コヨーテは頼もしい水の巫子(みこ)だ。土からのほんのわずかの湿り気を察知して、嗅いでは掘り嗅いでは掘りして、見えない水脈を見つけ出す。インディアンでさえ探そうとしないこの地域で、水穴の多くは、丘に住むやせこけた浮浪犬によって発見されている。

 知ったかぶりの口さがない連中の意見では、この丘の民は、冬の雨の終りから次の冬の雨が始まるまでの十ヶ月間を、飲み水なしで過ごすという。でも昼となく夜となく水の路のそばで過ごすわたしのような浮浪人からみると、賛成しかねる意見だ。水の路は、前にも言ったように、セリソーのずっと奥の方でうっすらと始まった何本もの筋が、白く踏み固められた一本の太い路となって、泉へと続いている。もしここを通るものがいないとしたら、なんでこの路があるのか。

 ウサギや小さな毛皮族が通った形跡のない場所など、見たことがない。ほとんど人の目に触れていない水穴探しの探検に出るとき、道がどこか目印となる方向にむかって進んでいるあいだは大丈夫、でももし、行く手に大きな角度で交わる道が出てきたら、進むべき方向へと進路を右へ、左へと集めていくこと、地図にどう書いてあるかとか自分の記憶には頼らず、そこにある道を信じること。道こそが頼り。

 日中のセリソーはしんと静まり返り、白く踏みならされた路の跡がなかったなら、何もない沙漠の見映えそのままだろう。乾季には日射が強くなり、来る日も来る日も照りつける光にさらされ続ける。ときどきどこかでコヨーテが、物悲しげな尾をひくような遠吠えで仲間に合図を送っているが、午後の早い時間は他に生きものの気配はない。始まりはタカたちが、小動物の行き来するセージの草むらの上を、スイッーと滑空するとき、それが合図だ。

 わたしたちは野生動物のことを、時計の歯車のように決まりきった行動規範の元で暮らしていると思い込んでいる節がある。野生動物というのは夜行性だから、などと言ったりするわけだが、夜間の方が食料が得やすい場合は多分その通り、でも日中にもっとたくさんの獲物を見つけたときは、それに合わせて行動することもよくわきまえている。そしてその熟練した狩りは優れた視力とそれに勝る嗅覚、鋭敏な聴覚、そして人間よりよほど優れた音や映像の記憶力に負っている。寝ぐらから出てきたコヨーテをよく見て、今日の「殺し」のあてはどのへんか、心を巡らしてみては? コヨーテがどうやって行動を決めるのかわからないだろうが、心を決めたことは見てとれるはず。トットッと早足で歩いたりパッと走り込んだりしていたかと思うと、すっと止まって空を見上げ、目印を探し、進路を少し変えつつ、前進、後退を繰り返して行くべき方向へと舵を取る。切り立った崖がせまる険しい谷合に住むわたしのところのコヨーテが、右へ左へと頭を崖側に傾けて、山の稜線から引き出された長い長い山道を登っていく姿が目に見えるようだ。

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