プロローグ


 祖母がぼくに言った。姉のチーの運命は、「寅年の生まれたその日に、べトナムの僧侶から告げられていたんだよ、三十二歳で自殺するってね」と。僕と祖母は、姉が首をつった、その部屋のベッドにすわっていた。ロープはもうなかったが、カーペットに線香の灰が落ちていて、部屋には祈りの匂いが漂っていた。祖母が僕の手を包んで、低い声でこう訊いた。自分の運勢を読みたくないか、と。それは同じ僧侶によって、二十七年前に書かれたものだった。祖母は僕の胸もとに、しわくちゃで破れそうな黄色くなった巻き物を押しつけた。その秘密は、へその緒の赤い紐で巻きつけられていた。僕はこの過去の世界からやってきた異物を、恐れをもって見た。いや見ない、と言って、僕は仕事をやめ、メキシコの沙漠へと自転車で向かった。




1.
亡命 ー 巡礼



 最初に気づいたことは、タイルが第三世界の人風に、じっとしゃがむ姿勢がとれることだった。タイルはでかくて、ラスタカラーのドラッグ(バイク)に乗った、時代錯誤の雷神。裸の胸をさらし、足は裸足、沙漠焼けで肌を黄金色に輝かせている。メキシコの沙漠を一ヵ月さまよったあげく、僕はサボテンに囲まれた男の一人キャンプに転がり込むことになった。トラックの幌を利用した簡易なテントから立ち上がり、僕の方へ羨ましいようなのんきな様子でやって来た。フィヨルドのように切りたった、筋金入りの荒削りな顔は、風に吹きさらされて、深いしわが刻まれていた。
 乾いた土のような声で、こう訊いてきた。「温泉でも探してるのか?」
 「ああ、アグア・カリエンテだけど、近いのかな?」
 「そうだ、ここがそうだ。二百メートルくらい行ったところだ」
 「そりゃよかった! やっと見つけた」
 男は急に意味ありげにニヤリとすると、もしゃもしゃの長いブロンドの頭を振った。「あの自転車で来るとは、びっくりだな」
 僕はベダルをこいだり押したりしながら、ひとけのない、海沿いの誰も使わない裏道や小さな脇道をさまいよいながら、ここまでやって来た。腹が減ったりノドがかわけば、牧場や農場に寄って、井戸から水をもらい、トルティーヤや卵、ヤギのチーズ、果物などを売ってもらおうとした。どこででも、栄養が補給できた。初めて会ったのに、農場の人たちはグレープフルーツやオレンジを家の庭からもいで、台所から食べものを調達し、1ペソの代金も受けとらなかった。どうしてですか? そう訊いた。セニョール、それはね、とこういう時用の寛容な口調で言う。あんたは自転車に乗って、貧乏旅行をしているからだよ。あてもなく沙漠を旅するなんて、狂気の沙汰だ。貧乏で狂った者から金などとれば、バチが当たる。

 それ以外の要素として、僕が白人じゃなかったから信用した、ということがある。農場の人はこう言った。おまえはブエノ・エルマーノ(いい兄弟)だから、ここの者みんなが好きなんだよ。ベトナミート(ベトナム人)だろ、我らがちっさいベトナムは、でっかいアメリカを1975年にゴルペアした(打ち負かした)じゃないか。でも、僕はアメリカ人なんだ、ベトナム系アメリカ人なんですよ、と大声で返した。そこの人たちはニヤッと笑い、シー、シー、セニョール、と言って牛肉を一枚焼いてくれた。

 タイルが訊いた。「で、おまえ、どこから来たの?」
 「ベイエリアだよ、カリフォルニアの」
 「いや、どこっていうのは元はっていう意味だけど」
 この質問は僕の嫌いなもの、そんなことを訊くタイルがいやになる。でもアメリカ人らしくないから、その気持ちを隠した。これに関して、ときに嘘もつく。誰かに問いつめられると、そうしてきた。用意してあったでっちあげが、つい口から出てしまうこともある。日本と韓国と中国が混ざったアジア人ですよ。いーえ、言葉なんかどれもしゃべれません、古き良き時代のアメリカ英語なら知ってますけど。

 でも今回は、こんな風に訊き返してみた。「どこだと思う?」
 「韓国かな」
 タイルの何かが、僕を真実の周辺にとどまらせた。「アメリカ人だけど」と言ったことが、引っかかっているんだなと渋々認め、口の端で笑った。タイルが言えば、本当らしく聞こえるのだろうが。
 金髪の大男に緑の目でじっと見つめられ、自分がちっぽけでひねくれ者のように思えてきた。それでこう答えた。「おれたち、ちょっとした似た者同士かな」
 でもこれでは足りなかった。タイルは先を訊きたそうに僕を見た。彼の真剣な顔つきを見て、ちゃんと答えなきゃしょうがないなと僕は思う。
 「ベトナムから来たんだ」
 目の端に戸惑いが走った。タイルが低くうなる。胸の奥深くからの吐息。判定のときは過ぎた。タイルは僕に背を向け、サボテンの森に消えた。
 僕はこのキャンプへの侵入者、そこに立って、鳴り響く声を聞いている。チンク(中国野郎)、東洋人、ジャップ、故郷に帰れ、吊り目、ベトコン野郎。十六歳で家出したあと、グリーンカードも持たない不法入国者の姉のチーを、暗い路地で斬りつけ、追いたてて孤立させた、その言葉の数々。悪意に満ちたチクチクする言葉は、チーのベトナム語しかわからない耳に何を残しただろう? 英語を理解しないその耳に。そしてそいつらの境界線の内側で、姉はどんなアメリカを見たのか。
 ある男が言った言葉、受け流すことのできない物言い。「おまえの姉さんは、アメリカ人になりすぎて死んだんだ」

 その夜遅く、深いやぶの中から、幽霊のように現れたタイルは、僕のキャンプファイアーの赤々した火のところにやって来た。僕にうなずいて会釈すると、からだを折り曲げてパチパチいう炎の前であぐらを組む。新しいテキーラのボトルを開け、ひと振りすると、僕にそれを手渡す。僕らは充分な距離をおいて地面に座っていて、ボトルを渡しあうのに、腕を伸ばした上にからだを傾けなければならなかった。
 暖かな砂をつま先でつかみ、ヒリヒリするテキーラを舌にたらす。厚底の月が、木のてっぺんすれすれに出ている。夜空の星が静かにまたたく。僕らはじっと黙って、休戦状態を味わう。

 ボトルが半分になる頃、タイルが話し始める。最初は、心休まる孤独なメキシコの沙漠のことを話す。ここでの生活はシンプルだ、食べものは安いし、酒はいっぱいある。タイルは生活費のほとんどを、手造りのアクセサリーなどで稼いでいる。ブレスレット、編んだ紐、ビーズもの、革小物などを旅行者に売っていた。それが厳しいときは、英語のレッスンや通訳として雇ってくれるメキシコ人がどこかにいる。それにここは国境からさほど遠くはなく、まとまった金が必要になればそこまで行くのも可能。日常のあれこれを聞くうちに、タイルの暮らしぶりが見えてくる。タイルには妻がいて、二人の息子もいた。家族とは九年間、離れて暮らしている。七年前にメキシコに逃れてきて以来、僕は久々に見るベトナム人らしい。

 テキーラが、ボトルの底で指四本分くらいになったとき、こう訊いてきた。「ベトナムに帰ったことはあるのか?」
 「いや、ない。でもいつか帰る、、、行くことになるかな」
 たくさんのベトナム系アメリカ人が「帰って」いた。その人たちの中には、旅行者として帰ることによって、自分たちはもうベトナム人ではなく、ベトナム系アメリカ人だと認識する者がいる。僕らはノドから心臓を飛び出させんばかりにして、故郷に帰り、共産主義体制をなじり、かつては憐れな逃亡者であった自分たちが、今は持ち物の豊かさで勝者であることを見せつける。もう貧困にとりつかれ、漁船にまとわりつく避難民ではない。貨物機からアメリカの大地にこぼれ出て、恐怖に大口をあけ、目をまるくして驚き、飢えて、助けを求めて声をあげる烏合の衆ではない。アメリカが溺れるゴキブリのような僕らを海からつり上げ、食べものを与え、服を着せたあの日々を、時がおおい隠した。僕らは彼らの悲劇から生まれた重責なのだ。僕らは帰る、心の中で、かつての征服者をあざ笑う。今や醜いサルのようなそこの人々は、僕らにはたいして意味のない、安もののアクセサリーや手荷物をだまし取ろうする。僕らの多くは、アメリカで自分を見失い国に帰る。

 タイルが言う。「ナムにいたことがある」
 想像していたことではあった。なんと言っていいかわからず、ただうなずく。ベトナム帰還兵(知り合いもそうでない人も)は、いろんな言い方で、ベトナムを呼んでいた。子どもの頃は、ナムとは何か、どこにあるのかわからなかった。英語を学ぶのに四苦八苦していた子どもの僕にとって、略称は通じなかった。でもその言い方に、その人たちが口にする仕方から、それが重要なものであるとは感じていた。僕が知るべき場所である、と。年を経て、その言い方に、新たな意味を感じるようになった。話し手によって、ニュアンスが変わるのだ。苦痛がまじることもあれば、当惑が感じられることもあった。喪失があり、怒りがあり、感情と感情の狭間をさまよう影が見えた。「ナムに、いた、ことが、ある」。この四語の中に、僕は宣言を、非難を、自負を、要求を、責務を、挑戦を、ののしりを聞いた。どんな風に言われたかに関係なく、僕の心はいつもうずいた。そして償いの気持ちに似た感情から、手に汗をかいた。和解の印として。自責のあらわれとして。詫びの言葉でもあった。

 ぼくがひるんだのをタイルは見たに違いない。もう一回、今度は優しさを込めて言った。

 それを聞いて、今までしたことのないことを僕はした。僕は彼に、深く頭を垂れた。尊敬に値する仲間にそうするように。謝意からの礼であり、卑下からの礼でもある。タイルの喪失と苦しみを僕がわかっていると、唯一伝えることのできる方法だった。

 燃える火を見つめながら、静かにタイルは言った。「許してほしい。きみらの国の人たちに、おれがやったことを、許してほしい」

 夜の闇が僕を締めつけてくる。

 「なんのことだ? タイル」

 「悪かったと思ってる。心の底から謝りたい」と、タイルが小さな声で言った。

 金髪の大男が泣きはじめた。さめざめとした、声なきむせび泣き。ぬぐわれぬまま、涙がこぼれ落ちていった。
 僕はなにか言おうとするが、言葉が出てこない。いや、そうじゃない、どうやって僕がきみを許すなんてことができる? きみは僕の国の人に何をした? でも僕の国の人って、誰なんだ? 僕にはわからない。きみは僕の国の人なのかな? どうやったらきみが、僕の国の人になれる? 僕はここまで生きてくる間ずっと、きみらのことをすぐそばで見てきた。戦争で僕の兄弟がきみの兄弟を殺していただろうかと、きみが思うかどうか、僕は考えてきた。このアメリカの地に僕が植えつけられたということ、それは僕が手にしたもの、それ以外のことはみんな意味のないことだよ。きみの居場所に、この金持ちにして貧乏、寛大にして非情な国にね。僕はきみらの世界を歩いている、注意深く、敬意をもって、気を配って歩く訪問者だ。望んでいはいるけれど、僕がここの人間になる日はやってこないと思っている。僕は根無し草だ、それでも僕はきみや、あの戦争で苦労した人たちすべてから、恩恵を受けていると感じている。だから、僕ら二人のうちで、なんで僕が許す側で、きみが謝る側になるんだ?

「許してほしい」

 僕は答えず、受けつけない。

 タイルの海賊顔がくしゃくしゃになる。小さな子がワッと泣き出す前に顔をゆがめるみたいに。そうはならなかったが、代わりに言葉がどっと流れ出た。支離滅裂な、意味不明の怒濤のしゃべり、酔っぱらいの最初の怒声のような。見知らぬたくさんの顔、風景、殺した人々。タイルはそれをあふれさせ、目の前の炎に吹き込み、僕に注ぎこむ。僕にできたのは、もういい、もういい、と何度も彼に向かって小さくうなることくらい。タイルの秘密を、これからずっと僕は背負っていくだろう。

 タイルはまた僕に許しを請い、僕の方に手を伸ばしてくる。今度のは穏やかなもので、僕は彼の罪をゆるす。僕のものではない赦しを与える。この嘘の赦しを与えることで、僕は自分を超えた大きな存在に身をゆだねている。

 「ベトナムに行ったら」と、行くのが決まっているかのようにタイルが言う。「おれのことを国の人たちに言ってくれ。おれがどんな暮らしをしてるか、言ってやってくれ。おれの亡くした家族のことを言ってくれ。本当にすまないと、伝えてくれ」

 僕はタイルに一番栄えある贈りものをする。僕らベトナム人がする最高の、そしてたった一つの贈りものを。そこには、あらゆる悲しみや苦痛を、奈落の底へと、ゴミを捨てるように投げこめる。与える者の内に、奈落があるならば。僕が彼に贈ったもの、それは沈黙だった。





2.
ナマズ ー 夜明け


 僕はベトナム系アメリカ人の男。ワークブーツを履き、中肉中背で、恐ろしげな顔をしてるわけでもない。映画に行ったり、カフェで小説を読むのが好きだ。この先の人生で、一つだけ食べものを選ばなければならないとすれば、迷うことなくイタリア料理をとる。とはいえ、豚のあばら肉(背中側の小さめの骨のところ)をヒッコリーで燻したものや、ニューオリンズ・ガンボと言われるスープ料理も、あきらめきれないけれど。それと料理の本を買うのが好きだ。料理そのものよりも。テニスが好き、バスケットボールも、野球も、フットボールも好き。最近は、そう、ホッケーもいい。外野席か家のラズボーイのリクライニングにすわってのことだけど。毎日着てるものといえば、五年越しのリーバイスとどこにでもあるタートルネック(たんすの引き出しいっぱい持っていて、すべて同じサイズ、同じブランド、色はいろいろ)。黄色とか赤、オレンジなどの明るい色は着ない。洗濯のとき、めんどうだから。Gストリング(Tバック)の下着は着ない。ソックスは白か黒のみ。
 僕の家族は1977年9月17日にアメリカにやって来た。僕はそのとき十歳。ベトナム戦争のことは、あまり知らない。うわさ話やわずかな映像を思い出すくらい。アメリカの中学校に入ろうという歳になるまでは、幼すぎて政治状況が理解できなかった。五年生のとき、ジェンキン先生の授業で、生まれて初めて、先生に向かって声をあげた。十八ヶ月のアメリカ滞在で、それなりに英語を学んだあとだった。先生はベトナム戦争の歴史について、解説していた。先生の言った言葉の何かが、僕に行動をとらせたのだろう。僕は先生にむかって、どこかで聞きかじった飲んだくれの言葉を吐いた。アメリカはベトナムを捨てた。アメリカ、せんそう、終わらせない。もう一日ばくだん落とす、ベトコン死ぬ。もう一日だけ。だめだ、アメリカ、家、かえれ。アメリカ、ヨワムシ。ジェンキン先生は真っ赤になった。ボタンをとめた首のところから、ふわふわした金髪のおでこまで、トマトのように赤くなった。先生は僕をたたきたかったに違いない。でもアメリカでは生徒をたたかないと知っていたから、ごめんなさいと言わなかった。手を振りまわしながら、先生はこう叫んだ。ちがう、ちがう、きみはまちがってる。そのインスタント英語では意味がわからん。

 それからずっとあとになって、先生の兄さんは戦争で死んだのかもしれない、と後悔の念とともに考えた。戦争が続けば、もう一人なくしていたかもしれない。今となっては、先生にこう言えたらと思う。あのとき言いたかったのは、僕の父さんは戦争のせいで、刑務所行きになったんです、ということだった。僕が声をあげて抗議したのは、南ベトナム人の監獄行きであり、暗く湿った刑務所の部屋であり、むち打ちであり、銃殺であり、ネズミに襲われたり、臭い飯を食わされたことだった。思い出せるこういうことは、何年も時を隔てて、浮かび上がってきたことだ。ひどく生々しく、薄まることのない記憶。

 僕はあのときあそこにいた。1975年4月30日、サイゴン陥落のあと、僕の家族は南へ南へと逃げた。タイに逃れるための舟を見つけたいと願っていた。港町ラックザーの外で、ベトコンは道を封鎖しており、国を逃げ出そうと海岸に向かった約三百人の人たちとともに、僕らもつかまった。女の人と子どもは、男たちとは別翼に、一部屋五十人ずつ詰め込まれた。僕らは湿ったコンクリートの上で、交替で譲りあって眠った。一ヶ月後、子どもと女性は家に帰ってもいいと許可が出て、解放された。男たちは処刑されるか、トラックでジャングルに連れていかれ、働かされた。

 母さんと僕は、父さんを訪ねてミンルオン刑務所や労働収容所に通った。お百姓さんの家族といっしょに、その近くに宿泊し、施設のそばで何週間か過ごした。そうすれば母さんは、父さんが監視下の元、外で働かされているところを見ることができた。見つければいつも、僕は薮の影から父さんを見守った。母さん同様、僕も、そうやってよく見張っていれば、悪いことは起きないと信じていた。近くの森から銃声が聞こえてくる夜には、母さんは朝方まで寝ずに起きていた。それは収監者が処刑される音だった。

 父親の収監から二十年がガラガラと音をたてて過ぎた。日々の出来事や教育、投資や仕事のこと以外の、一線を超える話をすることはめったにないものの、ベトコンの再教育キャンプについては、僕によく話して聞かせた。小さかったぼくに、ひざの上で話して聞かせた冒険談の数々は、この死の収容所の物語に置きかえられた。僕が長男だったこと、僕があそこにいて父さんを見ていたこと、父さんが死の儀式を思って生きていたのを見守っていたことと関係があったのだろう、と思っている。こうやって話された年月のあいだに、父の物語は、僕のものとなった。奇妙なことだなと思う。父と僕はいっしょに何かすることが、あまりなかったから。父と息子のやることをしたことがなかった。キャンプの旅も、釣り行きも、キャッチボールも、公園でホットドッグを食べたり、テレビでビール片手にスーパーボールを見るとかも。その後も、僕が成長し家を出たあとでさえ、父と僕のあいだで、あの頃の話は行きつ戻りつ繰り返された。僕の父、ファン・ヴァン・トンは、貴重な知恵を僕にさずけ、生きることの価値を教えてくれた。

 死のキャンプの最後の日々、トンがいちばんに思い出すのは、沈黙だ。それはトンの胸に居すわるでかい生きもの、のど元に大きな拳を突き上げてくる。ベトコンの収容所の小屋で、トンが耳にしたのは自分の心臓の音だけ。上を見れば、インディゴブルーの空から、部屋に光が漏れていて、きたない床にしゃがみこむ仲間たちのこけた頬を染めていた。五十四人の収監者が、死刑執行の声がかかるのを待っていた。
 
 毎週二回、ラウドスピーカーでその声はやって来る。ときに呼び出しの間に何日かはさまり、また連続してやって来ることもあった。
 毎晩、収監者たちが最後の米粒をこそげ落とし、ブリキ椀からスープを飲み終えたと思うと、コオロギが夜を呼び寄せ、沈黙が部屋を満たす。恐怖と食べたものが腹で酸化された臭いで、小屋は悪臭を放った。いつも誰かがもどした。
 トンの心は泥沼をさまよった。インディゴがさらに深くなると、その歩みも最終地点に近づき、二つの感情が浮かび上がる。それは妻への気持ちであり、子どもらへの想いだった。多くのことをし残した悔しさ、多くのことを言えなかった悲しみ、多くの予測が裏切られた怒り。
 この刑務所でもっとも仲のいいトゥアン、ヘリコプターの操縦士がトンにすり寄ってきた。しゃがんだままの姿勢で、トゥアンはトンの方にからだを傾け、耳にこうささやいた。「トン、約束してくれないか」
 トンはトゥアンの肩をぎゅっとつかんだ。1975年12月17日のことだった。もしやつらが今夜、トゥアンの名前を呼べば、彼は死ぬことになり、約束は無駄になる。VC(ベトコン)はトンを二、三年のうちに解放するだろう、とトゥアンは思っていた。トンはトゥアンの最後の言葉を、妻や息子に届けることになる。トンはトゥアンに、死こそが、ミンルオン刑務所から逃れる唯一の道だと、自分が思っているとは言わなかった。
 「約束してくれ」
 「トゥアン、、、」
 「きみはもうすぐここを出られる。奥さんのおじさんがVCの大佐なんだろう、、、つまり戦争の英雄だ」
 「賄賂は利かなかったよ、トゥアン。わたしらは無一文だ。アンは金も借り、持ち物も全部売ったけどな」
 「いや、奥さんは何か道をみつけるさ。アンは賢い人だ」 トゥアンはアンに会ったことはなかった。

 闇がトゥアンの顔をおおっていたが、トンにはこけた頬と大きく見開かれた空虚な目が見えていた。ベトナムが崩落する前、トゥアンは将来有望な軍の経歴をもつ、若くハンサムな将校だった。まだ二十八歳の若さだった。高校時代の恋人と結婚し、息子を一人もうけた。ひどく寒い夜には、収容者たちは暖をとるため、一ヵ所にかたまって過ごしたが、そんなとき、トゥアンは妻の話をした。どんな風に彼女が歩いたか、どんなそぶりを見せたか。他の者たちには意味のないことだったが、ここで彼が手にしている唯一のものだった。それによって、彼は生きていた。

 トゥアンの震える声は、自責の念に満ちていた。「自分がパイロットだなどと、言うんじゃなかった。おれは恐かったんだ。あいつらに、嘘のことを申し立てに書けば処刑すると言われて、気がおかしくなっていた。すべてを書いた。すべてを告白したんだ。覚えているかぎりのこと、すべてを」
 トンはそうはしなかった。
 「タンは、おれが正直者だって言った。そこが好きだってね。おれは空軍での仕事について、書くべきじゃなかったんだ」
 トンはトゥアンに言ってやりたかった。やつらは今夜は名前を呼ばない、きみのところにはこない、きみを罰したりしない、と。でもそう言えなかった。それは嘘になるかもしれなかった。トンはトゥアンの声を聞いていたかった。今夜が最後になるかもしれないからだ。死にゆく者は何か言う権利がある、ここにいる者はみんな死ぬんだ、とトンは言った。たとえ処刑者が今夜、ここにいる者を殺さなかったとしても、遅かれ早かれ、ジャングルで病気になり死ぬことになる。そして地雷原だ。何百という地雷を、シャベルで掘り起こし、取り除くことを強いられる。死はどこからでもやって来る、こっちじゃなきゃあっちから。

 「きみは大丈夫だよ」トゥアンが恐怖に震えながらも、そう言って友を安心させる。「きみは学校の先生だ。あいつらも先生を罰することはしない」
 トゥアンはトンの秘密を知らない。この刑務所でそれを知る者はいない。
 「あいつらはきみをすぐに出してくれるさ。戒厳令を破っただけなんだからな」
 トゥアンはぶつぶつとつぶやいてから黙った。小屋の中には、張りつめた空気が漂っていた。向こうの隅にいた男が、吐いた。ラウドスピーカーが雑音を発し、キーキーと息を吹き返すと、部屋の中でアドレナリンがわきたった。
 「ろくでなしめが」 誰かが暗がりでささやいた。「なんで夜なんだ? どうしてあいつらは、いつも夜に招集をかけるんだ?」
 答えたのは沈黙だけ。
 「あいつらがオレを殺すとしても、太陽のもとでオレは死にたい」と言った男の声には、から元気が満ちていた。「なんで夜ばかりなんだ?」
 闇の中から答えが返ってきた。「あいつらは自分がしてることを恐れているんだ。闇の中で殺した方がずっと楽だからな」
 別の者が言った。「なんの決まりもなし、理由もなし、情けもなし」
 「ベトコンのやり口なんだ。オレはやつらを知ってる」 年老いた声が言った。それは漁師のクオンの声だった。六十代の男だ。十五年間を、政府軍に身を捧げてきた人物。
 最初の声の男が窓の外にむかって叫んだ。「腰抜けめが!」
 「黙れよ」と別の震え声が響く。
 「そうだ、黙れ。やめないと、もっと酷いことになるぞ」
 みんなが黙れと言うので、言い出した男は腹をたてた。恐怖をおびた男の声は、叫び声になった。「おまえらみんな、臆病者だ。ニワトリのように殺されるのを待ってる。おれは殺されるとき、ひざまずいたりしないぞ。頭のうしろから打ち抜かれるなんてしない。引き金をひく男の目を、じっと見てやる」
 クオンがそれに答えた。「そりゃ無理だ。暗いからな。暗くて何も見えない」

 ラウドスピーカーが鳴り響いた。「名前が呼ばれたら、小屋の外に出てくるんだ」 なんの前置きもなく、買い物リストを読み上げるように、名前がずらずらと読み上げられた。「グエン・ヴァン・トゥン、ドー・ナン・アン、トラン・トゥルク・ダン、、、」
 小屋を悲鳴のようなうめきが貫いた。部屋の隅にいた男が、床の上で身悶えしていた。ラウドスピーカーがとどろいた。「ヴォー・バー・サン」 ああ、よかった。その自動車整備工の名ではなかった。
 「レイ・ティン・クオン」 漁師の男だ。「ディン・イェン・タン」 豚農場の男。「ヴー・タン・カイ」 町で商店をやってる男。やつらは、政府と関係のあった地域の地元民全員を殺そうとしていた。その人たちは、互いの顔を見合っていた。
 トンは友人の顔を見つめた。トゥアンの一族はこの県に何世代にもわたって住んできた。二人は次の名を聞いた。「フオク・トゥリ・トゥアン」
 それで終わった。十三名の名前が呼ばれ、六名がこの小屋の者だった。トゥアンはゴザの上にもどし、そこでまるまって震えていた。トンは友を抱いた。整備工のサンは、ドアのそばにすわり、自分の運にほっとしているようだった。
 警備員がオイルランプを手に、入ってきた。トンは不安の表情を見た。免れたことによる醜い顔を見た。自分の顔にもそれが現れていると思った。死刑囚の恐怖をトンは見た。青白い灯りが屈みこむ彼らの上で、ちらちらと踊る様子を目にした。VCは漁師、農夫、商店主、それにもう一人を連れていった。
 やつらはトゥアンの足首をもって、引きずっていった。トゥアンは抵抗もせず、口もきかなかった。トゥアンはトンに目をくれず、別れの言葉もなく去っていった。VCはいとも簡単に、いとも素早く、トゥアンを連れさり、闇の中に消えていった。

 トンはゴザの上に、悲しみと安堵の入り混じった、惨めな気持ちですわっていた。トンはラウドスピーカーで放送される、VCの審理の宣言を聞かないようにする術を会得していた。いつも同じ文言によるものだった。国に対する違法性の根拠、有罪判決、そして死刑宣告。弁護も、最後の祈りも許されない。ときに何人かは審理がなかった。トゥアンは四番目の審理で、前も後ろも彼と同じ罪状だった。
 長い、長い、静けさが続いた。そして鋭い銃声が十一発、彼方からそのときを知らせる。これで終わった。あとの二人がどうなったか、ここにいる者たちが知ることはない。
 
 トンは夜が明ける三時間前に起きだす。暗闇の中で他の起床者たちが動くの耳にして、小屋から一番に出ようと急いだ。賢い者は、朝のラッシュが始まる前に起きて、便所をつかった。警備が労働に連れ出す前に、全員がトイレをつかうことは不可能だった。
 腹を膨らませた月が、地平線低く沈み、有刺鉄線のすぐ向こうにある警備塔の影をつくる。夜のジャングルから虫の音が聞こえ、地面が冷たくざらざらと裸足のトンの足に触れた。敷地の外では、見張り番たちが周辺をライトで照らしていたが、トンのことは無視した。
 便所は木でできていて、収容所のフェンス内にある浅い池の端に、張り出すように置かれていた。トンはひとつかみの草を引き抜くと、五段あるはしごを登った。その便所はアメリカ映画の西部劇に出てくる処刑台を思わせた。西部劇はトンの妻が好きなものだった。違うのは首つりの柱がないこと、ドアの内の床は、丸い穴があいていることだ。便所の下の水面が、バチャバチャと音をたて、なまずが暴れだした。トンは丸い穴の上にしゃがみ、ことを進めた。なまずはエサを奪いあって、しぶきを上げながら大暴れしていた。はね返りを浴びないように、トンはからだの向きを変えた。そんな風にして、なまずは跳ねまわり、トンは向きを変え、と用を足し終え汚れた草が投げ捨てられるまで続いた。

 トンが小屋にむかって歩いていくと、他の収監者が一人、また一人と出てきて、池の方にむかった。星が地平線のところで、雲に飲みこまれていった。トンは寝床に這いもどり、暖をもとめ、つい忘れてトゥアンの居場所ににじり寄った。トゥアンのゴザはまだそこにあり、夕べの吐瀉物の酸っぱさと鼻につく甘ったるい小便の臭いが漂っていた。
 トンはからだを丸め、自分の毛布とトゥアンの毛布をしっかりとからだに巻きつけた。風が藁葺きの壁から忍びこみ、頭皮の上で冷たいさざ波をたてた。トンが寝返りを打つと、隣のダンとぶつかった。収容者仲間のダンは、まったく動かなかった。死んでしまったのかもしれない。はっきりとは言えないが、それを確かめることはしなかった。ダンが死んでしまっていたとしても、あるいは死につつあるとしても、トンにできることはない。VCが森の中の共同墓地にダンを投げ入れ、土をちょっとかけて終わりだ。

 トンはときどき、自分の世界が崩れ落ちる前の日々を夢想した。1975年4月のサイゴンは、別の人生の始まりだった。あの最後の日々にあっても、自分の良き人生が終わってしまうとは思っていなかった。トンは、軍隊をやめてから三年間、先生をしていた。妻のアンは仕立て屋で、自分の店を持ち、三人の従業員がいた。アンとトンは1972年にアメリカが出ていって、店を閉めることになる前に、一財産築いていた。その金で楽に暮らせたが、二人は仕事を続けた。勤勉だったからだ。家族は三階建ての家に住み、五人の子ども(娘一人に息子四人)を育てた。ベトナムの数少ない中流階級の輝ける一員だった。
 当初はずいぶんと違った。トンの家族は、ベトミン(フランスからの独立を戦った独立運動組織)が北ベトナムを支配した1946年、南へと逃げてきた貧困難民だった。アンの方は、動乱の中でどうにか暮らしていた南部人だった。トンとアンは、どちらの家族からも祝福を受けずに結婚した。雨漏りのする家で、二人はけんかをし、懸命に働き、貯蓄までした。どうにかして、二人は愛も、暮らしも切り抜けたのだ。そしてあのことが起きた。貧困を放逐するできごとだった。以来、トンは後ろ手にドアを閉め、子どもたちを永遠に遠ざけようとした。

 軍に徴兵されたとき、トンは将校から指令を受けた。南ベトナムの年間の大学卒業者が五十人だった時代に、トンはその一人だったからだ。フランス語と英語が堪能だったことから、通訳のポストが授けられた。1967年、その教育のために、ベトナム中部の海岸沿いの都市県であるファン・ティエト県の副主任に就任した。それは準軍事的な役職で、心理作戦を担うものだった。トンは補佐官にすぎなかったが、管理下には二千人の部下を従えていた。文芸作品を書き、愛国思想やアメリカ支持の意見、反ベトコンの主張を放送した。そこで働く者はあれこれ糾弾し、あざけりや非難をばらまいたが、その内容の多くはベトコンを中傷し、行動や理論、寄って立つものすべてをけなしていた。部下たちは村々をまわり、憐れみ深いサマリア人を演じて、好意や忠誠を得るために、百姓たちに手を貸した。
 彼らは百姓を味方につけようとした。百姓たちはどっちが勝つかはどうでもよかった。飢えと貧困に喘いでいたからだ。素朴な農夫や漁師にとって、どちらの体制がより酷いかを判断するのは困難だった。貧しい百姓に金を払い、VCの動きをスパイをさせたりもした。おおっぴらにVCに入ろうとするものを防いだ。南ベトナム軍に入る者を探しもした。VCはアメリカ兵以上に、この宣伝工作員を嫌っていた。VCは政府軍以上に、宣伝工作員のことを嫌っていた。政府の空軍以上に嫌っていた。そしてトンは、そこの司令官だった。

 「起きろ!」 入り口で警備員が怒鳴った。地元のチンピラからVCになった、ホンという男だった。十七歳で、闘鶏のニワトリのように卑劣で、竹のムチのように張りつめた男。ドアの枠にもたれてタバコを吸うと、薄暗がりの中、邪悪な目が火に照らされて燃えた。「くそっ。このくそったれが」 そう言うとそばにいた、父親くらいの年齢の男を蹴った。
 収監者たちは、灰白色の夜明けの中へと、そろって出ていった。敷地の中を並んで歩いていき、兵舎の並びを五つ通り過ぎる。兵舎は伸び放題の草と泥に浸かった波形スレートの建物で、壁には銃の跡が無数にあり、さびが出て、窓ガラスはひびが入り、ほこりをかぶっていた。VCの食堂のところに来ると、少し歩を緩めた。コーヒーと目玉焼きのいい匂いが漂っている。行進隊は駐屯地を出て、泥の道を行く。道は田んぼを通って、その向こうのジャングルに続いている。ジャングルの端まで来ると、道を離れ、そこで作業を始めた。下生えを取り去り、木を倒して、農地にする準備をする。刈った草と木は、巨大なたき火で燃やした。黒々とした煙が空に登っていく。空は鉛色になり、太陽が煙雲の上から照りつけた。

 午前中に大雨がやってきた。温かな涙が、大きな葉っぱでおおわれたジャングルの天蓋をたたきつけ、たき火を消した。雨はトンの背中をたたき、泥の道を打った。灰色の空から、大量の水があふれ出し、止むことなく降りつづいた。ジャングルと田んぼを包囲し、二つを分けている泥道は、延々とつづく広大な灰色の水たまりに支配されていった。空の灰色に染まり、田んぼの茶色に染まっていった。風もなく、雷も鳴らず、空を割る稲光もなく、遠くで鳴り響く銃声もなかった。地平線の向こうから聞こえてくる、大砲のこもった爆発音もなかった。子どもの頃のトンが知る、モンスーンの雨と同じだった。
 トンは田んぼが森と接するあたりの泥道を見た。色あせた黒いパンツをはいた少年が、足首を水につけて両あしを開き、闘いの構えを見せていた。土の色より薄い色味の日焼けした肌が、わずかな筋肉をつつみ、少年の細さをあらわにしていた。上げた方の手には、先をとがらせて曲げた、やりのような長い竹の棒を持っていた。まっすぐな黒い髪が、雨でやせた顔にべたりと貼りつき、まだ子どもなのにふっくらしたところがまるでなかった。地面をにらむ黒目に雨がしたたり、まばたきしていた。じっと固まったように立っていた。足元の水たまりで、雨粒が小石を落としたように穴をあけていた。
 
 少年がパシッと竹の棒で水を打った。そして雨粒が打ちつける空に顔を突き出し、勝利の雄叫びをあげた。突かれたカエルが、断末魔の苦しみでけいれんした。少年は腰につけたズタ袋にしまう前に、戦利品を空につきあげた。その子の見せた誇りの表情に触れて、トンの心に喜びが走った。自分の子ども時代の素朴な喜びや、最初の息子のことを思い出していた。
 自分をじっと見るトンを見返してから、少年は向きを変え、長い裸足の足を軽々と動かして道を離れ、田んぼの方に向かった。雨の幕が少年をおおい隠し、静けさの中、地を打つ雨と、男たちの集団がジャングルを刈る音だけが響いていた。

 革命。あらゆるものが転換したが、何も変わらなかった。トンは草を打ち、少年は雨の中裸足で、カエルを突いた。
 
 雨がやむと、男たちは昼食をとった。ブリキ椀に入った、野菜スープに浸された二握りの米を食べた。切った木はずぶ濡れで、燃やすことができないので、地雷の撤去をするため、また列になって駐屯地に戻った。
 この刑務所は、戦時中は政府軍の駐屯地だった。僻地の前哨基地で、戦闘部隊からはずっと離れていた。南ベトナムの奥地にあったものの、戦後は厳しく要塞化されていた。ニ百メートルに及ぶ緩衝地帯が、駐屯地を包囲していた。地雷が全域に埋められ、クレイモア地雷の印が打ち込まれ、何キロにも渡る有刺鉄線が張りめぐらされ、同心円に堀が刻まれ、繁茂する草やツタ、やぶにおおわれていた。
 収監者たちはシャベルを与えられ(それを使おうとはしなかったが)、土嚢壁のところから始め、外に向かって仕事を進めていった。最初の二十メートル分は、すでに地雷をとりのけ、草を刈り終えていたが、まだみんなは、地雷のあった辺りをそっと歩いていた。VCたちは土嚢壁のうしろで、銃を収監者たちに向けて作業を見守っていた。VCを除けば、その日、危険に身をさらす者たちの誰も、口をきかなかった。
 トンは丸太班のために、まっすぐの道を通そうとしていた。かがんで、草を一房ずつよけて、容器型地雷の黒い引き金棒と球地雷を探した。指で地面を探り、存在を信じていない神に、行く手にパン地雷がないことを祈った。パン地雷は完全に埋まっているので、金属探知機なしには、見つけるのは不可能に近かった。柔らかな土が、ついたひざの下で、トンの心をもてあそんだ。

 トンは二つの容器型地雷を見つけ、十四、五メートルの間隔をあけて平行にロープを置き、その場を印した。次は丸太班の番だ。全員がそこから避難した。
 六人の男が、丸太の両端に結びつけた二本のロープを引いた。班の者は二つに分かれ、間に丸太をはさんで地面を引きずりながら、平行に歩いた。目はヒステリーを起こさんばかりにおののき、用済みの競走馬がと殺場の血の臭いに怯えるように震えていた。二十代前半と思われる若い男が、任務に就くと泣き出した。
 トンは地面に伏せて、頭をおおい、耳を澄ませた。丸太が草をカサカサと鳴らした。丸太班の者たちが、緊張した声で言葉をかわす。爆発音があたりに響きわたった。

 叫び声。一人が自分の腿の深い傷をつかんでいた。血が噴き出した。トンはさばいた豚を思い出し、空腹を覚えた。泥と木の破片が落ちてきた。そして火薬の刺激臭。もう一人の男は子どものようにびっくりした顔のまま、すわりこんでいた。手首から血が噴出し、その先の手は吹き飛ばされていた。
 VCがその二人を他の者と置き換え、新たな丸太を持ってこさせた。任務は日没まで続けられた。

 敷地内に戻ると、濁った池の水面が、暮れなずむ夕日から逃れる雲をとらえていた。収監者たちは水浴びをし、服をそこで洗った。チラチラと水面が光る便所から、なるべく離れた場所だった。
 夕飯は米となまずのスープ。ここの者は明け方になまずにえさを与え、夕べにそれを食べた。そしてインディゴに空が染まり、静寂があたりを包んだ。

 ラウドスピーカーがガサゴソと息を吹き返した。息つまる静けさがそこにいる者たちを、世界から隔絶されたガラスの中に閉じ込めた。
 「名前が呼ばれたら、小屋の外に出ろ。ファン・ヴァン・トン、、、、」
 警備員がオイルランプを持って現れ、トンを暗闇の中へと引きずっていった。

 次の日トンは、標識もない交差点で、軍のトラックの荷台から降ろされた。トラックは青い排気ガスをトンに浴びせると、ゴロゴロと未舗装の道を走り去った。行く手に伸びる分かれ道を見渡し、トンは裸足で、一文無しで、灼熱の空のもと立ちつくした。




日本語訳:だいこくかずえ

「なまずとマンダラ」は、Catfish and Mandala: A Two-Wheeled Voyage through the Landscape and Memory of Vietnam Macmilan (Farrar, Straus and Giroux, Picador)からの抜粋です。

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