ich - ni - san - hao!
一、二/你、三、好
反逆の叫び
Rebel yell by 孙元青(Sun Yuanqing / China Daily)
China Daily: 2012-09-21 07:37
デイヴィッド・オデルは北京のパンク創成期にかかわった最初の外国人
デイヴィッド・オデルは、中国のパンクロックは彼がいてもいなくても、発展していただろうと見ている。とはいえ、オデルの貢献なしには、その物語は完結しなかった。
この本は、中国が開放政策を進め、東西の文化の出会いと衝突があらわになった、ちょうどその頃のパンクロックの世界を再訪している。
「これは一つの物語を書いた本です」と、オデルは北京で、この本のプロモーション活動の際に言っている。「これは実話ですが、とても個人的な物語とも言えます。本をペラペラと見ていただければわかりますが、ここにやって来たすべての外国人にあてはまる体験談のようなものでもあります。北京にやって来て、最初に息を吸ったときのような、そういう体験がたくさん書いてあります。故郷の友だちに、こんなだったよ、と話をするような、僕の胸の内にいまも残っている、そういう話です」
今は故郷のテキサス州の高校で科学の教師をしている彼は、この8月に本のプロモーション・ツアーと、チャリティーのパンクロックショーとオークションをHalf the Sky(地方の貧しい子どもたちを支援する慈善団体)と協同で開催するために、北京に戻ってきた。
オークションでは、オデルが中国にいた頃集めたパンクロックのデモテープやCDの売上で、約一万元(1600ドル)の収益があった。
1995年に北京大学への交換留学生として北京にやって来たとき、オデルはどうやってこの地に馴染んだらいいものか、よくわからなかった。中国のパンクバンドの草分け的存在、地下嬰兒楽隊(ディーシャーインアール/Underbaby)のリードヴォーカル高伟(ガオ・ウェイ/Gao Wei)との偶然の出会いが、地元の音楽シーンへとオデルを導いたのだ。
オデルは後にFoundation with Gaoという名のパンクバンドを結成、また、これまでの中国のバンドの中で、最も海外遠征を多く敢行したロックバンドである、脑浊(Brain Failure)のベーシストとしても演奏していた。
本の中でオデルは、「中国のごく初期のパンクロックから、最新のパンクロックまで」の道のりを読者に紹介し、ラモーンズの影響を受けたものからハードコアの政治的メッセージをもつものまで、中国のパンクロックの創成期の発展にとって決定的だったそれぞれのシーンを回想している。
今の北京にはパンクロック専門のスポットがいくつかあるが、パンクが受け入れられていなかった1990年代には、演奏場所を見つけることは非情に困難だった。
謝天笑(シエティエンシャオ/Xie Tianxiao)のようなスタジアムのスターたちが、たった100元で演奏していたんだ、とオデルは昔を語る。「みんなが集まって演奏できる場所を見つけるのが、本当に難しかった。Angel's Bar(1996年から1998年の間、パンクにとって重要な場所だった)に行けば、何か起きるのが見れた。そこでは张楚(ジャンチュウ/Zhang Chu)、崔健(ツイ・ジェン/Cui Jian)、窦唯(ドウ・ウェイ/Dou Wei)といった、最も名の知れた歌い手たちが歌っていた。その後パンクのバンドが演奏し、ヘビーメタルのカバーバンドが演奏する。そして最後に、中国古来の手巻き大麻タバコ片手に誰かが演奏するんだ」
「だからあの当時は、音楽シーンがバラけてなかったね。お金には全くならなかった。チケットも普通はなかったし。入場券がいる場合も、5元から10元くらいだった」
つい1999年頃まで、パンクに当たる確立した中国語の名称はなかった。ペンケ(朋克)からパンケ(庞克)まで様々な言い方があって、ペンケ(朋克)が最終的に広く受け入れられた。中国語では、朋は「友」を意味し、克は「克服」を意味する。それはパンクスたちの音楽を通して声を上げるという精神と、どこか響きあうものがある。
「中国語ではこの言葉から汲み取れるものがいろいろあります。二つの文字に個々のいわれがあるからです。いつもそういったパンクの表現を楽しんでました。英語のパンクには他になんの意味もないですが、中国語にはもっと深いものがあるのは、面白いことです」
オデルは1996年に開催された、最初のパンクの祭典「Punks Not Dead」の運営を助けた。そのときの聴衆はパンクの第二世代になった。
「脑浊(Brain Failure)の初代リードボーカル兼ギター奏者も、あの日群衆の中にいました。あの祭典に触発されて、自分たちのバンドを始めようとしたんです。聴衆の中から次の世代が生まれる、という傾向があったんです。それはどんな音楽集団でも起きていることで、イギリスやニューヨークでも同じです」
オデルは1学期だけ北京に滞在する予定だったが、結局2003年までの8年間、ここに留まることになった。その年、母親が病気になり、その看病をするために家に戻ったのだ。そして母の死後、彼は家族の元に留まる決心をした。
松明は手渡され続け、オデルが再訪したときには、北京は9回目のパンクの祭典を開催していた。
「ここで今、パンクをやるのはずっと簡単なことです。以前よりはるかに受け入れられているからです。小金をもった若い世代がいて、パンクロックのステージに行きます。ファッショナブルって言ってもいいですね」
音楽自体、インターネットで手に入る様々なデジタル・ミュージックからの影響で、スタイルもいろいろに変化している。
「サウンドはちょっと変わりましたね。エレクトロニックの影響が大きいです。音楽は多様化していますし。今となっては、ユニークなパンクを一つだけ選ぶことはできないのでは。どれもがオルタナティブですから」
パンクロックのシーンが確立される一方で、若く経験のないミュージシャンにとっては、パンクで腕試しをするのが難しくもなっている。
「以前は大きな音楽祭はありませんでした。ショーに出かけていって、オープンマイクで演奏して、注目を集めるんです。今は、少し違うんじゃないでしょうか。新しいバンドにとってバンドを始めるのも、有名バンドに出会い、影響を受けるのも容易です」
本を書き終えるのに7年の歳月がかかったと言う。去年アメリカで出版され、来年には中国語版を出したいと彼は思ってる。
「僕はたまたま、その時その場所にいたというだけ。僕がパンクロックシーンを始めたなんて、思ってないんです」
「そんな風にはまったく言うつもりはないです。僕が大声で言いたいのは、自分が誰よりも、中国のパンクロックの大ファンだということなんです」
オリジナルテキスト:Rebel yell by 孙元青(Sun Yuanqing / China Daily)
日本語訳:だいこくかずえ
*中国パンクロックの創成期を生きたガオとデイヴィッドのエピソードと写真、歌詞(デイヴィッドの著書からの抜粋)
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