まえがき

「ティーカップの中の嵐」。これは俳句をつくるとき、そのエネルギーの昇華を、どうやって型に収めるかを言い当てた言葉ではないでしょうか。日本語で言うところの俳句とは、17音節の形式をもち、ふつうは5、7、5の形で書かれ、季語が入っています。日本には非常にたくさんの俳句の流派があり、伝統を重んじたもの、現代的なもの、形式に厳しくこだわるものがあると思えばこれに反発するものあり、季語さえ放棄するものもある、といった具合です。

日本の俳句界は、大まかに分類すると二つの流派にわかれます。ひとつが「伝統的」流派、もうひとつが「現代俳句」です。たいがいの「伝統的」流派は、俳句は自然物を対象にするものだと信じており、飛行機や電車や自動車といったものには、居場所がありません。ここでは愛に関することも同様にタブーです。この流派に属する多くの分派が、客観的視点に力点をおいた「写生」の方法に同調しています。しかし私が現在所属している三つの「現代」俳句の句会では、定義づけされている対象やテーマを並べていく俳句とはまったく違う、「俳句的なもの」の存在を信じています。私が参加する「寒雷」(英訳すると"Midwinter Thunder"となりますが)という句会では、客観性と呼んでいるものは幻想にすぎず、主観性こそが俳句の本質と信じているのです。たとえ多数派の流派で、「俳句の形式」と「季語への言及」という金言が受け入れられていたとしても、俳句とは何かという哲学的側面から見るなら、様々な意見がある、ということです。

「アメリカ俳句」の句会は、この2、30年間のうちに、実のあるものへと成長してきました。まず数人の著名なアメリカ俳句の詩人たちによって経過的な定義がなされ、その後、自由形式や具体的な季語を入れることへの過剰な思い入れのないものへと、性格づけされてきています。これが日本の多数派流派と異なっているにしても、俳句芸術にとってこの方法論は有効であり、この考えのもとに多くの優れた詩が書かれてきました。

ポール・デイヴィッド・メナのこの句集に収められた俳句のいくつかは、そうしたアメリカ俳句の珠玉の作品として数えられることは間違いありません。たった一度のニューヨーク訪問の経験しかない私ですが、この句集を読んでいる間中、あのニューヨークにまた私自身が立っているかのように感じられたものです。ソーホーの夜明け、トンプキン広場の男とハトの群れ、うら階段できめる今日の夕食、うす暗い通りから眺める月の姿。ポールの俳句には視覚への強い嗜好性がありますが、これがニューヨーク、と思わせる街の音やにおいも同時につかみとっています。一冊の句集として楽しむならば、ここに収められた俳句が、ニューヨークの街をもう一度、新鮮な目と多彩なアングルを通して眺めることや、この街の鼓動と孤独を同時に感じとることを、私たちに教えてくれるにちがいありません。

ドゥーグル・J・リンズィー
1995年10月、東京にて

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