冬の丘陵地には、人が目にするよりもっとたくさんの生きものが出歩いていて、暖かい季節よりその標しはよく見つけられる。ノウサギの軽々とした走りは落ち葉の地面には何も残さないが、雪の上にはびっくりするほどきれいな足跡を押していく。冬の始まりに鳥たちが松の森から降りて来るのを今か今かと待ちわびたものだ。果樹園や切り株の野を探し、メサの上では北に南に渡ってくる鳥がいないか探し、来なかったのだろうかと心配した。大きな円錐くちばしを持つ小鳥たちが、台所のドアの前でせわしなく餌をついばんでいたり、キツツキが穀物小屋の軒をつついていたり、でも夏の峡谷ではそれ以外の鳥をめったに見なかった。その後、雪の境界地点まで行ってみようと気持ちを募らせたころ、山の通り道で探していた鳥たちを見つけた。密生する松の森には、雪のリースをまとった大枝が重なりあって風防室になっているところがあって、森の住人たちの公共の場になっている。空の仲間たちは松の球果や樹皮に住む幼虫を食べて、そこで冬を越す。大地の仲間たちは、雪におおわれて薄暗いチャパラルの茂みの下を住処にする。山の斜面に、人の背丈より大きくて生け垣くらい厚みのある、常緑樹まじりの頑丈な薮木の隠れ家があるとは、それがどんな風かわかるだろうか。峡谷に降る雪が、丘の複雑な地形の隅々まで埋めつくしてしまうわけではない。こっちに大きく張り出した岩、あっちにバックソーンの堅いアーチがあり、深い雪の下に集会場や通路を行き来する出入り口をつくっている。

 雪の壁越しの光はうすぼんやりと青いけれど、薮木や草の種、木の実は見えるくらい明るく、防風壁は風を寄せつけないので中は暖かい。生きている植物は、中でも常緑の成長過程のものは、熱を発しているようだ。雪の壁面は、陽気が春めく前に、内側から溶けていき厚みが薄くなる。でもこれに気づくのはもっと後のこと。道の上でもその影響は見てとれる。バックソーンの薮がかしいでもたれあい、雪の吹きだまりが薮にもたれ、小鳥たちが晴れ晴れしく陽気に、自分たちの専用通路を出たり入ったりしはじめる。小鳥たちは苦痛のかけらも見せない。仮に冬が鳥たちに多くの試練を与えたとしても、人が憐れみをもつ必要はない。家暮らしの人には、山の暮らしはわからない。快適に暮らそうと努力することが、小さな痛みさえ大げさに感じさせてしまうのだ。野生動物はそれを知っていようといまいと、苦労を苦労とも思わずに自分を環境の変化に適応させる。山の道で起こることは実に巨大だ、この世の創造のように。鳥が、リスが、赤シカが、道ばたで子どもたちが物を売ったり遊んだりしているように騒がしいが、それが何かを邪魔することはない。夏は生きものたちにとって楽しい休暇、でも山の道の主はこう言う。「そろそろ、大事な仕事にとりかからねば、遊んでいるときではない」と。とはいえ主は親切だから、動物たちに日々生きて、一息つける場所をちゃんと残しておく。なにかよほど崇高な計画でもない限り、彼らが押しやられることはない。もしそういう事態になったときは、動物たちは、わたしたち人間にはない高潔さで、それを受け入れるであろうが。

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