川にはイシガイや白い根っこが食用になるアシがあり、芝の草地ではジョイントグラスの塊茎が取れる。最盛期はすべて春である。山の斜面では夏場の成長が種をもたらす。斜面の高いところに一枚葉の松(アメリカヒトツバマツ)があって、油脂分の多い実がなる。母子が頼れるのはこれくらいのもので、それも霜や雨の恵があってのこと。それ以外のことは、狡猾さには狡猾さで、巧妙さには警戒心で対処し、ツラレミアにかかったガァーガァーいう野鳥の群れや、プロングホーンやオオツノヒツジやシカに対しても用心を怠らなかった。それというのも、白人支配者の流入でライフル弾と弓矢が多量に行き交ったことで、動物たちは凶暴になり、狩られる恐怖を増長させていたから。この荒んだ時期、無秩序で剥き出しになったこの土地で、女たちが次々に征服者たちの餌食になっていったことも、容易に想像できるだろう。

 リトル・アンテロープに一匹の雌犬がいて、道に迷ったのか捨てられたのか、人里離れた寝ぐらで子を産んで育てていた。子たちに餌をやるためあたりを漁っていたが、その様子はこそこそと卑しく、昔人間にひどい目にあわされたのか人を恐れ、痩せて、哀し気だったが、子たちにとってはかけがえのない母だった。わたしはセヤビが、この雌犬のような日々を送っていたのではないかと思っていた。セヤビは何も語ろうとしないから、わたしがそう思ったとしても許してもらえるだろう。パイユートの人々には、最も状況の悪いときにも、切り詰めて暮らす才能があった。イナゴ、トカゲ、見知らぬ草などで生き抜くことができた。当時はどんなことだって試されたに違いない。出会った頃のセヤビは、長いことかけてそのような生活術を自分のものにした後だった。息子のためには知っている以上のこともし、そうすることに価値があることも学んでいた。

 わたしの暮らす社会では、女の人が髪型を変えると、その人の身に何か大変な事が起きたのかもしれないと思う。パーマをかけたりやめたりといった程度なら、そんなにたいしたことではないと思って大丈夫。インディアンのセヤビは、そういう自分の体験を籠の模様に記す。籠ならなんでも、運搬用、水入れ、背負子(これらは台所用の籠類)と作らないことはないけれど、籠に編み込まれる模様はどれも同じもの。セヤビは底の平らな広口ボールを作り、実に調理鍋も作った。水の漏れない食料籠の中に焼け石を入れて煮炊きするのだ。籠には色の濃い樹皮で、谷のウズラのプラム色のとさかを並べたデザインを施した。この模様は、セヤビが結婚した年の実り輝く春に、調理鍋に編み込んだもの。ウズラがオッパパゴーの麓にある留まり木に向けて二羽ずつ仲良く飛んでいった年のことだ。占領奪略があった後、日常の手仕事を取り戻すことができるようになると、セヤビは以前のやり方で籠作りを再開した。ウズラは戦争時に、ブラック・ロックに何百という群れをなして逃げ込んだので、今も実りある年には姿を見ることができる。凶作の年には女たちは長い髪を抜いてワナをつくり、朝に夕に泉にやってくるウズラを仕留めた。


>>>
もくじ