英語話者と日本人の両方にむけて、一茶の俳句を紹介しようと思いこれを書いています。(日本人は一茶の名前やいくつかの俳句は知っているものの、一般的には今、一茶への興味はさほどないと思われます。一方、英語話者の中にも、一茶の俳句を知る人はいるとは思いますが、芭蕉にくらべると知名度も評価も低いと想像されます。)
一茶の俳句を紹介しようと思いついたきっかけは、ナナオサカキによるすばらしい英語訳に出会ったから。ナナオサカキは日本の詩人で、英語から日本語、日本語から英語への詩の良き翻訳者でもあります。英語読者の人たちは、ナナオサカキの英訳により、生き生きとした表現の一茶が楽しめることでしょう。また日本人の読者で俳句そのものや、俳句に使われている古い日本語や俳句的表現になじみがない人たちも、一茶の俳句を英語訳も合わせて読むことで、意味がクリアになりより深い理解が得られるのではないかと思います。
日本の子どもたちが一茶の俳句に出会うのは、ふつう芭蕉よりも早い学年です。一茶の俳句にはスズメのような小鳥や蚊やのみのような虫がたくさん登場します。一茶と生き物たちとの間の小さな世界が、ユーモアをもって描かれています。それで一茶の俳句は、俳句が何かを知らない子どもたちにも身近な作品なのです。
INCH by INCH には45句の俳句とナナオサカキのインタビュー"Cup of Tea, Plate of Fish" がはいっています。45の俳句は、訳者がたくさんの句の中からよくよく気に入ったものをていねいに選んだように見えます。(一茶の2万におよぶ句から五百句を読んだそう)
初蛍 なぜ引きかえす おれだぞよ
First lightning bug this year
Why do you turn away?
It's me, Issa!
Hatsubotaru Naze Hikikaesu Oredazoyo
この本ではすべての俳句が三通りの表現で表わされています。日本語、英語、ローマ字。ローマ字には活字が使われていますが、あとの二つは目を楽しませてくれるナナオサカキの手描き文字です。手描き文字で読む一茶の俳句は、訳者の句への解釈が現われていて、幸せな気持ちになります。
鳴きながら 虫の流るる 浮木かな
Singing high ---
A cricket on a log
floating down the river
Nakinagara Mushinonagaruru Ukigikana
もしこの句を日本語だけで読んだとしたら、わびやさびの心を感じてしまうかもしれません。(わび、さびの説明は難しいですが、こんな風に言えるでしょうか。もろくはかないもの、あるいは短き命への愛/想い、あるいは自分やこの世から離れ、去っていくものへの惜別の念というように) ところが英語でこの句を読むと、もっと別の感情がわいてきます。愉快で楽しげな気持ち。こおろぎが気持ちよさげに歌いながら、川下りを楽しんでいる光景を想像してしまいます。あなたはどちらでしょうか?
どちらの可能性もこの句にはありそうです。訳者のナナオはどうも後のほうの解釈を好んでいるように見えます。一茶もナナオも、楽天家の素質をもっているように思うのです。
ナナオはインタビューの中で、自分の考えをこんな風にのべています。
ナナオ:芭蕉にはリアリティがない、と感じることがあるんだけどね。一茶のほうがずっとあるね。
ナナオ:芭蕉には革命的な資質を感じますね。位の高い武家の生まれで、教育を受けていた。受けすぎていたくらい。もっと無教養だったら、きっともっと素晴らしい俳人になってただろうね。
問い:一茶は近代の俳人で民主的な道を開いた山頭火と比べるとどうですか?
ナナオ:山頭火には、ぼくは興味ないね。
問い:どうして?
ナナオ:センチメンタルでしょ、彼は、とっても。いつも自分のことだけ、社会とか世界とか外に広がっているものに関心ないからね。人間以外の生き物にも関心ないみたいだしね。わかる?・・・だからセンチメンタルなの。でもセンチメンタルな詩人も必要だね、世の中には。(笑)いろんな詩人がいていいですよ、それぞれ必要とされているでしょう。
インタビューではナナオの考えはとてもよく出ていて、それは興味深いものでした。俳句(日本のものでも、そうでないものも)に対してのユニークな見方がくっきりと現われています。
よい翻訳というのは訳者が自分と似た感覚をもった著者とめぐり合ったとき発揮されることがあります。著者の気持ちや考えが訳者の内部に入りこんでいって、訳者の心や頭の中で混ぜ合わされるのでしょうか。何かが起こり、輝くような翻訳が生まれます。
我が袖を 草と思うか 這うほたる
A firefly
creeping up my sleeve
OK, I'm a blade of grass
Wagasodeo Kusatoomouka Hau Hotaru
苔清水 さあ 鳩もこよ 雀こよ
From mossy stones
clear water --- ha!
Come on pigeons, sparrows!
Kokeshimizu Saa Hatomokoyo Suzumekoyo
ナナオサカキは今年81才、白く長い鬚と赤いひもで結わえた長く美しい髪の、そしてスニーカーをクールに履きこなし、今も世界の街々を飛びまわる、定住の地をもたない詩人です。今年5月に、ナナオのリーディングイベントでお会いしたときは、詩のリーディングのほかにアイヌやアメリカ・インディアンの歌を聴くチャンスにめぐまれました。ナナオにとってどんな作品や表現も、自身の詩であれ翻訳であれ、また原住民の歌であれ、なんの境界もない同じ地平のもの、という風にわたしには見えました。
この本は一茶の俳句を知る大変いい本であると同時に、創造的な輝きに満ちたナナオサカキの仕事であると言えると思います。このような訳を今までに見たことがありません。一茶を知る人にも知らない人にも、心からおすすめしたい本です。ナナオの翻訳とその考え方には魅了されます。
問い:一茶が農家の生まれであるという背景は、俳句になんらかの影響を与えていますか?
ナナオ:まぁ、少しはね。でもすべてじゃない。わたしたちは経験の奴隷としての自分を見るけれど、そうじゃない。もっと自由でしょ。経験っていうものとは違うところで生きれるでしょ。経験、経験って言う人がいっぱいいるけど、そうじゃない、本当は。経験を超えてね、飛びこえて生きていけるんですよ、わたしたちは。
ほんとうに素晴らしい。わたしは全面的にナナオさんに賛成です。
最後にもう一つずつ、インタビューの言葉と俳句を紹介して、このレビューを終わりにします。
問い:一茶の俳句がもつ今日的な意味とは? 今の時代にアピールするものはありますか?
ナナオ:今の時代、わたしたちはもっとハッピーなこと、もっと楽しいことを必要としているでしょう。だってそういうものを皆なくしているからね。皆疲れて楽しくなさそうで固い表情をしてますよ。ほんとうに欲しいのはユーモアだったり、笑いや微笑みだったり、悪ふざけだったりで、そういうものを一茶はもっているんですよ。
能なしは 罪も又なし 冬ごもり
No talent
No blame either
Now I'm in winter retreat
Nounashiwa Tsumimomatanashi Fuyugomori
テキスト:大黒和恵(6月17日、午前11時40分)
インタビューは1999年、ニューメキシコのコーラルズにある中部リオグランデ分水流域で行なわれました。質問はジョン・ブランディ(表紙の絵)とジェフ・ブライアン(ブックデザイン)が英語で行ない、ナナオも英語で答えています。
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