真夏で気温は高く、どこに行っても人だかりができている。
アジアではもっと暑く、いつも人に囲まれていたはずなのに、なぜかその頃よりも疲れやすくなっていた。
朝起きて、何を見に行くか考えることが、わくわくすることだったのに、次第に面倒に感じるようになってきていた。
とりあえず、近くの教会に行ってみたりするものの、重厚な内装に圧倒はされるけれど、その時のわたしにはくどすぎた。旅を始めてから、あまりにもたくさんの教会を見て、おなかがいっぱいになってしまい、感受性も鈍くなっていたように思う。
考えてみると、どこの国でも、ガイドブックに載っている観光地のほとんどは、お城(や権力者の作った建物)か、教会(又は神社仏閣)なのだ。
キリストにもブッダにも特別な思い入れのない私だけれど、いろんな国を回り、この二人が何千年たった今でも、こんなにも多くの人に影響を与えていることを考えると、ものすごく不思議な気がしてきた。

気を取り直して、美術館に入ってみたら、その混み具合と、余りの展示品の多さにくらくらした。
人にもまれながら、大量の石膏像や、写実的な宗教画を見てゆく。
教会の内装を見た時にも感じたけれど、昔の人の物にかける時間や技術、費用が、現代のわたしの感覚からすると、度を超えている。
これから先、再びこのようなものを作ることのできる時代が来ることはあるのだろうか。
これだけのものを作り、これだけのものに普通に囲まれていた時代の人間を想像すると、その濃さに圧倒される。
コンピュータも工事機具もない時代の人々は、体や頭の使い切り方が現代人とは比べものにならなかっただろう。
当時の人達が、現代のわたし達を見たら、まるで透明人間のように感じるのではないだろうか。

たくさんの展示品を心で消化できないまま、外に出てみるけれど、街の中は街の中で、そこらじゅう古い建物でいっぱいだ。
わたしは、古いものは好きな方だけれど、この時はさすがに街並の古さが重く感じられ、こたえてきた。
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8. 街になじめない時〜フィレンツェ(イタリア)