人間の使用で消え去ったかつての土地の状態を野生植物が取り戻していくのを見るのは何とも面白い。ナボトは草地の中に柵を囲って、屠殺場に行く前の興奮した雄牛が出ないようにしたので、もともと草地にいた常連たちがこぞって自分の生育地に戻ってきた。ずっと昔にインディアンが編み枝材として切ってしまった柳と茶樺の木が川のほとりに戻ってきて、新緑の春にはほっそりと清々しい姿を川面に落とし、茶色い水の流れが長々とつづいて空を仰いでいる。草のない石だらけの場所には、野生のオリーブの木が腕を広げている。枝を絡み合わせ、冬には灰青の、春には光をまとった葉の中でもいちばん、透明できらめく緑の光を放つ葉を宿す。柳や樺やイバラとともに、水際の植物でいちばん恥ずかしがり屋のクレマチスは年々少しずつ這い進んで、やっと村の通り百メートルのところまでやってきた。三年たっても家の近くまでは来ないだろうと踏んで、引き抜いた根っこを庭に植えて実りなき日々を過ごした。この間ずっと、なだめてもすかしても何一つ移植したものが育つことはなかったが、くぐり門の近くの柵の外で、ひっそりこっそりラビットブラッシュの茂みで蔓を巻くものがあり、あまりに密やかなため、蔓を伸ばして花咲かせるときまでその存在に気づかなかった。ニガハッカが柵を通ってやって来て、さらにその下から柵を押し上げているものがある。イバラがニガハッカの下を掘り進んでいるのだ。わたしが草取りに熱心ではないことは認めるけれど、どんなにがんばったところで、リンゴの木の下で夜の蛾を誘う、マツヨイグサの小さな青い月が昇るのは防げない。ここに来た最初の夏、アツモリソウの薮が芝地の用水路のそばに現われた。でもクレマチスも、野生のアーモンドも中までやって来ることはなかった。

 調べようと思いながら忘れていたのは、モーセが義理の父親の羊を飼っていたあの土地で、はたして野生のアーモンドが育ったかということだが、もしそうであるなら、「出エジプト記」に描かれているバーニングブッシュの説明がつく。それは炎の爆発がポッと、何かの啓示のように現われる。葉のない枝で小さな固い赤い蕾は秘かに膨らんでいき、一つ、二つ、三つと強烈な太陽となって広がり、そして隅から隅までひと塊の燃える輝きとなり、歌う炎のようにハチとささやきを交わす。指くらいの太さの小枝が、ピンクの五弁花に被われ手首くらいの厚みにまで膨れ上がり、びっしり密集しているので潜り込めるのは平らな顔面をもつハチたちだけ。この土地の緯度では、霜が長くつづき、野生のアーモンドが充分に繁殖して実りをもたらす希望が断たれることがしばしばあるが、棘のある直根の灌木は植物にとってのたいていの害に抵抗力がある。

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