それはとても役に立つわけだけれど、いったいどうやってそれをインディアンは見つけ出すのか、どんな本能や偶然によるものなのだろうか。キャットニップをいつ食べるべきかネコはどうやって知るのだろう。西部育ちの牛はなぜロコ草を避けるのか、よそ者の牛は知らずに食べて気が狂う? 飢餓の年にパイユートが野生のパースニップを草地の隅で掘り出して、それを食べて死んだ、ということを思い起こす人もいるかもしれない。そして死がもたらされることを即座に自ら学び知った、と。でも死の苦しみの中、食べたことを後悔しながら、いったいどうやって動物の脂肪が解毒剤として最も効果があることを知ったのか。それにジョイントパイン(Ephedra nevadensis)のエキスが、見た目は液汁など全くなさそうなのに、胃腸障害に効果があると、誰がインディアンに教えたのか。でもとにかくインディアンはそれを知って、そのように使っている。これを複雑な文明社会で使わなくなった、本能の衰えのせいと見る人もいる。よく覚えているのは、名前も使い方も知らないイェルバマンサの草湿地に初めて出会ったときのこと。何か効用がありそうだった。冷たい手触りのつやつやした葉、汁の多いピンクの茎、それに果実のような花。ちょっと触れた感じ、気配、啓示、そこから何に使うと役立つのか知るべきだった。わかるまで放っておくのは気持ち悪い、と思っていた。それは音楽家が、自分のよく知る楽器を手にして、未知の力を感じるようなことだ。長い間の疑問に答えが見つけられたのは、セニョーラ•ロメロがわたしの火傷した手に湿布を貼ってくれているときだった。

 低地の湖から村の堰へと下ったところ一帯に、マツバハルシャギクの金茶色の花弁が見目麗しく咲いている。その花は小さな岬や川の中の小さな島に、ほとんど無柄の幼根をもつ葉っぱを水に浸して、根を下ろしている。花々は茎を打つ早い流れに始終脅えつづけ、ぶるぶると震え、溜めこんだ力を吐き出して、今まさに発射しようとしているみたいだ。水路のゴボゴボいうおしゃべりが意味ある言葉になりそうで、そうはならないのと同じに。マツバハルシャギクは広い範囲に見られるけれど、多量に生えて平凡な植物となることはなく、たぶん毎年同じ場所で見つけられるだろう。耕作地まで降りてくるもう一つの湖の住人は、赤オダマキ(C.truncata)である。日陰以外とくに求めるものはなく、でも夏の暑さの中では異常にはびこって、原生の優雅さを失う。このあたりで非常によく見られるランと言えば、偽アツモリソウ(Epipactis gigantean)、自分の味方となる植物が充分に生育している水辺ならどこでも顔を出す花である。窒息するような環境でこそ繁茂する植物のように見える。

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