一年はだいたいこんな風に進む。松の実の収穫が終わると、部族内の者が南向きの暖かな斜面に集まり、様々な問題を解決する年一度の会合をしたり、結婚や追悼や仇討ちのための薬草踊りをしたり、有用な情報を、たとえばシカがえさ場を変えた話とか、野生の羊がワバンに戻ってきたとか、泉に水があるとかないとかの話を交換したりする。ショショーニたちはここで羊の群れのように集まって冬越えをする。一緒に籠編みをしたり、雪深いところで仕留めた大きな獲物をここまで引いてきたりする。今は戦争もなく、古代からの工芸の多くが廃れてしまったので、この短期的な交流が残っている習慣のすべてである。この孤立した生活が、植物がそうであるのと同様に、自力で何でもする暮らし方をここの人に植えつけている。ショショーニの人はみな、人間の因子のようなもの、子孫を繁栄させたり一族を絶やさない精力を生来持ち、食料や服や家を確保したり、病気を治療したり美しさを生み出したりする能力を備えている。

 雨の季節が過ぎ去ると、人々はエデンの園から東方を旅した者たちのように本能をかきたてられ、自分の連れ合いと生まれた子をつれて鳥が古巣に返るように移動する。ショショーニの土地に春が来ると(なんて優しさに満ちた世界だろう)、香をたてたように靄がたちこめ、ずんぐりした白っぽい薮木は緑のヴェールにおおわれ、銀砂の大地には色とりどりの織物が広がる。冬に降ったわずかな雨のせいで、突然足元がはじけ、数えきれない舌状花の群生におおわれるのだ。絹のような柔らかな毛を生やしたもの、棘だらけのねばねばした葉をつけたもの、あるいはまったく葉のない花々といったものに満たされる。それはたいてい朝咲き、夕咲きの花々で、強力な種まき種である。雨の少ない年は、吹き寄せられた砂の中で身を閉じて生き延びるので、死に絶えてしまったように見えるものもある。大きな嵐が何度も来た年はぎっしりと一面に花を咲かせ、踏みつぶさずには馬で通れないほどだ。そういう年、丘陵地の涸れ溝は、シダ類や伸び上がり絡み合う蔓性植物がいたるところにはびこる。

 メサの夕暮れがアナホリフクロウの求愛の声に染まる頃、沙漠の泉ではハトの哀し気な声に包まれる。薄曇りの朝にはハトたちはつがいの前に、嬉しそうな甘い声を上げるが、ハトが群れをなして訪れるところには水が必ずある。今でも泉のそばで隠れ蓑の薮影から、水を飲みに来たハトをショショーニの人が矢で撃ち落とすのが見られる。

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