ジャンはロイヤルブルーのスーツに魅入られつつ女を見送った。視界から消える前、イリーナは小さく手をふった。「これで今夜、彼女はわたしのもの」
ホテルに戻ると、魅惑のジャーナリストからの伝言が待っていた。まちがいない、彼女の気持ちの表われだ。作家は悦にいった。文学っていうものは、こうして何か幸せなことを、いや幸せな人間をこの世に生みだすものなんだ。
ジャンはパリに残っている妻のことを考えた。生まれて初めて妻を(機嫌をそこねることなく)だまそうとしていることに思い至った。嘘偽りなく、今まで数えきれないほど機会はあったけれど、30年間の結婚生活の中で不義を働いたのは想像の中でだけ。リスボンで開催されている「文化とは:問われるヨーロッパの良心」をテーマにしたコンファレンスで、その機会をつかまえてみては? ジャンはどうするべきかわからなかった。彼女との出会いがコンファレンスにスパイスを振りかけたのは確か。でも文学は口実である。自分が司教でないのと同様、見知らぬ女性はジャーナリストではない。彼女は自分をそそのかそうと声をかけてきたのだ。そのことは別に不愉快なことじゃない。
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