山道が登っていこうと下っていこうと、優先的に水は通り路を選ぶ。つまり最も低く最も近い路を通るということ。地溝が狭いところでは、またシエラの峡谷では石のひと投げもない狭い谷があるから、歩きでも馬でも一番いい道は、水路の上の曲がりくねったものとなる。松の実を宿す地域は別、そこには峡谷に沿って草の芝地がつづいている。松の森では、短葉のバルフォアマツやシエラ高地のムラヤナマツが、陰気に、何千年もの降り積もる年月そこで根を張り続け、静まり返って、心鎮めるときを過ごしている。黒松の林やモミの細帯地域からやって来た山道が、その間を無造作に通っていく。登りながら振り返れば、黄褐色の谷、青くきらめくビターレイク、遠くの山々にかかる柔らかな雲の幕に目を見張るだろう。その風景ひとつひとつに、松の枝振りが見映えのいい額縁をつけている。そのあと松はすっかり視界を包囲し、あなたの足跡を隠し、無頓着にあるいは何か隠された悪意でもあるのか山道を消し去りながら、不思議な見映えで近づいている。最後に高見の風吹き渡る小山に出て、それがどうなっているのか見るまでは、松の並びにじれったい思いをもつかもしれない。松の木は開けた道を、川岸を、小川のほとりを分厚い隊列で登って来る。水湧く泉の開けた湿地に、古い氷堆石の上に群がるように、泥炭沼の縁には円を描くように、静かで透明な湖のところでは一度別れて再会し、雨裂溝の石壁をよじ登る。荒れ狂う嵐の扉に持ちこたえながら、苦痛に耐え、腰をかがめ、雨乞いをする背の高い司祭、そのような松である。春風は乳香より香りよい花粉煙を舞い上がらせ、雪の上にしみをつけながら、山々の祭壇に振りかけていく。この作業について春風は、われわれ人間よりずっとよく知っている。そう、誰よりも知っている。乾燥が続いた年の後に、「さあ、来て、雨乞いをしましょう」と谷間の教会の聖職者たちが言う。木をもっと増やすために祈ろうというのだ。

 即興詩という宝をわたしたちが絶滅させてしまったのは残念なことだ。緑の森を見下ろす岩の頂上にぽつんと座っていると、魂が松たちのイリーアスを歌って高く舞い上がる。松に声はないけれど風の息がある、松の声なき歌が高いところへと昇っていく。ところが水は、その勢いを見せつけるように、急ながれきの道筋を、雪解け水の吐き出し口を、激しい水流で暴れまわる若い川を降りていき、歌い、叫び、滝のところで大声を上げ、その騒ぎは森のとんがり帽子の頭上をはるばる越えてここまで聞こえてくる。遥か上の山の司令塔から、小さな渓谷でどのように水が呼びかけ、松と出会うかが見える。牧草地で水たちは、切り立った囲い壁を求めて手探りで進み、壁を見つけてやっと川となり流れていくことができる。そうやって松の森が水に出会えば、どれだけ喜びをもたらされることか。

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