沙漠の空気がもつ、神秘に手でさわれるような感覚が、数々の寓話を、中でもまだ見ぬ財宝についてのお伽噺を育む。このがらんとした土地のどこかに、人のうわさを信じるなら、金塊がばらまかれた丘があり、純銀の鉱脈があり、インディアンが純金の粒だらけの土で鍋をつくったという古い粘土層があるのだ。沙漠の縁に吹き寄せられた、このあたりの丘そっくりの色に日焼けした老鉱夫たちなら、さもありなんという小話をいくつも持っているだろう。そして少しの間でもここに滞在した者なら、誰もがその話を進んで信じてしまうことだろう。金塊話にしてやられるのと、とぐろを巻かずに横這いで攻めてくる沙漠の小さなツノヘビに噛みつかれるのと、どっちがましかという話だ。

 でもちょっと、ちょっと待って、期待に応えようとつい、沙漠のことを悲劇的な調子で語ってしまったけれど、本当はそんなことはないし、悲劇というのは求めれば求めただけ見つけられるものだけれど、それではせっかくの沙漠の素晴らしさが見えなくなってしまうというもの。シエラ東斜面の麓から始まり、グレート・ベイズンに向かってだんだん高度を落としながら広がっていくこの土地で、元気いっぱいに、燃えたぎる血と心震える喜びを胸に、大西洋岸の一州ほどの広さもあるこの場所に日常の基点を置くことは可能なこと。危険にさらされることもなく、それに、考え方次第ではそんなに困難もなく、日々の暮らしをこなしていけるはず。いずれにしても、伝説のハッサヤンパ(その水を一口でも飲めば、どんな事実もありのままの出来事としてもはや見ることはかなわない、輝くばかりの総天然色の空想物語となってしまうという)を生み出したのは、あることないこと大げさに書きたてるためだけに沙漠に入っていった人々ではなかった。その水を、十五年近くに及ぶ放浪で飲んだにちがいないわたしは、その日々が価値あるものだったと信じている。

 沙漠は人に与える負の代償として、深い呼吸、深い眠り、星々との交流といった対価を与えてくれる。夜の沙漠で人は、カルデア人が沙漠の民であったことの真意に思い至る。澄みわたる大きな天空を星が昇り、沈み、世界をくまなく照らすとき、人の心がその支配から逃れるのは難しい。星々は大きく、すぐ間近で鼓動している。その動きは、何とがめられることない自信に満ち、大切な務めを遂行しているようだ。空の基点を巡りながら星々は、ちっぽけなこの世の悩みを取るに足りないものにする。取るに足りないのは、近くの薮で遠吠えしているやせこけたコヨーテではなく、そこに横たわり空を見上げているあなた自身なのだけれど。

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