜明け。私たちを乗せたクルーズ船はとどろく瞿塘峡(クタンシア/くとうきょう)を過ぎ、長江(チヤンジアン/ちょうこう)の巫山(ウシャン/ふざん」)に入っていった。夕べの飲めや歌えの大騒ぎから開けて、デッキには人っ子一人いない。私は居眠りしている警備員のところをこっそり抜けて、ヨガをするために一等船室専用の区域に忍び込む。ヨガの後屈の姿勢になったとき、幻(まぼろし)のように一人の女性が現われた。細いウエストにシルクのガウンの中でゆらゆら動く見事に張った腰、金色の室内履きから突き出たカラフルな爪。金色の髪が胸をおおっている。

人を惹きつけようと着飾る女は嫌だと思っているのに、その美しさに息を呑む。輝く月のようにわたしを惹きつける。眉間にただよう物悲しさが、私の心を痛くさせる。

デッキの下の階では、ツアーガイドが一等船室の部屋のドアを叩いてまわっている。甲高い声が鉄板の床に響きわたる。「起きてください。巫山の女神の山にまもなく到着します。女神をみないことには、このツアーは価値がないですよ」 どの部屋からも気配がないとみて、ガイドは大声を出す。「わたしはちゃんとお知らせしましたよ。後で文句を言わないでくださいよ。払い戻しはなしですからね」

階下で人がごそごそ動き出すのを耳にして、私はニヤリとする。このツアーガイドは人を動かす術を知っている。中国人を駆りたてるにはお金が一番。

厚い雲が山をおおい、川を包み込み、船とデッキの娘は白いシルクにおおわれる。どうやって彼女はここに来たのだろう。昨日の午後、私は三ツ星の船に乗り込み、一等船室、二等船室、三等船室の乗船客をすべて見てまわったのだ。ダムの建設で立ち退かされた、三峡(サンシア)に住んでいる、あるいはかつて住んでいた人々だ。どうして自分の故郷を、地元民がお金をつかって観光せねばならないのか。もっとよく知っておくべきだった。

この娘が私たちと一緒に船に乗れるはずがない。乗船すればすぐに気づいたはずだ。

雲の合間から光がこぼれ、川面に彼女の影を映す。その影さえもが美しく哀しげだ。影は険しい山頂がそびえる北の方に伸び、その頂の下にほっそりとつづく岩の両肩は霧に包まれている。あれが巫山の女神なのか、ツアーガイドがこの三日間ツアーの至宝だと自慢げに語っていた。彼女のいるところすべてが霧に包まれる、そうガイドはダンに言っていた。そのときのガイドの熱いまなざしに、私は驚かされた。何がこの人をこんなに熱くさせているのだろう。ツアーガイドとして、この人は何万回もこの岩を目にし、語ってきただろうに。

ガイドと私は、会った瞬間から互いに嫌悪感をもった。ガイドのきつい化粧、つくり込んだ髪型、溌剌としたからだの線をくっきりと見せるTシャツとジーンズ、甲高い声に出目金みたいに張った目の下にある隈。同様に彼女も、私のすべてが気にくわないようだった。私のする質問、服、流暢な英語、外国人を連れた旅。私たちが乗船するとすぐ、彼女はダンを傍らに引っぱっていき、おかしな英語で、この船でただ一人のアメリカ人であるダンに特別の配慮するのは、自分の職務ですからと告げた。私がわかるように彼女の言葉を通訳すると、ダンは笑った。ガイドは陰湿な目で私をにらみつけた。このえらそうなクソばばあ、あたしがあんたのしわだらけの口から肉をかっさらうのを見ててごらん!

「あそこです、女神がいるのは、みなさん。我らが女神、中国のビーナスですよ」 ガイドはメガホン越しに甲高く叫ぶ。デッキは人でいっぱいだ。ダンはガイドの隣りに立ち、山頂を見ようと首を伸ばしている。ガイドはダンの手をとると、北岸の方にそれを向けた。「あれです。一番とがった山頂です。雲とむきあう娘のように見えませんか。神秘的で美しいと思いませんか?」

山あいのどこかに誰か潜んでいるのか

愉しげな笑いと輝く頬笑みを目にたたえて。

ツアーガイドは屈原(クーユアン/くつげん)の九歌から「山鬼(シャングイ/さんき)」を歌いはじめた。二千年前からある神と王に捧げる儀礼の歌だ。山鬼は三峡をさまよう女神、愛する風と雨の戦士神が彷徨から帰るのを待ちながら、薬草(霊草)を摘んでいる。哀しい愛の歌、忘れられない美しい歌。ガイドがこの歌を知っていることに、そしてとても素晴らしく歌っているのに驚かされた。

白い霧に包まれた娘は、ふわりと浮かんでいるよう。その脚、腰のくびれ、髪は霧にすっぽりおおわれている。それは山鬼の完璧な姿、恋いこがれる巫山の山々と川の女神、虎や豹にまたがり、恋人を呼び寄せようと妙薬をしたためる。

「ここにおいでの皆さん、わたしたちの巫山の女神は中国の神話や歴史、民話、お寺や山、夢や詩のどこにでも現われます。太陽神と西の女王の間に生まれた二十三番目の娘です。生まれ変わってヘビになり、そして美しい女性となった漁婦(ユフ)なのです。また恋人たちを夢の中で会わせることができる、、霊芝(リンズィ/れいし)、魔法のキノコでもあります。屈原の歌った山鬼、山の女神であり、大禹(ダユ/だいう)と結婚して、夫を助けて大洪水をとめる治水を施した塗山(トゥシャン)の女神です。寺を守り、神々を歌で地上に誘う尼僧(ヌシ)、自分の性により実りと繁栄を祈り、病を癒し、死者に夢を授けます。この女神は処女の女神であり、性と誕生、薬草、実り、大地と命を授かる女神です。また何と言っても、美と愛と熱情の女神であると言えます」

人々は静まった。話の行く末に耳を澄ましている。

「そうなんです。まさに熱情の女神なんです、皆さん」 ツアーガイドは、ダンが自分の言ったことを理解しているかのように、彼の方を見てうなずいた。「古代の中国では、熱情は繁殖を表わすものでした。それゆえ美しく徳があるのです。たくさんの恋人を持てば持つほど、その女性の地位は高まり、尊敬を集めました。女性たちは寺に住んで、祭りがあると現われて、若者たちに音楽や踊り、薬草や性といったものを通じて大人になる手ほどきをしたのです」

この旅に出る前、私の友だちから中国のセックス産業のことを聞いた。国じゅうが巨大な売春宿みたいになってるのよ、と彼女は嘆いていた。どこであれちょっと見まわせば、女の子たちがからだを売っているのに出会うのだと。ホテルにバーにレストラン、マッサージサロン、床屋であれ。旅行会社もそれに噛んでるという。旅行者の多くが政府か会社のお金を持っていて、それを自由にいくらでも使えるとも。大款大款, 大不过公款(ダクアンダクアン、ダブグオゴンクアン=どれだけ金があろうと、国の資金力にかなうものはない)。ツアーへの参加を決めると、まず一番に美少女の学生をガイドとして雇いたがるそうだ。

「四川の女の子たちには気をつけてね」と彼女は、三峡ダムの人権問題を調査しようとしているダンに言った。「凛として魅惑的な女の子たちに、生きたまま喰われないようにね」

四川は美少女の産地として有名で、色白の肌に輝く瞳、美しい脚を持っている。けれどその美女たちの多くは、「雲と雨の地」三峡の出身者たち。それは朝の霧と夕べの霧雨が、女性の肌と目を潤すからだ、と言われている。地上では、目を見張る山々の連なりからの豊かな水が、様々な薬草を育み、女性に不思議な力や情熱、甘さ、美しさ、活力、神秘、魂をとらえる魅力の数々を与えるのだと。

私たちのガイドも、そういった凛とした美女の典型、乗船してわずか五分でダンの心をつかんだのだから。ガイドはダンにデッキに入れる無料チケットをあげている。そこは川と三峡を眺めるのに最高の場所。私はガイドに、私にも一枚チケットをくれと頼んだ。私も一等船室の客であり、ダンと同じ権利を有しているはず。ところがガイドは鼻で笑って、ビールと音楽と女の子たちで華やかに始まったデッキのパーティへと、ダンを連れ去った。階段下のロビーから、私は同僚とガイドが腰を擦りあわせ、互いの股間に手をやっているのを見ていた。ダンは楽しむことに没頭していた。トイレに降りてきたとき、私はダンにつっかかった。私たちはダムの移住者を探して、話を聞くことになっており、ダンの仕事は取材の様子をビデオに収めることだった。

「まあまあ、ちょっと待ってよ」 ダンはビールで酔っぱらった口調で言った。「ぼくが仕事してないって、どうしてわかる? あのガイドがぼくらが話を聞こうとしている移住者じゃないって、どうしてわかる?」

「移住者じゃなくて、娼婦じゃないの」

「あのガイドがぼくを好いてるんで、焼いてるんじゃないのか」と言って、歩きはじめた。

「彼女が好いてるのはあなたのサイフ。それにあなたは彼女のサービスを受けるわけにはいかないの。私たちは大学の基金でこの旅をしているんだから」

「どうしてダメなんだ?」 ダンは歩みを止めた。「やっとぼくに話しかけてくれる人が見つかったのに。いいか、交流しあうことはこの調査の一環だからな」

「からだで、じゃないでしょ」 私はボソボソとつぶやいた。「娼婦との交流でもないはずよ」

ダンが私のほうに向き直った。「君はいつからぼくの身の上相談役になったんだ? 彼女はもう大人で、何であれ自分のしたいことを、頭に銃でもつきつけられない限りできる年なんだよ。金銭源なんだろうね、彼女にとってそれなりに稼げる唯一の道ということだ」

「でもよこしまなお金だわ」

「君の考えだろ、それは。彼女が楽しんでないって言える?」

「あー、そういうことね、アメリカ人であるあなたが二重基準の人権とやらを行使して、中国を鑑定して喜んでるってわけね」

ダンが顔を強ばらせた。「君さあ、中国に来てから、ぼくが何かというと脇に呼ばれて、君のことを女じゃないって、中国の女であるわけがないって何度言われたことか、知ってるのか?」

「誰が言ったの? あのクソ女? あの女の言ったことを信用するんだ、あなたは」

「他の男たち女たちも同じことを言ってたさ。君のことを狂(クワン=変人、異端者)だって言ってたよ」

私は彼の目の前で船室のドアをバタンと閉めた。

「ツアーの皆さん」 ガイドのメガフォンがまた吠えた。「女神と楚の王との愛の物語を知っている人はいますか? それから詩人が彼女を永遠の女神にしたことは?」 ガイドの刺すような目が人々の間を横切り、私のところで止まった。ドキッとした。ガイドは私をデッキから放り出すだろうか。でも彼女は目をそらした。もしかして私も、白い霧に包まれた美女のように、目に見えない存在になっているのだろうか。ここにいる誰も、その娘が見えないみたいだ。タカのような目をしたガイドも、好色な私の同僚も。

「誰か知ってる人は?」 ガイドが再び訊ねた。私は思わず手を上げかけたが、やめた。どうして自分のこの幸運を放棄しなければならない? それに物語は、ガイドがうまく話している。彼女は、つまるところ、巫山の伝説の一部なのだ。

「わたしたちの女神は、宋玉(ソンユ)という二千年以上も前の王室の詩人によって永遠の存在になりました。楚の王が、山頂付近に美しい娘の姿をした雲が漂っているのを見て、宋玉にあれは何かと訊ねました。すると詩人はこのような話をしたのです」

「『王様、この雲は昔<朝の雲>と呼ばれていました。あなたの父上がここを訪れたときのことです。父上が昼寝をしていると、夢の中に美しい女性が現われて、その身を父上に捧げました。目が覚めて、父上が覚えていることはただ一つ、夢の中で女性が巫山の日の当たる斜面に来ればわたしはいます、わたしはそこに朝の霧、夕べの雨として住んでいます、と話したことでした。何日もの間、父上は山並を見つめ、女神が話した通りの雲と雨に出会いました。父上はその山頂を<たそがれの雲>と名づけ、<たそがれ雲の寺>を建てました。それが今わたしたちがいるところです』」

「若い王は詩人に、自分もその女神に会えないだろうかと訊ねました。そこで詩人は一遍の頌歌を書きました。巫山の恐ろしい嵐と、森に住むテナガザルの哀しげな鳴き声を讃える歌を。その夜、女神は王の夢に現われました。女神は昇る太陽のように部屋を照らし、それから月明かりのように光を静めました。女神の肌はヒスイのように滑らかで温かく、その顔は一輪の花のようでした。女神は王と愛をかわそうとしていましたが、心を変えました。戸口のところで、女神は優しいまなざしを王に送りましたが、そのせいで若い王は夜が開けるまで嘆き悲しむことになります。朝になって、王は女神の思い出として、詩人にもう一つ頌歌を書いてくれるよう頼みます。そのようにして美しき女神は生まれました。その美しさは地上にはそぐわないものです。彼女をひとたび目にした者は、生涯それに取り憑かれます。男の切望は決して満たされることはなく、その愛は男を抜け殻のようにします」

「何ということでしょう、楚の王は親子揃って、この女神に心を奪われたのです。女神はほっそりとした肢体だったので、父親の王は腰の細い女性を好みました。そのため多くの愛人たちは死ぬほどの飢えに耐えることになりました。王は大臣の屈原が、女性を追いかけてばかりいないで秦の王への反撃をするよう諭したので、国外追放しました。そして夢で見た女神を捜そうと、敵陣の中へ踏み込んでいき、そこで捕虜となって死にました。息子の方も同じようなものでした。晩年の父親の道をたどり、自分におべっかやご機嫌とりをする者たちを信じ、自国を秦の度重なる攻撃のもと、さらに崩落させました」

「紀元前223年、秦は楚を併合しました。紀元前221年には、中国は初代皇帝である秦の支配のもと統合されたのです。秦の皇帝(始皇帝)は、本を焼き払い、知識人たちを、星占い師を、魔女や魔術師や聖職者を生き埋めにし、靄の立ち込める楚王国の実りである音楽や踊り、占星術や医薬、儀式、そして夢のすべてを葬り去りました」

「学者たちは女神が、戦国時代の三国の中で最も洗練された文化をを持つ楚を転落させたと考えています。女神の存在がなければ、中国はもっと違った文明を持っていたでしょう」

クルーズ船はすっぽり雲に包まれていた。霧雨が降り始めたが、誰も動く者はいない。雨とあらば傘をささずにいられないダンでさえ、動かない。私が一言も通訳しなかったにもかかわらず、ダンは物語を理解したように見えた。私はカメラを構える。ガイドの雨で濡れた顔が、哀しみをたたえ美しく輝いている。その背後、人々の群れの端のあたりに、白い紗をまとった娘が舞い降る。その脚は霧の中に消えていて、女神の山頂もまた白い雲の中に半分隠れている。

「皆さん」 ガイドの声は明るいトーンを取り戻した。「この愛の物語によって、巫山の雲や雨は、愛や性、幻想や満たされない欲望と同じ存在になりました。何千もの詩人たちが女神と巫山について書いてきました。この山は四川省と湖北省に伸び、大巴山脈に達しています。そしてその山腹を長江が流れています。「巫」という名のごとく、山は空と地の間に二人の「人」が浮かんでいるように走り、この二人の巫女が人間と神の間をとりもっています。この巫女たちは、中国の医薬や占星術、天文学や信仰の源なのです。男たちを見えない世界へと導き、魂や精霊、神の世界に出会わせ、目や耳や手で触れさせたのは、女性なのです」

私たちのクルーズ船は、不可能と思われるくらい狭い渓谷を通っていく。水の上にそびえる崖の深い穴が、細いロープのように張りつく通路がよく見えるくらい、峡谷の幅は狭い。通路は古くなって崩れ落ちたのか、いくつかは川に水没している。これがあの有名な二千年前の古栈道なのだろうか。

「皆さん、私たちはこれから巫山の女神と古栈道の最終地点を離れます。もし私たちの女神が陰であれば、この道は三峡の陽を表わすものです。私たちの近代技術と装備をもってしても、この崖に道を設けるのは至難の業です。皆さんは、私たちの祖先が、素手で一万もの穴を崖に開け、峡谷に道を敷いたことを信じられますか? これは奇跡です。女神が美と性の象徴であるように、これは知恵と力と勇気の象徴です。二千年もの間、私たちはこの道を、敵と戦うために、食料や塩、その他の品々を運ぶため、そして女神に祈りを捧げるために使ってきました。どうぞ女神とこの崖をよく見ておいてください。そしてさよならを言ってください。私たちの船は巫山を離れます。一週間のうちに、ダムが完成し、川は175メートルまで水位が上がり、この道はすべて永遠に水の中で眠りにつくでしょう。女神は、この世とも巫山の人々とも切り離され、ただ一人山頂に残されます。何千もの人間がダムのためにこの地を離れます。私たちは勢力をもつ大きな一族のせいで、この故郷を犠牲にしました。その人たちは、この犠牲に代えて金銀を与えたと言います。でも私はこう言いたい、皆さん、金や銀でききた住処は、私たちの昔からのなじみ深い住処と同じではありません。見知らぬ場所にちりぢりになって、望郷の、望郷の想いにとらわれるのです」

ガイドは感情の高まりに息を詰まらせている。私はダンがビデオカメラを取り出して、この光景を撮ってくれないものかと視線をやる。私たちはこの一週間、ダムの移住者を見つけて話を聞くことのために旅してきた。そして今、目の前にその機会が展開されている。ダンがしているのは、ガイドを無心な眼差しで見つめることだけ。私はカメラを持ち上げるが、レンズには雨粒しか写らない。ダンに身振りでこの場面を撮るよう促すが、彼は私を無視する。楚の王みたいに、放心状態になっているのか。乗船客の群れが売店の方に歩き始めたとき、彼からビデオカメラを奪いとって、自分で撮ってしまおうか、という思いに至る。みやげ物の山の向こうに立って、ガイドは金ぱくの本と赤茶色に輝く干しキノコを掲げている。

「皆さん、このキノコは霊芝(リンズィ/れいし)といい、魔法の薬草です。女神の体内で育った、地上で最高の愛の妙薬です。女性が食べれば絶世の美女になり、男性が食べれば持てるすべの夢がかないます。こちらの本は、女神を生んだ戦国時代の古銭を集めたものです。それはこれから水没する古代の墓から集めたものです。この本は二千冊限定で、墓が175メートルの水面下に埋もれればもう掘り返すことができませんから、古銭の価値は百倍にも上がるでしょう。加えて、巫山の移住者に限って、この本は15%オフになります。乗船客の皆さん、皆さんの思いやりと支援に感謝します」

ガイドが話し終える前に、長い列ができていた。人々は札束をガイドの手に突き出した。ダンが何とか売店のカウンターにたどり着いたときには、魔法のキノコ霊芝はすべて売り切れていた。ダンは古銭の本をつかむと、中国へ来て初めての買いものをした。ガイドはお金を受け取るとき、目に涙を溜めて、ダンに微笑みを返した。そのとき私は突然気づいた。彼女は何と白い紗に包まれた靄の中の娘と似ていることか。私は船首の方を振り返って見た。女神は去り、山頂のあたりには乳白色の雲が漂っているだけだった。

下船するため、人々が下の階に集まっている。私たちのツアーは巫山港で二つに分かれる。一つのグループは小三峡へ別の小舟で入る。そこは崖に生える玉竹で知られ、野生のサルがキビをねだり、花舟に乗った地元民が愛の歌を歌う。残る私たちは、地上最大のダムを見るため、宜昌(イーチャン/ぎしょう)まで旅をつづける。一等船室と船倉の客との間で押し合いへし合いの騒ぎが起こる。どの人も我先に降りて、これから乗る小さな舟でいい席を取ろうとしている。ガイドがダンを抱きしめ、残りの旅の幸運を願っていると言う。次の瞬間、ガイドは私の方に向くと、その胸に私を引き寄せた。

「ねえさん(わたしの同胞)、あなたと知り合えてほんとによかった」

私は言葉をうしなう。彼女の弾力のある乳房が、私の胸に温かく触れた。「あなたの話はとてもよかったわ」と、私は口ごもりながら言う。

「あなたの話もね」と返すと、彼女は雲の中へと消えていった。

彼女は私の手に何か握らせていった。それを見る。右の手の平にはデッキに入れる赤いチケット、それがあれば思う存分この先、川や山が眺められる。左の手の平には土色に輝く大きな霊芝があった。

「取り替えない?」 ダンが古銭の本を私に突き出した。

私はキノコを胸に抱いて言う。「ダメ。これは故郷へ帰るための切符なの」



初出:Words without Borders
日本語訳:だいこくかずえ