面白いことに、人間の欲や愚かさによる占有は草地に何の形跡も残さなかったのに、インディアンは残している。それからベエベエ言ってるだけの羊たちも。草地の四隅には黒曜石の矢尻のかけらが落ちていて、子どもたちはそれを拾って歩くし、草地のいたるところに、台所跡と昔のスチーム治療小屋の窪みが残っている。インディアンの集落があった南の端の角には、「フーピー」(リキウム・アンデルソニ)の茂みが単体であって、異種の茂みの中で懸命に身を守っている。そのそばには小さな可愛らしいエノキの木が三本あるが、出生地からどれほど離れているのか、峡谷の東にも西にもいくら探しても他には見当たらなかった。でもフーピー、エノキ、どちらのベリーもパイユートの食料で、熱心に求められ、はるか南、ショショーニの土地のあたりまで行って交換されていた。クリークの川股のそば、羊飼いの野営地があるところに、「ねじ豆」とも呼ばれるメスキートの木立が一つある。ここはメスキートの生育地ではないので、種は羊の毛から振り落とされたに違いなく、いくつかの羊の野営地にある単体の茂みを除けば、南へも東へも二百キロくらいの間、この木が勝手に生えることはない。

 ナボトは草地を最大限に柵で囲っていたけれど、インディアンも羊飼いもあきらめきれず、境界付近に野営を張ったり、枝編み小屋を建てたりしていて、この草地を我が家のように思っていたみたいだ。

 さっきも言ったように、ここはメサと町の間に広がる低地の草地で、小山の一つもなく、クリークが下の農場に水分を供給している湿地帯があって、エノキの木立があって、一番大きいのは人の三倍くらい、それがここで最も背の高いもの。クリークの途中に水門があって供給パイプで水を町に送り込んでいるが、そこから一キロ半上流のところから、長葉の松がキアサージュの麓まで流れを縫うようにして連なって生えている。これが地元の植物学者を悩ましている松で、判別が難しく、シエラ斜面の他の針葉樹とも関連づけられない。インディアンが兄弟愛と神の報いを伝説にして語っている、その松である。古い切り株が川沿いに見つけられるように、かつてこの松は草地を占有していた。それでこの現象は、昔の足場を取り戻そうという松たちのかくれた意図のように見えるのだ。ときに苗木は羊の害を逃れて生育地から十メートルほど下流で育つことがある。わたしがこの草地のそばに住むようになってから、一本の苗木がこっそりと、仲間の苗木をまわりの丘から呼び集めながらクリークの縁にやって来た。伝説にあるように、苗木たちが悪いインディアンで花崗岩が偉大なる酋長であった時代に、苗木たちが逃げて来たこちら側から、谷向こうの「花崗岩の天指す指」に向かって戻ろうとしているみたいにして。今年は夏に川の氾濫が何度かあって、わたしの家のすぐ前までまあるい茶色の実りの球果を運んできた。もしそのときまで長生きしたら、この草地に球果が芽を出して青々と茂るのを見てみたいものだ。

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