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中国パンクロックの創成期を生きたふたり

写真01
友との再会:デイヴとガオ・ウェイ、新街口にあるガオの両親の鴨料理レストランの前で(2008年、写真提供:デイヴィッド)

4年ぶりの再会で高伟(ガオ・ウェイ)と顔を合わせたときは、故郷に帰ってきたような気分だった。ぼくの心の兄弟、ガオ・ウェイと彼の家族は、外国人であるぼくを、1995年当時ごく自然に迎え入れてくれた。両親の鴨料理レストランの前に立つガオは、細身のからだに何キロか肉をつけ、黒くて濃い髪を短くおかっぱに切り揃えていた。カーキ色のズボンに白い革靴と襟のあるシャツ、というこざっぱりとした身なりをしていた。新街口(シンジエコウ)の南通りに散らばる、ネオンまたたくファッション街で服を物色する若者たちの一人と見間違うところだった。
(PDF版「Inseparable: The Memoirs of an American and The Story of Chinese Punk Rock(分ちがたいこと:一人のアメリカ人の思い出と中国パンクロックの物語)」by David O'Dell, 6頁より)


アンダーグラウンドというのはいつも、社会の割れ目から芽を出し、そこに根っこを張るものだ。最初に枝を出したのは、ガオ・ウェイの挑発的なシングルヒット「都一样(ドウイヤン)」(すべては同じ変わらない)。この歌は、ラジオに登場した中国最初のパンクソングと言われていた。1990年代半ばの中国の若者たちに、「個人」として生きる意識を芽生えさせる助けをした。
(同7頁より)

デイヴィッド・オデル著「分ちがたいこと:一人のアメリカ人の思い出と中国パンクロックの物語」より

Underbaby, “All the Same”
地下婴儿 , [ 都一样 ]

我竭力掩饰着内心的空虚
勉强支撑着疲劳的身躯
跟着外面变幻的世界
去做顽强的争斗

看着从来没有见过的东西
听着从来没有听到的声音
想着对美好未来的憧憬
然后再看着我们自己
都是一个样

突然有一天
我 脑子乱了
我浑身发热
此时我才感到

地下婴儿
すべては同じ変わらない

心の寂しさ隠すため、あらゆることをやっみた
なんとかかんとか体の疲れをなだめてなだめ
千変万化の世につれて
あがいてもがいてのたうった

見たことないものを見て
聞いたことないものを聞く
素晴らしき未来を夢見て
それから自らに目をやれば
すべては同じ変わらない

一日授けてもらっても
俺の頭は混乱中
体じゅうが燃えている
いま俺は感じた、いま俺はわかった

David O'Dellによる英訳からの日本語訳:だいこくかずえ

写真02
エンジェルズ・バーの地下婴儿(Underbaby)とベースのハオ・ケル(1996年、写真提供:デイヴィッド)

ガオ・ウェイにとって、音楽はすべてだった。そしてほとんど唯一のものでもあった。彼のセカンドヒット「我只有音乐(ウォーチーヨウインユエ)」(ぼくには音楽しかない)は、バンドのデビューアルバムのもう一つのアンセムになった。ガオ・ウェイとぼくは、あらゆる音楽に対する、中でもパンクロックへの深い愛を分かち合っていた。パンクをつくったり聴いたりすることへの想いだけではなく、社会や政治に対する強い意志表明がそこにはあった。中国ではまだ見ぬ思想、「個人という哲学」で多くの人を目覚めさせたい、という焼けるような想いをもっていた。

しかしロックンロールやパンクロックの哲学には、まだ大きな空洞があった。パンクロックは、古びたロッカーである「長髪族」と彼らを象徴する音楽に対しての反逆だった。ギターやドラムソロの才能があって、テクニックのあるミュージシャンによるエリートグループだけが、聴くに値し、録音される価値があると思われていた。パンクの哲学は、そういった古い価値観や能力に対する執着をすべて捨て去っていた。どんなレベルの者も、何か言いたいことがあれば大声で叫べばいい、それがどんな見映えだろうが、どんな音を出そうが、まったく問題なし、という哲学だった。
(同8頁より)




数週間後、ぼくは北京での新しい生活になじんでいった。鼻血にサルモネラ菌、悪臭、ゴミ溜め、たんがからむ咳。多くの西洋人を閉口させるこれらのすべてを、ぼくは受け入れた。問題にすることなく、むしろ、それを楽しんだ。北京は、ぼくの目には何のルールもない場所のように見えた。アメリカの西部開拓時代に戻ったような、生き延びることが蛮行と汚さと創意工夫のごった煮であったあの時代を思い起こさせた。
(同11頁より)




ムーンハウスは中国のアヴァンギャルドな音楽やアートシーンが、出会う場所だった。中国の画家や映画制作者、ロックミュージシャンたちと、外国人留学生とが入り混じるところでもあった。互いの言葉を喜んで教えあったり、安いビールと北京で唯一の本物のフランス風クレープが食べられる店だった。オーナーの1970年代のクラシックロックのコレクションから、客はいつでも好きなものを選んで、小さな再生機でテープをかけてもらうことができた。
(同12頁より)

写真03
ジュリーとカオル(別名ブリティッシュ・ガールズ)とラシード(北大の西門にあるムーンハウスにて。1995年、写真提供:デイヴィッド)
写真04
ごく初期の記録から。1996年ソリューションバーで開かれた北京パンクショーの写真。店主がバンドを静かにさせようとしたが、近所の人々が聞きつけて窓から覗き込んでいる。

ソリューションバーは出入りが激しく、店の外にいる者と合流してどこかへ消えたり、近くのディスコで面白いショーをやっていればそっちに鞍替えした。ピーターはまったく役立たず、早い時間にバーで酔いつぶれていた。突然長髪族が一人でバーに現われ、それから一人、また一人とやって来て、みんな楽器を抱えていた。髪を染めた短髪の子たちも何人か、ふらふらと手ぶらでやって来た。バンドがいくつも来ていて、聴衆はショーを待って飲みはじめた。
(同17頁より)


30秒ほどチューニングをしたかと思ったら、最初の歌がいきなりはじまった。その音ときたらものすごかった。ぼくも聴衆も、時間がとまったかと思った。これがぼくらの耳が、初めて中国のパンクロックを聴いた瞬間だ。
(同18頁より)

Underbaby “How Many Kilograms of Vegetables?”
地下婴儿 , [ 几公斤蔬菜 ]

我们拥有的故事是挫折 手中能抓到的是灰色
我们虽然稀有但不珍贵 我们能量很多但没生活
我们都有一 个共同的目的 我们要在这儿开个会议
那不是领导要讨论的问题 我们要说的是我们自己

都想摆脱这现实的束缚 但回家的路上却饱尝孤独
在世界眼里我们可能默默无闻 我们要体现我们的精神
我们的精神!

地下婴儿
野菜は何キロあるんだい?

ぼくらの人生の物語は敗北に満ち満ちて
ぼくらの手でつかみとれるものはどれも灰色に染まってる
ぼくらが非凡だとしても、そこに価値はない
人生を量ることはできても、ぼくらには本物の人生がない
ぼくらには共通の目標がある
ぼくらはここに来て一つになりたい
政治家たちがやりたがってる議論はどうでもいい
ぼくらが声を上げなくちゃいけないのは、ぼくら自身のことなんだ

この歌はオリジナルで、中国語で歌われ、生な感情と生きることへの切望に満ちている。彼らの音楽は、才能とエネルギーと洞察力、この三つで成り立っている。

ソリューションズバーの外には、この道をトラクターで行ったり来たりしている農夫たちが、車を降りて窓から中をのぞいている。赤いほっぺの家族が汚れたガラス窓に顔をくっつけ、新しいサウンドに聴き入っている。ぼくはここで、西欧からやって来た有名パンクバンドがライブをやっているのを見たことがある。北京の汚い裏通りからやって来た、この3人のパンクキッズにかなう者はいなかった。
(同19頁より)

写真05
ブルース・シュウ・チュワンとガオ・ウェイ、ボーエルカクラブにて(1996年、写真提供:デイヴィッド)

ショーが終わって、ぼくはリードヴォーカルのところに行って、留学生で彼らの音楽に興味をもっていると自己紹介した。リードヴォーカルはガオ・ウェイと自分の名前を言い、弟のドラマーはガオ・ヤンだと言った。

「ぼくらのバンドは、名前が、地下の、、、なんて訳したらいいのかな、幼児、赤ん坊、、わかる?」 ガオ・ウェイは当時、限られた英語の語彙でなんとか説明しようとした。
(同19頁より)

写真06
ガオ・ヤン(左)とハオ・ケル、Baihua'rにてリハーサル(1995年、写真提供:ガオ・ウェイ)

みんなが帰った後で、夜遅くまで残っているのはいつもガオ・ウェイとぼくだった。社会にある問題についてどう感じているか、どんな風にものごと変えたいか、しゃべりあった。ぼくら二人は全く違う文化から生まれたただの男にすぎないとわかっていたけれど、ぼくらの間には共通する何かがあった、自分たち自身を超える大きな何かが。そして自分たちのメッセージを世の中に伝えたいと思っていた。ぼくらは若く、理想家ではあったけれど、人がそういう年齢であるとき、他にいったい何ができる?
(同25頁より)


「ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル」は、セックスピストルズと20年前のイギリスのパンクシーンの成り立ちを描いた、愉快でひねりの効いたドキュメンタリーだ。ぼくらはこの映画を、覚えるようにして100回は見たんじゃないか。「これは中国で起きてることとまったく同じだ!」と自分らに喝采を浴びせながら。ガオとぼくは自分たちを未来の北京の音楽シーンの中のプロデューサーとミュージシャン、マルコム・マクラーレンとジョン・ライドンであるかのように感じていた。
(同28頁より)

写真07
中国青少年の日のライブのポスター:地下婴儿(Underbaby)と麦田守望者(Catcher in the Rye)が初めて一緒にライブをした(1996年、ブルース・シュウ・チュワンによるポスター)

1990年代後半、中国パンクロックの創成期はどんな風だったのか。その現場に立ちあい、自らも深く音楽シーンに関わった、アメリカ人留学生(当時)の回想録から写真とテキスト、さらには当時の代表作の歌詞を紹介します。

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