公平に閉じていることで開かれている写真

「朱雀正道展 - 受動写真 -」
5月1日(火)〜29日(火)・東京、京橋 INAXギャラリー2

予感していた「ざわめき」のようなものは、なぜかあまり感じられなかった。実物と対面するということはこういうことなのか。受動写真というタイトルやDMの作品紹介を読んで頭に描いていたものと、実際に展示空間の中に立って体験したものとの間にギャップがあった。と思う。でもこれはわたし個人の感じ方、その日その時受けとったものにすぎないのだけれど。何かを見たり体験したりして得る感想というのは、誰はばかることなくそのまま口に出せば、それくらい多様なものであるのかもしれない。

長方形の展示空間の壁に(時に床に)置かれた約30点の作品は、建物や街の風景、空と雲、杉林、この三つの作品群で構成されている。題材にかかわらず、どの作品も時間がとまったかのような静寂感につつまれていた。ある意味でひじょうに平板な写真である。どれも。壁にかけられた写真の、作品世界の向こう側が、ない(見えない)。よく研いだパンのスライサーかなんかで、世界を薄くスライスして壁に張りつけたような感じである。べつに見る者を拒否しているわけではないけれど、招き入れてくれることもない。そういう意味で、見る人によっては「閉じた」写真に感じられるかもしれない。ただし、閉じているとしてもそれは、だれに対しても公平に閉じているということである。美術通にも、写真通にも、文学通にも、これらのものと無縁の人にも、1階の本屋さんから階段をのぼってたまたまギャラリーに入ったような中間的な人にも、また日本語を解する人にも解さない人にも、平等に閉じている作品のような気がする。だれに対しても特別な投げかけをしないで平等に公平に閉じているとしたら、それは逆説的にオープンであるという可能性がある。そしてそれは究極的な開放の形なのかもしれない。個がきびしく個であろうとするとき、それは一見頑固もののオジイさんのように閉じて見える。が、その頑固もののオジイさんは、町に越してきたカンサス出身の留学生やザンビアから仕事を求めてやって来た若者や、不登校の子どもたちと、町のだれよりも心が通じ合っているかもしれないのだ。いったい誰が閉じていて、誰が開いているのか。そういうことを見る人に突きつけてくる写真のような気がした。

朱雀正道さんの写真には、1点2〜3万円くらいの値段がついている。ギャラリーの外に価格表が貼ってあった。買えない値段ではない。作品の大きさも全体に小さめで、中にはかなり小さいものもあり、部屋に飾るのに良さそうである。ただし、どこにでも似合うというものではない。一見、さりげないような雲や空の写真も、おそろしく「オシャレ」である。ギャラリーで見ているとそうは思わないかもしれないが、自分の家の壁にかけたところを想像すると、これらの作品が並々ならない緊迫感をもったものであることが思い知らされる。この日帰りに寄って食事をした上原のちょっとおしゃれなインドネシア料理店の広々とした壁には、モノクロームの写真(ヨーロッパの町の風景など)がギャラリーのようにずらりと飾られていたけれど、たとえばこのような店に置くにも朱雀正道の写真は「オシャレ」すぎて無理がある。建物や街を撮った写真の中のいくつかは、本当にためいきが出るくらい「オシャレ」である。こんなオシャレなものは服でも、家でも、本でもそうは見たことがないぞ、というくらいのものである。

では、どうすればいいの、この作品とつきあうには?どうしてほしいの、この作家は? そう思われたなら、とにかくINAXギャラリー2に行って自分の目で見て作品と出会ってほしい、とこの文の書き手は思います。そのことが長々と書いたこの文を無化してしまい、まったく別の、作品とビュアーの新しい関係を生んでくれたらなあ、と期待しながら最後のリターンキーを押します。



2001年5月18日(金)午後1時
大黒和恵・editor@happano.org


追加原稿
『杉のもつ意味について』

山尾三省の「アニミズムという希望」という本を読んでいて、この写真展の杉の写真のもつ意味にはたと気がついた。写真展では入口左の壁全部を使って、12点の杉の写真をひし形に集合させて展示してある。長四角の展示室の他の三方の壁は、渋谷の街と壁、空と雲で占められている。実は杉はこの三つの要素の中でわたしがもっとも近づきがたかったものである。また杉という被写体のせいなのか、撮り方の問題なのか、杉の写真は他の街や空の写真とはずいぶん表現が違うように思えた。写真のシロウトから見ると技巧らしい技巧も感じられない、そのままの杉林を普通に撮ったように見えるので。一見、誰が撮ってもこれに近いものは撮れそうな写真なのだ。あるいは何故作者がこんなにも熱心にこの被写体を撮り続けたのかがよく見えない写真。その杉がこの写真展の中核であるかのように、12点をひとつの壁に集めて展示してある。

杉の意味するものが「土」ではないかと思ったのは、山尾三省の本を読みはじめて間もないときのことだ。本の中で三省さんは、人間にとって土は欠かせないものと書いている(この本は琉球大学の講議録なので実際には話したこと)。35億年前に海から陸に上がりはじめた生物がいて、そういう陸上生物の一つである人間は、陸という場、つまり土なしには生きられない、だから土は人間にとって根源的なものであり、深く本質的なものである、と三省さんは言う。確かに人間はここしばらく自分が陸上生物であることを忘れていることが多いかもしれない。土を身近に感じたり、陸という場を自分の生命の根源であると思って愛を感じたり、などということはほんとうに少なそうだ。

代々木公園の杉林を1年くらいかけて撮ったという杉の写真シリーズ。この写真群が小さな展示スペースの中のひとつの壁をまるごと使い、全体でひとつの写真と見えるような集合的な展示をしているのは、杉が、街や建物の壁、空や雲に対して、「陸」であり「土」である役割を果たしているからではないか。そう思うと、展示全体がとても納得のいくものになるのだ。ここで土である杉は、建物の壁や空、雲に対して、圧倒的に生命的な存在である。無機的に撮られた壁や空や雲が、杉という土の命を感じることで、まったく違う輝き方をしてくるような気がした。あたたかで、少し切ない空気のかたまりが、あの展示室を漂っているのが感じられた。

杉の写真を朱雀正道さんがどう思って撮ったか、わたしは知らない。だからこれらの解釈は作者の意図とはまったく関係のないところで起こったもの。でも作者がこのことに無自覚であったとしても、杉がこの展示の中で「土」を示していることはありえると思う。少なくとも、わたしは8割くらいの確率で間違いない、と今の時点で信じているのだけれど。

2001年5月29日(火)午後12時

参照:朱雀正道「デカルトの墓地に咲く花--- ある写真論 」(ことばの断片 #17