セヤビがもっとも輝いていた頃は、旧約聖書に出てくる女預言者デボラのようで、豊かな胸、立派な腰、優れた決断力と落ち着いた話しぶりで、部族の人々から一目置かれていた。男を自分の手で、その才覚で育てる人、それがセヤビ、こんな人は他にいない。町の人々がセヤビに注目し始めたのは、南北戦争のあと数年たってから、まだそこが町になる前のことで、ちょうどセヤビがインディアンの娘から大人の女性へと急速な成熟を遂げた時期だった。でもわたしがセヤビに会ったときはもう、だいぶ年老いているように見えた。インディアンの女たちはあまり長生きしないことが多い。でも見た目は信じられないくらい年老いている。インディアンの女たちには、生活に必要なもの何でも自分たちの手で作って生きていく賢さがあるが、文明社会が生み出そうとする「こぎれいな女」の見映えは持ち合わせていない。セヤビの節くれだった指には、長年の暮らしがつちかった霊的なものが宿り、日々の手仕事の中でそれを絞り出してきたが、今はそれも衰えた。セヤビが小屋の外の日の当たる場所で、ぼんやりと何する気力もなく地面に座って過ごすようになったのは、六十になったと思われる頃。そうこうするうちに集落のお荷物となり、やがて目が見えなくなった。これはパイユートにとっていつかは起こること、そのときが来ても嬉しくも悲しくもない、誰にも起こることだから受け入れられた。集落には他に三人の目の見えない老婆がいて、枝にぶらさがる萎びた果実のようだったが、思い出話を持ち、口も達者だった。日が高くなる頃までに集落から人影は消え、老婆と小さな子どもがいる母親だけが残って、炉端のそばで灰の世話をしていた。寒い日なら毛布にもぐり込み、暖かければ、小屋の外で日陰を探して座った。家のそばからめったに離れることはなく、それは何かあっても互いに助け合うこともかなわないから。とは言えいつも大きなしわがれ声で、噂話や思いついたことあれこれを灰の山越しに投げ合っていた。
そんな風に老婆たちのところで話したり話されたり、一時間も一緒にいれば、どんな本にも、昔話や飢餓の話にも記されてないような人生についての様々なことが学べる。愛を痛みを欲望を、泣き言なしに聞くことができる。よく晴れて静かなメサの午後、風に乗って運ばれてくる誰彼のおしゃべりを聞きつけて、盲目の老婆のひとりふたりがコツコツと杖を鳴らしながら貝塚の間を縫ってやってくるかもしれない。でもセヤビがひとたび毛布の中に逃げ込んでしまったら、その日はもう何も聞くことができない。毛布に潜り込むことだけが、集落ではプライバシー。人生のあらゆる場面が、家の扉から、枝編み小屋の薄い壁から外に漏れる。そこでは笑いだけが人々の緩衝剤となる。インディアンの人々は、早い時期に自分の感情を表に出さないことを学ぶ。頭からすっぽり毛布を被るのだ。パイユートにとって何か自分の身を隠すものが必要なのだ。それは白人が神頼みするときに籠る小部屋と同じ。
それで籠編みのセヤビは自分の毛布をかぶり、集落のどこかの火のない炉端にすわって、来たるべきときに備えて気持ちをしっかりと保ちながら、我が人生を反芻する。死後の世界に大いなる夢を抱いているあなたたち文明人と同じように、人の世の常というものをセヤビも理解しているのだ。セヤビの胸にあるのは、自分は最後の最後まで果敢に生きてきたのだから、コヨーテに生まれ変わることだけはない、という確信である。