10.水辺のこと

わたしはインディアンがローンパインの山につけた名前が好き、とてもあの山に似合っていると思う。オッパパゴー、涙を流す人。その山はシエラの堂々たる山並みから東のところにひっそりと佇み、古くてまるくなった小さな丘の塊の上から顔を出し、どこかの顔見知りにいそうな女性の面持ちで、頭を垂れ悲しそうな顔つきで、今は亡き家族の草むした塚を眺めている。美しい額の下に並ぶ二つの灰色の湖からは、絶えることのない白い流れがこぼれ落ちる。「イツモ、マハラ泣イテル」 インディアンの友ウィニナップは、いかついしわの頬に太いうねを刻みながら言ったもの。

 山の小川の始まりは涙の始まりに似て、頭で理解はできても不思議さが残る。川はいつもどこかから流れ出しているけれど、その始まりを目にすることは少ない。ここの谷では、霜からの滴りがほとんどない季節でさえ、水の流れが止まることはない。昼の時間たえまなく水をほとばしらせ、一晩中氷の下でチリチリと小さな音をたてる。耳を雪の上につければ、とぎれることのないこもった水音が、峡谷の積雪の下五、六メートルのところから聞こえてくる。そして春の本格的な雪融けよりずっと前に、雪橋(スノウ・ブリッジ)の垂れ下がった端が、その滴りの通り道に跡をつける。それを探しに出てみようとする人がいたなら、水が湧く直接の出所を見つけるかもしれない(雪融けの蒸気で溝が掘られた丘の斜面のどこかで、水が渦巻いている砂利底のどこかで)。ところがその後、六月か七月にキャンプの季節が来ると、高山からの季節外れの雪粒の冷たい滴りの他には水の補給源はないように見えるのに、川はいっぱいに満ちて走り歌をうたう。しばしば高山の湖の冷たいお椀から、川は自ら流れ落ちることがある。また丘の斜面で泉として現れたりもする。そこから緩んだがれきの下でする水音を追っていけば、どこか近くの水たまりに行き着くだろう。ただそれでは湖の発生は説明しきれない。


>>>
もくじ