疲れたかんじのお母さんは少しめんどくさそうに、カゴに食材をほおりこんで、だけど、子どもに突っつかれたらにっこり笑ったり。
すっごくスタイル良くておしゃれな男の子が、そばのおばさんとおしゃべりしながら野菜選んでいたり。
そういうなんてことのない風景が、映画のワンシーンのように見えて、自分が旅人の目線になっていることに気付いた。

翌朝は、フェリーに乗ってスタテン島に自由の女神を見に行くことに。
おのぼりさん気分を楽しんだ後、フェリーに乗ってマンハッタンに戻っていく時。
離れた場所からマンハッタンを眺めて、わたしは少しぎょっとした。
まるでプラモデルのような街並。オモチャにしか見えなくて、そこに人の気配は全く感じられなかった。
あの中に本当はたくさんの肉体と、様々な感情がひしめきあっていることが想像できなくて戸惑った。
ある日突然消えてなくなってしまっても不思議ではないような印象。
これまでどんな島を離れる時にもこんな風に感じたことはなかったので、どうしてなのだろうと思った。
視界が隙間なく高層ビルだから?
人の手で作られた、土や緑の混ざらない風景は、離れて見るとこんなにもキッチュで、危うく見えるものなのか。
マンハッタンの風景は、儚いもの独特の魅力を放っていて、刹那的な美しさを感じた。

そして、漠然と、未来の都市というのは、もしかしたら高層ビル街とはかけ離れたものになっているのかもしれない、という思いが頭をよぎった。
摩天楼が、今でいう田舎じみたものになっているかもしれない。
未来の都市は、小な村や集落みたいなものが寄り集まっていたり、建物や道路が自然(植物や石や河川などと)もっと混ざり合っているかもしれない。高層ビル街とセントラルパークのように二極化された街ではなくて。
建物も四角く長い箱形のものばかりではなく、平屋や様々な素材のいろいろな形のものがあるかもしれない。
道も舗装された道だけではなくて、でこぼこしたりくねくねした道を選ぶこともできるかもしれない。
それでいて、それは、現代の田舎町の風景とも全く違うものなのではないか。
私は、ビルの立ち並ぶ風景も、高層ビルの窓から眺める風景も結構好きだけれど、そういうものがいつかレトロに感じられたり、懐古趣味になるのかもしれない。      
 (つづきを読む)

4. マンハッタンの内と外〜ニューヨーク(アメリカ)