べトナム出身のアメリカ人作家による自伝的小説

著者:レイ・ティ・イェイム・トゥイ
翻訳:だいこくかずえ
私たちみんなが探してるゴロツキ

The Gangster We Are All Looking For

本文より抜粋:

「ヤシ」より

 父さんは夜遅く仕事から酔って帰ってきた。それで母さんは父さんからキスされる気分じゃなかった。でもそのあと暗がりの中で、母さんがキスもできないほど、こんなに酔っぱらってと怒った。「口はどこだ?」と父さん。「そこは肩よ」と母さん。「口はどこなんだ?」「そこはおでこ。そこは反対の肩」「口はどこにある?」「もう寝なさいってば」 そう言って母さんはそっぽを向いた。
 次の朝、母さんはベッドから起きず、父さんの朝食をつくらなかった。そして夜、母さんは夕食を焼け焦がした。「なにやってんだ?」と父さんが訊くと、母さんはくちびるをさして「これがわたしの口。見えないの? わたしの口はここにあるの」と言い、「こっちじゃないのよ」と言って肩をたたいた。「ここでもないし」と言って耳の上を指した。
 そして何が理由かわからない大げんかが始まった。

 二人が部屋の中を動きまわりながら、大声を発しものを壊しまわっているとき、わたしは浴室にこもって、浴槽に水をため、下着を脱いで中に入り、世界最高の暑さの日に海につかっているふりをした。海の中で、潮水にからだを浸けて完全に潜ると、最初聞こえていた二人の声が、聞こえなくなった。わたしがからだを沈めていくと、波が耳をおおい、頭を水から出すと、母さんの声が聞こえた。「あなた、前はこんなじゃ、、、」 そこでまた水に潜ると耳元で波がくだけて聞こえなくなり、また頭をあげると、父さんの声が入ってくる。「つかれたよ」とか「どうしろっていうんだ」 それから頭を沈めようとすると、母さんがさえぎるように「もういい」と言った。そして恐ろしい静寂があたりを包み、それを聞かなくていいように、浴槽に水をもっともっと溜めていった。
 大げんかをした後、両親はなんとかわたしの機嫌をとろうとした。マーはポーチを脇にはさんで市場まで行き、オレンジやサトウキビを買って家に持ち帰った。バーはポケットから氷砂糖を取りだして、キッチンの台で小さく割った。二人ともこんな風に言った。「ほら、こんなものみつけてきたよ」 まるで地面から掘りだしたか、空から降ってきたものを、たまたま手にしてわたしのために持ち帰った、とでもいうように。


‥‥‥‥‥‥‥その日の昼、戦争ごっこをしたので、塔にはユーカリの実がそこらじゅうに散らばっていた。手を伸ばして一つ実を手に取り、かじってみた。苦かった。わたしが放り投げると、地面に落ちて歩道をころがっていく音が聞こえた。「シャツを脱ぎたくなった」 わたしが友だちに言った。「そうすれば」と友だち。「隠すものがあるわけじゃなし」
 わたしはシャツを脱いでまるめて枕がわりにした。友だちはわたしの後ろで、父さんの木の仏像みたいに脚を組んですわっていた。そして壁によりかかり、指でつき出たひざをたたいていた。
 わたしは目を閉じて、もし好きなようにできるなら、いつもシャツなしで走りまわり、昼は木に登ったり、夜はこの塔で眠ったりしたらどんなだろうと思った。わたしが眠っている間に、空が髪の長い女の人の後ろ髪みたいに黒くなり、またたく星がその髪につけられた小さな白い花になる。一晩じゅう、わたしを起こそうとユーカリの木が球果を落とし続け、ヤシのてっぺんの葉の中から、茶色の鳥が羽をつくろう音が聞こえ、砂色の鳥たちは身を寄せあいゆっくりと眠りに落ちていく。
 友だちがわたしの髪に手を触れたとき、うとうととしていた。彼女が顔をわたしに近づけた。「ちょっと、ぼうや」 友だちはそう言った。「裏も表もおんなじ、あんた男の子みたい。.......の弟みたい」と言ってわたしの名前を口にした。

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「私たちみんなが探してるゴロツキ」より
 わたしにとって、父さんの顔の最初の記憶は、南ベトナムの軍のキャンプの鉄条網に縁どられたものだ。母さんの声が金網のフェンスを通って向こうにいく。母さんは名前をささやいていて、そうやって名前を口にすることで、父さんを愛撫している。何度も何度も「アン・ミン、アン・ミン」と、母さんは口に出し父さんを呼び寄せた。その名が一本の木となり、母さんはそこにからだを押しつける。呼び声が温かなそよ風のように母さんと木をつつみ、母さんが自分の名前を口にするとき、それは父さんの名で始まった詩の残りの半分になる。母さんは自分の名前を井戸に落ちていく小石のようにささやく。母さんは父さんに飲みこまれてしまいたい。「アン・ミン、エン・ミイ、アン・ミン、エン・ミイ」
 鉄条網の門が開いて、母さんは父さんの方に行く。からだが熱くなり、母さんの裸の腕にはうっすらと汗が帯びる。信じられないという父さんの目に向かって、母さんは言う。「あたしよ、あたし」 照れくささと緊張感と息苦しさで、両親はいつも初めて会ったときのよう。互いの名前をあじわい、手の骨で顔をおおって、顔の骨格に驚きあう。
 わたしは二人のあとをたなびく龍のしっぽになる。凧のお尻ではためく絹の帯のように、一緒に引かれていく。


 わたしたちはカリフォルニア州サンディエゴのリンダ・ヴィスタの町に住んでいる。1940年代に建てられた軍の公営住宅に住んでいる。1980年代から、この公営住宅はベトナム戦争から逃れてきたベトナムやカンボジア、ラオスからの避難民たちを住まわせている。ここに来たとき、わたしたちは魚の骨をキッチンのディスポーザーに捨てません、という誓約書にサインした。
(中略)
 よその町に通じている大きくて長い通り、リンダ・ヴィスタ通りには新しい軍の住宅がある。そこの住人たちが庭の芝生に水をやっているところや、子どもたちが敷地内の通路でピンクの三輪車に乗って、行ったり来たりしているところを見かける。ヴィクトリー・スーパーマーケットで食料品を、フードスタンプ(食料費補助券)ではなく現金で買っているところも見た。ケリー公園ではピクニックをして、水鉄砲で水をかけあっていた。学校でそこの子たちは一番人気があって、一番見映えがよく、一番成績がいいように見える。卒業アルバムを見ると、ベトナムやカンボジア、ラオスから来た子たちの方が数は多いのに、わたしたちは重要な存在とは見られていない。学校でわたしたちは「ヤン」と呼ばれる。それはある年、ラオスから集団で来た子たちの苗字がみんなヤンだったから。軍の住宅の子どもたちは、避難民の子たちを誰であれヤンと呼びはじめた。
 ヤン、ヤン、ヤン。


 その写真が送られてきたとき、マーとバーが喧嘩をはじめた。バーは玄関から水槽を投げ出し、マーは家じゅうの皿を割った。二人はもういっときも一緒にいられないと言った。
 マーの妹がベトナムからその写真を送ってきた。固い封筒に入ってやってきた。それ以外は無意味とでもいうように、他には何も入っていなかった。マーはその写真を両手でつかんでいた。そして泣きはじめた。「子どもに」と泣きながら何度も言った。マーはわたしのことを言っているのではなかった。マーは自分のことを言っていたのだ。
 バーが言った。「泣くな。おまえの親はおまえを許してくれてる」
 マーはそれでも泣きつづけ、あんたのヤクザな手でわたしに触るなと言った。バーはぎゅっと両拳を握りしめて、壁を打った。
 「どんな手だ、どんな手だ」とバーが叫んだ。「そのヤクザもんを見せてみろ、そいつの手を見せてみろ」  
 わたしはそのなぐる手をなぐる手をなぐる血に染まる手を見る。
 マーはキッチンにいる。窓の網戸をバンと引きあけた。敷石めがけてそこにあった食器類、お皿、カップ、飯椀をバンバン投げつけている。マーは食器を、あてもなく空を飛んでいく鳥みたいに送り出した。食器がみんな壊れるまで。そして「フーッ」と満足げに息をつく。
 わたしは玄関前で息を飲んでいる。破壊と流血の中で息をしている。バーが水槽に両手を突っこんだとき、水にうっすら血が滲んだのに気づく。「ヤクザもんはどこだ、ゴロツキはどこだ!」とバーが叫びながら、玄関の外に水槽を投げだしたとき、わたしは跳ね散る水を飲み干し、色とりどりの熱帯魚がわたしの舌の上を滑り、喉を通っていくのを全部飲みこんだ。熱帯魚たちが地面に打ちつけられ、太陽に瞬きする白い目だけ残して土をかぶることがないように。
 わたしの喉には、割れた皿で切ってしまった手という手と、円を描いて泳ぐ魚たちがいる。そこは血だらけだから、魚たちは何も見えない。
 バーはトラックに飛び乗ってどこかに出ていった。
 大きくなったら、わたしはみんなが探してるゴロツキになってやる。


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「鳥の骨」より
 十六歳になった年の秋、わたしは部屋の窓から飛び出し、家から逃亡した。夜の街道が黒い川の流れのように、長く曲がりくねって伸びていた。街灯が両脇に並び、わたしが走りぬけると頭を垂れた。車が進入路のところでじっととまっていた。歩道の端にはゴミの大缶が並び、朝の収集に備えていた。路地で喧嘩する二匹の猫が、突然叫び声をあげる他は、静かな夜だった。わたしは喉から心臓が飛び出すまで走った。そして道の真ん中で立ちどまり、自分の吐く息を聞いた。寒くなってTシャツから腕をぬいて、自分のからだを包み暖をとった。わたしは裸足で、手ぶらで、葉っぱのように小さくて軽かった。道がリボンを流したように四方八方にのびていた。わたしは片足をあげ、それからもう片方をあげた。道という道を駆けめぐる準備ができた。


 父さんにまつわる噂話は、得体の知れない俗っぽいものが多かった。わたしの父さんになる前は、南ベトナム軍のやせっぽちのガキだった。ヘロイン中毒だった。ゴロツキだった。闇市でアメリカのたばこを売っていた。女の子をあさりまわっていた。家を飛び出していた。父さんはアメリカ軍で訓練を受けた選定部隊の一員だった。飛行機から飛びおり、何週間もジャングルの中や山中の村に潜入した。父さんの友人たちはまわりでバタバタと、戦争の間も戦争のあとも死んでいったが、どうしてか父さんは手をつきひざをついて、なんとかそこから這い出て生き延びた。
 聞かされていたことから、わたしは父さんはソフト帽をかぶっていると想像していた。それはゴロツキはソフトをかぶっているものだから。父さんは銃を暗い草原に向けている。それは父さんが誰に銃を向けているのか、わたしにはわからなかったから。父さんはわたしがやったように、軽々と素早い足どりで自分の父親から逃げ出して路地へと消えた。そしてわたしがいつか出会うのは、窓のない部屋の隅で、麻薬漬けで冷や汗をかいてうずくまる父さんの姿だった。


 わたしが釣り舟ですわって、父さんが戻るのを待っていた間に何が起きたのだろう。何時間ものことだったのか、一時間くらいだったのか。それとも三十分くらいだったのだろうか。日没のあとのことだった。わたしたちは逃亡するので、闇が必要だった。でも暗闇を覚えていないし、灯りも覚えていない。わたしは舟で待っていて、舟は人でいっぱいだった。でも父さん以外、誰のことも覚えていない。父さんは他の人をそっとよけながら、ゆっくりとわたしの方にやってきた。わたしを抱きあげて、髪にキスをした。泣いてもいないのに、わたしの顔をなで、わたしを抱えた腕を揺すった。岸から離れて、舟は水を切って進んでいったはずだ。けれど水の音を覚えていないし、岸の風景も覚えていない。それは暗かったからなのだろうか。
 それとも、わたしたちが町の灯りを、一度も振り返ることがなかったからなのだろうか。父さんは前を向いて星に目をやり、月を見ていた。月は半分満ちて、半分隠れていた。


 わたしが家を逃げ出してから、両親に電話をしたのはほんの二、三回のこと、元気にしていると伝えるためだった。最後に電話をしたのは空港からで、学校に行くために東海岸に向かうと知らせたときだった。父さんは家にいなかった。母さんは「東海岸? でもあっちは寒いし遠いでしょう」と言った。そしてサンディエゴに残りなさいと、わたしを促した。できない、と言うと、母さんはため息をついた。「あなたがわからない」 そう言った。二人は黙りこんだ。母さんの息を聞いていた。するとまるで電話などしていなかったかのように、わたしが玄関から入ってキッチンで母さんの隣りに立っているみたいな調子で、お腹すいてないの、とマーが訊いた。その質問はなじみ深いもので、母さんが「愛しているよ」と言うかわりに口にするものだ。わたしは行かなくちゃ、搭乗が始まったから、と言った。そしてバーによろしく伝えて、とつけ加えた。父さんがどこに行ってたとしても、帰ったらすぐに、娘が電話をしてきたと伝えると母さんが言った。


 わたしが逃げ出して何年かして、父さんはわたしを見つけようと探しまわった。電話があるなどと思ってもみなかった。電話が鳴ったとき、わたしは流しに立って、青いストライプのボールにスープと水を入れているところだった。受話器を耳と肩ではさむと、父さんがわたしの名前を二度呼び、それから「ヘルプ(助けて)」と英語で、続けて「バー」とベトナム語で言うのを耳にした。
(中略)
 わたしは父さんが困ったことになったと言うのを聞いた。父さんは「困ったこと」を英語で言った。そしてベトナム語で、「わかるか?」と訊いた。「わかる」とわたしは言い、再度「わかる」と言い、さらに「わかる」とベトナム語で三回言った。
 何がわたしを動揺させたのか。父さんの細くて甲高い声のせい? それとも父さんが泣きついているという事実? そして泣き出したこと?
 それとも、わたしが何も、何語であれ、父さんが泣いているのを止めるようなことが言えなかったからか。
 わたしたちの間には、二人がよく知る光景、人々がぎゅうぎゅう詰めになったいくつもの小さな部屋という煙幕がかかっている。自分たちで生きる状況を変える手段をもたないと感じ、落胆し、自分の影に飲み込まれていく人々の群れ。これがわたしの見た父さんの現実だ。父さんは自分を小さく扱い、この世界に自分自身がないも同然だった。わたしの中でさえ、父さんの飢餓感はふくらんでいた。乗り捨てられたパラシュートが、落ちていった人を探して空をさまようように、それはふくらんで広がった。


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「著者あとがき」

 子どものとき、わたしにはトランという正式の名前があった。わたしには姉がいて、トゥイという名前だった。家ではわたしたち姉妹は、家族の呼び名で「ねえちゃん、おちびさん」と呼ばれていた。実際のところはわからないが、ベトナムでトランと呼ばれた記憶はわたしにはない。
 1978年、父とわたしはベトナムを小さな舟で離れた。アメリカ海軍の船に助けられたとき、父は書類にわたしの名前を間違って記した。父はわたしの名をトゥイと書き、生まれた日を1972年1月15日と申請した(父によれば、わたしに名前をつけた覚えはないのだから、忘れたとしても非難されることはないと言っていた)。二年後に母がアメリカに到着して、バーはどちらも間違って書いたと指摘した。母はわたしの生まれた日を訂正した(今は1972年1月12日になっている)けれど、トゥイという名前はそのまま使うように言った。
 わたしの姉、本当のトゥイは、マレーシアの難民キャンプで溺れ死んでいた。母は父の間違いを幸先がいいと受けとった。姉の一部が、わたしたちと一緒にこの国にやってきたと思えたからだ。わたしは姉の名を使いつづけ、それは姉の服を借りて着ているような感じだった。母はその服に二人の(一人はもう死んだ、一人はまだ生きている)娘を見ていた。
 この本を出版するときにわたしは、ベトナム風に「lê thi diem thúy」とフルネームで表示し、すべてを小文字にした(見た目がこの方が好きなのだ)。アメリカでもベトナムでも、この表示はおかしいと言われるだろうとは思った。どちらの国でも、このようには書かない。それでも、わたしにとってはこれがいい。最終的にわたしは、この名前を解体し、復元し、自分のものとして再生させたのだ。
レイ・ティ・イェイム・トゥイ


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「訳者あとがき」

 この作品はベトナム出身の作家、レイ・トゥイが31歳のときに出版した小説です。トゥイは6歳の時、父親とともに小さな漁船に乗って国から逃れました。トゥイの父は、南ベトナム軍の兵士でした。つまりアメリカ軍に支援される南ベトナム側の人間として、ベトナム戦争を戦ったわけです。そのことから戦後は再教育キャンプに収監され、そこを出たのちに、海をわたって亡命することになりました。
 この小説のタイトル「私たちみんなが探してるゴロツキ」は、原題のThe Gangster We Are All Looking Forを訳したものです。当初、日本語では本のタイトルにふさわしくないのではないかと考え、第五章の「ヌオク — 水」を題名につかおうと思っていました。しかし、すべてを訳しおえてみると、原題がいかにこの本の内容をよく表わしているかに気づかされ、思い直しました。
 ここでいうゴロツキとは、ベトナムにいた頃のまだ若かった父親の姿であり、また小説の語り手である少女のなりたかったもの、でもありました。ゴロツキとは、ワルで、はぐれ者で、ヤクザだったりするわけですが、少女の目からは隆々とした光り輝くもの、強さの象徴でもありました。それは父親がアメリカで失ったものでした。
 この本を見つけたとき、ベトナム戦争のとき避難民だった少女が、生き延びてアメリカで小説家になっていることに衝撃を受けました。そしてそういう人がいるのなら、ぜひ本を読んでみたいと思いました。
 この作品は、ベトナムとアメリカ両方のことが、少女の目を通して想像力たくましく語られた小説です。不幸なできごとや悲しみも描かれていますが、全体としては負けん気も好奇心も旺盛な、少女の活発でときに詩的な語り口が魅力になっています。
2013年6月 だいこくかずえ


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