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第1章 スアム


 スアムというのは、いっしょに育ったいとこの名前だ。思い出せば、スアムとのできごとのしょっぱなは、あまり楽しいことではなかった。そのときぼくらが何歳だったのか、正確には覚えていない。ぼくが五歳で、スアムが五歳半だったか。いまでも目にうかぶのは、ある夕方、二人がならんですわり、父さんが中国語の教科書のむずかしい漢字をひとつずつ棒きれで指していったときのこと。スアムはそれを言わされる。スアムは朝、その字を習ったのに、いま試されるともう、なにも思い出すことができないみたいだった。すわったきり、じっと動かず、口をひらきもしない、スアム。ぼくの父さんは向上心あふれる人で、中国語はむずかしい言葉なので、スアムの勉強をできるだけ早くから始めようと決めていたのだった。
「この字の意味は『野菜』だ。中国語だとなんと読む?」父さんはもどかしげに聞いた。
「チャイ」いとこはすぐに答えた。
「そうだ」と父さん。「じゃあ、つぎの字はどうだ?」
 この字は最初の字より、むずかしそうだった。スアムはおしだまったまま、がらんとした部屋の片隅を見やり、つづいて反対の片隅を見やり、それから、助けてあげられるはずもないぼくの方にあてもなく目をむけてきた。ぼくはまだ、読み方を始めてなかったのだから。
 「なんておまえはバカなんだ!」父さんがスアムをしかった。するとスアムの細い目は涙でいっぱいになり、涙はほおをつたい、なぞめいた漢字の上に落ちた。ぼくも悲しかった。
 運よく、そのときぼくらの母さんたちがやって来て、連れ出してくれた。
 「子どもたちに無理強いしないで」ぼくの母さんが父さんさんに言った。「学校に行くようになれば、どうせやることなんだから」
 これ幸いと、ぼくらは部屋をぬけだした。
 スアムはぼくの同志だった。いっしょに遊び、朝も夜もごはんをいっしょに食べ、どこへでもいっしょにでかけて行った。ぼくらの家には他にもいっぱい子どもがいた。ぼくには三人の姉がいたし、スアムには二人の姉がいた(スアムの父さんさんは死んでいた)ので、ぜんぶで子どもは七人だった。それからメイドのクオリが、部屋係り兼洗濯係り兼子守りのクオリがいた。クオリは子どもたちの中に入れられていた。でもみんな、ぼくら二人より年上だったし、みんな女だったから、役立たずだった。それでいっそうぼくら二人は離れがたい仲だった。記憶にあやまりがなければ、ぼくらはそろってピンクのブラウスにこげ茶の帯をしめ、おそろいのグレーのズボンをはき、同じ黒い革ぐつをはいていた。スアムとぼくは半年しか違わなかったけれど、ふたごにまちがわれる心配はなかった。スアムはがんじょうな体つきをした肉づきのいい背の低い少年で、ほおはふっくら、すべすべとしていた。目は切れ目をいれたように細く、見えないくらい薄くて小さい唇をもち、きれいな鼻の形をしていた。ぼくはと言えば、対照的に、細くて背が高く、大きな目と大きな鼻の持ち主だった。こういうもろもろのことが、二人を離れがたい同志のように仕立て上げ、いつもいっしょに笑い、いっしょに泣いていた。
 ぼくらが朝から晩まで遊ぶ外庭には、お日さまがさんさんとふりそそいでいた。このシンとして広々とした庭に置き忘れられたようなぼくたちを、昼のあいだ、じゃまするものはなかった。暑い日は服をぬいで、裸で走りまわった。ぼくら二人、高い塀に囲まれて遊んだ。近所の人たちから見られることはなく、ときどき野菜を取りにやってくる姉たちやメイドのクオリには見られても、恥ずかしいことはなかった。
 スアムは長くてまっすぐの溝を掘って、その上を、ぼくといっしょに集めた平たい石でおおっていった。溝の一方の端を仕込み穴にし、もう一方の端に煙突をつくった。できあがると、穴の中で木切れを燃やし、煙が煙突からゆっくりと立ちのぼっていくのを見物した。煙が逃げださないように、石と石のすきまはきっちり土で埋めた。それはなんとも素敵な遊びだった。ぼくの父さんがなんと言おうと、スアムはぜったいにバカなどではなかった。かしこくて、いいやつだった。
 あるとき、スアムはトンボのつかまえ方をぼくに見せてくれた。それはこの国の男の子なら知っていなければならないことだった。細いヤナギの枝の両端をむすんで、その輪っかを長い把手の棒にしばりつける。これができたら、クモの巣をさがしにいって、できるかぎりしっかりと輪っかにそれを張りつけるんだ。いいトンボを見つけたら、追いかけていって、網を大きく振りまわす。スアムはつかまえるのがうまかった。網からていねいにトンボをはがすと、トンボの腰のあたりを親指とひとさし指でもって、トンボが自分のしっぽにかみつくまで、体を折り曲げていく。コフキコガネをつかまえたときは、大きくてすべすべした石の上にひっくり返して寝かせていた。そうすると虫は羽をバタバタさせながら長いこと踊っているんだ。ぼくらは、なんて素敵なんだ、っておもってた。
 走りまわるのに疲れると、わらぶとんにすわって日なたぼっこした。外の庭はぼくたちだけの遊び場ではなかった。菜園があり、干上がった浅い井戸があり、大きな納屋があった。塀際にはバルサムが咲いていて、畑には白や黄色の花をつけたキュウリやカボチャやメロンが植わっていた。そこには燃えるような赤い実をいっぱいつけた大きなザクロの木も立っていた。ぼくたちは取って食べたりはしない、すごく渋いからだ。
 家には庭がいくつもあった。六つの部屋と台所と外廊下がある母屋は、広い敷地をぐるりととり囲んでいた。内庭には女たちが住んでいた。ここには小さなアヒル小屋とハト小屋、鉢植えの植物が置かれていた。家の正面にはもう二つ庭があって、木戸のついた低い塀で仕切られていた。右手の方のものは父さんさんの部屋に通じていて、深い井戸があることから井戸庭と呼ばれていた。左手のものは外庭で、高い塀に囲まれ客室が並んでいた。この庭で遊ぶことだけがぼくらには許されていた。
 ある晴れた午後、スアムは遊びをやめて、ぼくを内庭に連れ出し、そこから物置き部屋と呼ばれているぼくらがめったに入ったことのない部屋に引きいれた。ぼくは夢中でスアムにしたがった。スアムのすることはいつだって素晴しくわくわくすることだったから。ちょっとの間、スアムは大きな食器棚の前に立って、つやつやした茶色のつぼをじっと見上げていた。そのつぼは前に見たことがあったけれど、何が入っているかは知らなかった。スアムはクッションをいくつか取って積み上げると、食器棚によじ登ろうとした。ぼくは下からスアムが登りやすいよう手を貸した。朝鮮のクッションは丸太のように長細かったから何度もころげ落ちたけれど、スアムはてっぺんに手がとどくまであきらめなかった。しばらくそこからスアムは降りてこなかった。何かを吸っているような食べているような妙な音をたててつつ。ぼくは何を見つけたの、と聞いた。それには応えず、そのまま降りてこない。やっとのことではちみつを持っておりるから、とぼくに告げた。右手をつぼにつっこんだまま、左手でつぼを抱えてすばやく降りようとしたのだが。ああ、なんということ、クッションがころがり落ちてぐらついたスアムは、バランスをとろうとして、そこらじゅうにはちみつをふりまいてしまい、黄色いおいしそうな蜜はほとんどなくなってしまった。それでもぼくは、スアムの手をなめまわして、それからしてやったりと逃げ出した。疑われないようできるだけ始末してから。
 その夜、ぼくらはやったことの見返りこうむった。ぼくらはもう布団の中にいた。スアムは母親の寝室に、ぼくは自分の部屋で寝ていた。とつぜん、誰かがぼくらを呼んだ。甘いメロンかナシでもと期待しながら、母さんの大きな部屋に入っていった。ぼくらを迎えたのは、あたたかな歓迎ではまったくなかった。部屋係りのクオリが、厳しい顔つきをした母さんの目の前で、クッションをひとつひとつ調べていた。クッションを渡されて、スアムはろうばいのまなざしでぼくを見た。スアムのおばさんが食器棚に登ったかどうか聞いてきた。スアムは何も言わない。竹の棒を取りあげた自分の母親をおそろしい顔でにらんでいた。スアムのおばさんは、ありがたいことに棒を使わなかった。かわりに平手打ちを右、左と二人のほおにくらわせた。とても痛くて、ぼくは声をあげた。スアムはだまったままだった。裁きをせいいっぱい受けとめているみたいに見えた。泣きもせず、反抗もせず。それから、やさしくぼくの手をひいて部屋を出た。